旅の空、飛ぶ声

花巻時間 2

今回のsignalは前回の続篇、「花巻時間 2」と題して、授賞式にからめてめぐった花巻ツアーのことなどをお伝えしようと思います。
でも、授賞式がなければ遠くのメンバー3人も交えての一緒のツアーなんて、きっとなかったですねえ。
世の中、意外なことが連鎖していきます。だから、人生楽しいとも言えるわけで。

今回の主な日程は、次のようなものでした。
9月21日(木)/午後、宮澤賢治命日、没後90年の賢治祭参加。
22日(金)/午後、宮沢賢治学会イーハトーブセンター功労賞授賞式参加。
23日(土)の昼に帰りの列車に乗るまで、行事の合間合間を縫って賢治ゆかりの土地をめぐる、というもの。

21日に新幹線で花巻(新花巻)についたのはちょうど正午ごろで、賢治祭がはじまるまでの時間を利用して、まずイギリス海岸に行ってみました。
イギリス海岸というのは花巻駅東方2キロの、猿ケ石川との合流地点近くの北上川西岸を指します。
賢治は、ここが青白い凝灰岩の泥岩が川にそって広く露出していたため、立っていると「イギリスあたりの白亜の海岸を歩いているような気がする」と作品(「イギリス海岸」)に記したのです。
さらに、第三紀と呼ばれる地質時代の終わりの頃にはこの地まで海岸線が広がっていたと考えられることから、ここをイギリス海岸と名づけたのでした。
9月21日は年に1度、賢治の命日にちなんで、上流部のダムや発電所と連携し、放流を抑えて、かつて見えていた川底を出現させようという試みを行うのです。これは行かなくちゃ。

イギリス海岸に立つ標識モニュメント。

この日にかぎってあいにくの雨、ダムが放流を抑えても水量は多く、ご覧の通り(-_-;)。
賢治はここで生徒とともに偶蹄類の足跡標本をとったり、半分炭化したクルミ(今は存在しないバタグルミという種だという)を採取したりしたのです。
しかしそれにしても、賢治のこの、「イギリス海岸」という命名感覚には驚かされます。イギリスそして海岸という言葉を持ってくることによって、何の変哲もない河原風景がまるでマジックのようにファンタジックな場所に一変するのですから。
「イーハトーブ」もそうですよね。賢治のすごさの一端です。

筆者はここに何度来たろう。
1982年の春にはひとり、ここでスケッチをしていたんだっけ。そのとき、幼い兄と妹が遊んでいて、遠くに白い早池峰(はやちね)が光っていたっけ。

午後3時半からの賢治祭はいつもは「雨ニモマケズ」の詩碑前広場で行われるのですが、あいにくの雨で会場は近くの小学校体育館に変更になりました。ということで、賢治祭前に、閑散とした詩碑の地に行きました。
ここにはかつて宮澤家の別荘(賢治の住居)、そう今は花巻農業高校敷地に移築された羅須地人協会があったところです。自分の住まいにこういう命名をするのですからね、すごいです。まさに命名名人。
ラスは諸説あるも不明、チジンは農民でしょう。農民を「地の人」とする、この感覚!

高村光太郎の揮毫(きごう)による「雨ニモマケズ」の詩碑前で。

高台の詩碑広場からは、賢治が住居の玄関口の黒板に記していた「下ノ畑ニ居リマス」の、下ノ畑が見えます。
木立ちのあるあたりが北上川、その手前が賢治の畑だったのです。

賢治自耕の地、下ノ畑に行ってみました。筆者は、ここははじめて。
賢治ファンは命日のこの日に花巻に参集するわけで、ここに足を運ぶひとも増えているよう。
たまたまの居合わせだったか、あるいは待機されていたのか、「下の畑」保存会の方(松田慶邦さん)が停めてあったクルマからスーッと現れて、下ノ畑のくわしい説明をしてくださいました。とてもありがたかったです。きっと待機でしたね(笑い)。
保存会のみなさんはここで環境整備を行い、季節の野菜を栽培したりして景観を守っているということです。
ここは今春に封切られた映画「銀河鉄道の父」の撮影地でもあったそうです。

