旅の空、飛ぶ声言の葉

花巻時間 1

この(2023年)9月22日のこと、岩手県花巻市で授賞式があって参加してきました。
授賞式? 君って、ドアリラつくりと山登りと森の生活でいっぱいいっぱいだったんじゃないの?というツッコミが入りそうですが、筆者は宮澤賢治の読書会・米澤ポランの廣場というサークルを主宰してもいるのです。
この6月、その賢治作品の読書会活動に対して賞を与えると連絡が入ったのです。しかも、何と宮沢賢治学会イーハトーブセンターから。びっくりです。
それにしても、です。単に、好きで賢治作品を読んできただけなのに何で?と思いました。寝耳に水、でした。青天の霹靂とはこういうことをいうのだと思いました。

それで今回のsignalは、題して「花巻時間 1」。その授賞式および当日のプレゼンテーションの内容をお伝えします。

その授与理由にはこうありました。
「1990年の創立以来、毎月担当制で賢治作品の読書会を行って通信を発行し、数年ごとに研究成果を記念誌にまとめ、一般向けにも賢治にちなんだ創作アート展を開催するなど、30年以上にわたって宮沢賢治に関する研究と発信を続けてきた功績に対して」、と。

今回第8回、2023年度の受賞対象は栃木・宮沢賢治の会と我らと、2団体でした。

副賞のひとつ、「どんぐりと山猫」にちなんだ作品「黄金のどんぐり五勺桝入り」(外山正 作)を頂戴しました。

会場風景。

授賞式は賞状の受け取りと簡単なあいさつをすればよいだろうと高をくくっていたのですが、さにあらず、20分弱で歩みと成果を披露せよとのこと、これが少々負担ではあったのですが……(-_-;)。
せっかく準備したこと、そのプレゼン内容を下に再現してみました。

なお、以下のものは音声の文字起こしではないため、当日のプレゼンそのものではありません。そしてまたこちらの言わんとするところをより正確にするために、当日のものに若干の補足が加わりつけ足しもあろうかと思いますが、それはご容赦です。
下の写真には、プレゼンで使用したスライド用写真のすべてを掲載しています。若干、プレゼン当日のものを加えています。

山形県米沢市から参りました宮澤賢治の読書会・米澤ポランの廣場、代表の本間です。よろしくお願いします。

会の名「米澤ポランの廣場」は、賢治作品の「ポラーノの廣場」から来ています。その戯曲「ポランの廣場」からとしてもよいです。「ポラン(ポラーノ)」の意味は諸説あるようですが、気象学者の根本順吉氏にならって、「ポラリス(北極星)」説をとっています。そこに本拠地の米沢の地名を加えました。
当宮沢賢治学会イーハトーブセンターのホームページのキャッチコピーにあるよう、「そこへ夜行って歌へば、またそこで風を吸へばもう元氣がついて、あしたの仕事中からだいっぱい勢がよくて面白いやうなさういふポラーノの廣場をぼくらみんなでこさえよう」、このレオーノ・キューストのアジテートがカッコよかった。これにちなんでいることは言うまでもありません。

代表の私が賢治をじっくり読むようになったそもそものきっかけについてふれます。
仙台で就職して3年目に転勤があって、気分転換にとフラッと花巻を訪れたのは、1982年の春でした。
自分は少しばかり絵を描くものでしたから、あまやかな匂いのする名前に魅かれて、賢治ゆかりのイギリス海岸などをスケッチしていました。
夕暮れも近くなってきたので、バスに乗って鉛温泉近くの(今はない)花巻ユースホステルに飛び込みました。
3月の下旬のこと、ユースの談話室にはまだ炬燵が据えられてあり、そこに見目うるわしい女性がふたり足を突っ込んでいたのです。ドキドキしました(笑い)。
ドキドキしましたが仲間に入れてもらおうと思って私も炬燵に入り、話のネタにでもなればと思って、描いてきたスケッチを見せたのです。そしたら東京から来たという彼女たちが言うのです。「ここを賢治は“修羅の渚”と言ったんだよねー」、そしてもうひとりが「だよねー」と相槌を打つのです。そんなことは知りませんでした。
聞けば、ふたりとも卒業論文は宮沢賢治だったとのこと。
私が知らない「修羅の渚」って何だろう、その魅惑的な響きの「だよねー」が私を賢治に誘ったというのは言い過ぎではないわけで(笑い)。