賢治は農学校の教師をやめて、「ここで陽が照って鳥が啼き/あちこちのの林も/けむるとき/ぎちぎちと鳴る汚いを/おれはこれからもつことになる」(詩「春」)として、農民として生きてゆこう決意するのですが、つくった野菜が売れないからとリヤカーを引いて近所に配り歩いたこともあったと聞きます。これではねえ、稼ぐためのなりわいではないですよね(笑い)。
下ノ畑のすぐそばは北上川、そしてここからは羅須地人協会のある高台も見えますし、ここはよい場所です。

下は詩碑近くの南城小学校体育館、変更になった賢治祭の会場です。
せっかくの賢治祭、私たちは最前列に陣取って参加しました。

祭壇。

下は、花巻小学校3年生による、脚色した朗読「雨ニモマケズ」。

花巻農業高校の鹿踊り部による、郷土芸能 鹿踊り、演目「一番庭」。
賢治に「鹿踊りのはじまり」という名品があるけど、筆者は実際の鹿踊りというものをはじめて見ました。この勇躍する力強いエネルギーはどこから生まれてきたものなのか、感動を覚えたわけでして。

残っていた賢治の父・政次郎と母・イチの録音音声を聴くことができ(音源:IBC岩手放送1952年。解説を、賢治の弟の清六氏のお孫さんにあたる宮澤和樹さんが担当した)、それもよかった。

今年の賢治祭には地元の方を中心に、全国から250人ほどが参集していたのではないでしょうか。
賢治祭の最後は、全員による合唱「精神歌」で締めくくられました。
賢治を愛する者たちにとって、この歌は何よりのシンボル。みなさん歌詞紙など不要に、口をついて出るのですね。筆者もとても好きです。
この歌、実は我が家の墓の一角に、石碑として刻んで設置しているほどでして(笑い)。

宿は、市中からクルマで25分ほどの大沢温泉湯治屋にしました。
大沢温泉湯治屋には、授賞の内定を聴いた6月半ば過ぎには予約を入れていたものです。
この旅館はきっと人気、賢治祭の頃なら早々の満室を予想したのです。しかも、何せここは賢治が幼少より何度も来ていたゆかりの場所、その面影を今に伝えているのですから。
それからびっくりすることに、1泊が3,000円です。その他寝具などの借り賃はかかりますが、あとは自炊するもよし、旅館内にある食堂で安価な食事を3食とるもよし、とてもリーズナブルな宿なのです。
それだから、食事をとって飲んでさえ、1泊7,000円ほどで済んだのではなかったかと思います。
ここに泊まらない手はないです。

仏教講習会で、父に連れられて大沢温泉に来たときの賢治と妹のトシ。1906(明治39)年8月の記念写真。
湯治屋待合室(休憩室)にある写真から。

今年は賢治没後90年、トシ没後100周年の記念の年です。
①賢治、②父・政次郎、③トシ、④講習会講師の真宗大谷派の僧侶・暁烏 敏。

今回の花巻ツアーには、現地会員6名中4名と、遠隔地会員(リモート)の3名も参加しました。
宮城・気仙沼、千葉は山武、そして遠く三重は亀山からも。それはとてもうれしいことでした。

授賞式の前夜祭。旅館内の食堂「やはぎ」にて。

築200年という、古い造りを今に伝える湯治屋の廊下。

大沢温泉、自慢の露天風呂、大沢の湯。
露天風呂わきには、清流・豊沢川が流れています。

下は、豊沢の湯。

ゆこゆこHP

内風呂の、薬師の湯。

大沢温泉HP

大沢の湯に下りてゆく、情緒をかもす階段。

共同炊事場。10円で7分ほどは使える、レトロなガス台(プロパンガス)がたくさん。
ここで自炊しての逗留もいいだろうなあ。
そして筆者はひそかに決意したのです。数年のうちにきっと、自炊しながらの湯治に来ると(笑い)。