ついこないだ、そのひとりと久しぶりに電話で話しました。年賀状の交換だけはしていたのです。
卒論のテーマは何だったのと聞くと、「宮沢賢治における、ほんとうの幸い」だったとのこと、「もう絶対、読み返せない!」と言って大笑いしていましたが。私もつい、笑ってしまいました(笑い)。何と、大仰!(笑い)

それで構想を少しずつあたため、1990年に職場を米沢に移したのを機に開いたのが米澤ポランの廣場、職場の若い人たち5人を誘っての会でした。これがはじまりです。

1990年設立当時、山形県では新庄と寒河江に同様の読書会があったのですが、いつの間に消えてしまいました。

米澤ポランの廣場は月1度の例会をもって、この10月で400回、33年と4か月になります。
これまで、その読書会の様子と次回の案内を載せた「廣場通信」を毎回発行してきました。

開催日はだいたい月の最終週の金曜日として、その夜に集まって賢治作品を読んできました。
みんな仕事を持っており、月の最後に賢治を肴に語り合う憩いの場をと思ったのです。

会員は現在11名、うち現地は6名、遠隔地(リモート)は5名です。
リモート会員についてはのちにふれます。

なんで最初に森のスライドかと言えば、ここが私たちのホームグラウンド、読書会の会場だからです。
この場所で焚火をし、灯かりを点して、賢治を読むのです。

ここは賢治がはばたいたフィールドと同じ場所、東北に典型的な落葉広葉樹林、いわゆるブナ帯です。
夏分はこの野外で火を焚いて、冬場は小生宅の屋内で薪ストーブを焚いて行います。いつもかたわらに火があります。
ここは、賢治ゆかりのヨタカがよく啼きます。ホトトギスが闇夜の中を甲高く啼いて飛び去って行きます。ときにフクロウが、ときにトラツグミも啼いたりします。カモシカがわきを通って行ったりもします。
『ぐりとぐら』の最後の場面よろしく、動物たちみんなが廣場を見つめていたかも(笑い)。
クマも見ていたかも(笑い)。みんなで賢治のおはなしを聴いていたかも(笑い)。
翌朝にはすぐ近くにクマの、気分爽快の落とし物があったこともありましたし(笑い)。

火を焚くのは、虫除けの意味もあります。
が、今年の夏は異様に気温が高く、この7月には大型のカミキリムシが20匹ほども襲来したのには辟易しました(笑い)。

2015年5月の例会で。
春はワラビやアザミやフキなどに鯖缶を入れた山菜汁、秋は芋煮やキノコ汁がふるまわれたり、差し入れのマツタケを炙ったこともあったなあ。
ときに猟師から回ってきたクマ肉を材料に鍋をつつきながらの会もありました。

新機軸と思って、会員が講師を務める特別講座を読書会と合わせて開催した時期がありました。97年5月から99年10月の期間でした。
スライドは特別講座第1回「廣場句会…十七文字の世界」、その吟行の場面です。俳句の得意なメンバーが講師となりました。
廣場通信に、参加者の紹介かねがね句が載るようになったのはこれを契機としています。

同じく特別講座の「精神爽快のひと時、音楽療法の技術」の会。
みんな若い!(笑い)

プレゼンの様子。撮影は会員の山内松吾君。

節目節目で記念誌(50場ごと)を発行、150場(2002年)の記念誌からはエッセーから距離を置いて、作品論を中心としたものにしました。
エッセーは賢治作品を読まずしても(適当にも)書けるけれど、作品論となるとそうはいきません。会は、楽しみにとどまることなく、少しの厳しさも併せ持っていました。

節目節目で記念の行事を催してきました。
スライドは、8年前、25周年(2015年)記念で、創立当時より親交のある千葉賢治の会の赤田秀子さんをお迎えしての前夜祭です。

翌日、米沢市郊外の白布温泉に会場を移して、赤田さんから講話を頂戴しました。
講話題は「尽きせぬ賢治の魅力。キクイモに悩まされた宮沢賢治」というものでした。
賢治は農村経済の活性化を意図して、羅須地人協会ならぬ「羅須園芸協会」設立の構想を持つものの夢破れて挫折、けれども今私たちは賢治からのたくさんの言葉とたくさんのひかりを浴びている、それは幸いなこと、という主旨だったかと思います。

米澤ポランの廣場にとって赤田さんはアドバイザー的存在。
彼女の、「賢治は利用されてきた。戦時中は国策のプロパガンダとして、戦後は民主主義の旗手として、そして今日、東日本大震災では救世主として。でも、そういう使われ方は不幸だ。賢治作品には宮沢賢治という人物から入るひとが多いけど、本当の賢治は作品の中にこそいる」は、変わらずに肝に銘じていることです。

30周年(2020年)記念行事として、裏磐梯への小旅行を企画し、五色沼などを散策しました。
ペンションにて、「火山の現場で賢治の火山の作品を」として、「気のいい火山弾」を読みました。

授賞理由にも記してあった造形展、「色、形、音、光…展●宮澤賢治へのオマージュ」を、15周年記念として、2006年2月に、米沢市民ギャラリーで開きました。
賢治を、言葉ではなく、造形で語ったらどうなのかを会員それぞれの方法で表現して発表したのです。
参加者12名、出品総数73点の中から、そのごく一部を紹介します。

ナカムラの「ゴーシュの木琴」。

物故者の長谷部優(まさる)さんの「リンゴ」。
長谷部さんは2003年7月に59歳の若さで亡くなられましたが、それは廣場にとってあまりに大きな痛手でした。
涙が止まらなかったです。
33年間には、そういうつらい別れもありました。

ヨシダの「林や野原からもらってきたもの」。
みなさんのお手元に配ってある廣場通信の大方のカットも彼女の作です。
その表現力は「マキノマンタロウかヨシダエツコか」と並び称されるほどです(笑い)・・・これは現時点のつけ足し(笑い)

ホンマヨウコの「やまなし」。草木染です。

会場風景。

スナガの「ポラーノの広場のうた」。
取っておいたボタンを音符の頭にして、布に縫い込んで楽譜を忠実に表現したものです。

かつてのメンバーだった(今も廣場を支えてくれている)鈴木理香さんの作品、「風の又三郎」。
米沢市平和都市宣言ポスターに採用された作品です。
彼女は優秀な絵本作家であり、イラストレーター、今は美術教室を開いています。
(賢治祭を主催する)宮沢賢治記念会のみなさん、どうでしょう、来年度の賢治祭のポスターを彼女に依頼しては。ご用命を承ります(笑い)。

これは私、ホンマのコラージュ「賢治逍遥α」。

冬場の読書会の様子、屋内で。

普段の読書会風景を、2階のギャラリー(回廊)から。

1月の例会で、旧正月の当地方の風物詩の、団子木飾りが見えます。
テーブルいっぱいに料理が並んでいるけど、これはみなさんが持ち寄った手料理です。
おいしいものを頬張りながらというのも当読書会の楽しみのひとつでしょうか。

雨ニモマケズ、風ニモマケズ、感染症ニモマケズ(笑い) 、ただの1度も休まずに続けてきた米澤ポランの廣場。
忘年会も兼ねての赤湯の温泉旅館で、マスクをつけ、距離をとって。

そうして読んできた童話(含・散文)は121篇、詩は26篇。
33年間ですから童話にあってはくりかえし読んできたものがほとんどで、もっとも多いものは9回の「やまなし」、8回の「セロ弾きのゴーシュ」、7回の「銀河鉄道の夜」、6回の「貝の火」「双子の星」「祭りの晩」と続いています。
くりかえし読むたびに、またちがった味わいがある、その奥の深さに気づいていく…、それが賢治作品の魅力でしょうか。

作務衣を着ているのは気仙沼在住の会員、その右隣りは千葉在住の会員です。ふたりは2022年の忘年会にはるばる駆けつけてくれました。
はじめに、「会員は現在11名、うち現地は6名、遠隔地(リモート)は5名」と紹介しましたが、米沢に住まっている者以外、米澤ポランの廣場には遠くからの参加もあるということです。
2020年の9月から私の呼びかけにこたえて参加しているのは、気仙沼、山武(千葉)はじめ、仙台、亀山(三重)、屋久島(鹿児島)の5人です。
事前に課題作品を読んでもらって、現地の例会前に感想などをメールで回収、それを現地の例会でつどいの諸君の感想などに併せて発表、そしてそれを廣場通信に併せて載せることによって読書会を共有していくという方法です。
私たちはレポーター制(課題作品の提示、レポートの作成、当日の司会進行)をとっていますので、リモートの諸君も順番になれば課題作品を選択しレポートを作成してきました。司会進行は現地会員が代わります。
リモートの会員の「欠席」もなく、ここ3年ばかり続いてきました。
これも新機軸のひとつでしたが、おおむね成果を上げていると思います。

この(2023年)7月のひとコマ。
ひとり、保阪嘉内がまじっています(笑い)。

プレゼンの最後のひとコマ。

記念誌は計8冊になりました。現在、最終号である9号を編集中です。
授賞の報せは、寝耳に水。そしてこれは、まさしく有終の美となりました。
というのは実は、米澤ポランの廣場はこの10月を最後に解散(散開)することに決めています。
「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」(「農民芸術概論綱要」)の心意気です(笑い)。

もう若くはないので辞めたい、子育てがあって、介護があるので、そして高齢化が進む…、
代表である私自身の思いとしては、10年の日々を過ごせば10年の積み重ねがある、5年なら5年の蓄積があるはず、それは賢治作品を読むということにも通じて、きっと賢治への理解は進んでいるはず、それをひとつの作品に焦点を当てて思いを書き記す、書き残す、それを50場(4年と2か月)ごとに記念誌に発表する、これを会の運営の基本にしてきたのです。こういうことがあるものだから、自然と足が遠のいたり、嫌気がさして辞めていったひともいたはず、でもこの一線はどうしても譲れなかった。

ならばこの先、この方針でこのあと100場(8年と4か月)を見通せるかといったら、それはまったく想像できるものではありません。ならば余力あるうち、400という数字をめざしてみんなで一緒に着地しようという提案をしたのです。それは2年前の正月のことでした。
「賢治は美しい死体のままに目の前に横たわっている」、と言ったのは誰だったか。われわれも美しい身体のままに?、です(笑い)。
そして今日を迎えているというわけです。

今現在、最後の記念誌の編集中です。
11月に記念誌の発刊と散開を記念する会を開く予定にしていて、そこには遠隔地も含めた会員の多くが参上するものと思います。そこで廣場の長い歩みを締めくくりをしたいと思っています。

この度の、功労賞の授与、まことにありがたく、厚く御礼申し上げます。
ありがとうございました。

プレゼンテーションをはじめる前に、授賞式に参上したメンバーに登壇してもらいました。

プレゼンを聴く(用意された最前列席の)メンバー。

授賞式後に壇の前で、記念写真。

栃木・宮沢賢治の会のみなさんと。

次回は、授賞式にあわせてめぐった花巻ツアーのあれこれを中心に紹介したいと思います。
「花巻時間 2」に乞うご期待!

それでは、本日はこのへんで。
じゃあまた、バイバイ!

 

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