大沢温泉のビューポイントのひとつ、曲り橋にて。
左は、気仙沼から駆けつけてくれた、大学の同級生の山内君。
近くはミュンヘンからのお客さんがあったとか。東日本大震災の語り部でもあります。

右は、遠く三重からおいでの野呂さん。パン焼き職人です。発酵食品の研究もしています。
筆者の初任地の仙台での同期、なんと42年ぶりの再会でした。
42年ぶりとはいえ、しょっちゅう電話で情報を交換している間柄、彼女は隣に住んでいるような存在なのです。

茅葺屋根の、かつての湯宿の菊水館。
今は宿としての営業をやめ、展示場として生まれ変わっていました。

意図して、屋根裏あらわしにした室内。

前日の雨がウソのように晴天に恵まれた22日、授賞式前に賢治記念館に行きました。
記念館前の、「よだかの星」碑にて。
この碑は、今回の功労賞授賞対象のもうひとつの団体、栃木・宮沢賢治の会を長く牽引された彫刻家の栗原俊明さんの作品です。

記念館を見学し、イーハトーブ館に立ち寄ったあと、花巻農業高校敷地に移築された、賢治の住居であった羅須地人協会に行きました。いつ来ても、このたたずまいが何とも言えない。
少し前まで、youtube上に、一青窈がここで歌う「精神歌」があったのでしたが、いつのまに消えてしまったのは残念でした。賢治作詞作曲による「黄昏耕母」もとってもよかったのに(-_-;)。

羅須地人協会わきの、「花巻農学校精神歌」の歌碑。
この歌は、花巻農学校の後身にあたる花巻農業高校の第二校歌として今も歌い継がれているということです。

羅須地人協会の玄関口の黒板に白墨で記された「下ノ畑ニ居リマス」。

黒板を前にして、記念写真。

羅須地人協会の内部の「教室」。賢治はここで農村青年を前に、講義をしたのです。
その、集会案内の一部を紹介しておきます。

(集會案内)

一、今年は作も惡く、お互い思ふやうに仕事も進みませんでしたが、いづれ、明暗は交替し、新らしいいい歳も来ませうから、農業全體に巨きな希望を載せて、次の仕度にかかりませう。
二、就て、定期の集りを、十二月一日の午後一時から四時まで、協會で開きます。日も短しどなたもまだ忙がしいのですから、お出でならば必ず一時までにねがひます。辨當をもってきて、こっちでたべるもいいでせう。
三、その節次のことをやります。豫めご準備ください。
   冬間製作品分擔の協議/製作品、種苗等交換賣買の豫約/新入會員に就ての協議/持寄競賣……
   本、繪葉書、樂器、レコード、農具 不要のもの何でも出してください。安かったら引っ込ませるだけでせう……

『宮澤賢治全集』12 筑摩書房1968より

筆者はこの集会案内の呼びかけの匂いがとても好きでした。
1990年の6月、筆者が仲間を集めて「米澤ポランの廣場」という賢治の読書会をつくったのも、この匂いに惹かれたというのも大きいのです。

ここは、我が家のリビングを設計するときに、ひとつのイメージとして参考にした空間です。
リビングは羅須地人協会がモデルだったのです。

羅須地人協会のある花巻農業高校には何度か来ていますが、校舎に「ワレラ ヒカリノ ミチヲフム」というスローガンが掲げられていたのははじめて目にしました。
小学校、中学校、高等学校、大学…、学校はスローガンを掲げるところも多いですが、これ以上に素敵なスローガンってありましょうか。
このセンテンスはもちろん、賢治が遺した光のような言葉(「花巻農学校精神歌」)からです

そうして午後、授賞式に臨み、プレゼンをこなし、参加者交流会に混ざりました。
全国の、ケンジを共通のワードでつながるひとびとと語り合えるのはとても有意義な時間でした。
何人かと名刺を交換しましたので、今後も交流ができそうで楽しみです。

プレゼンのはじまる前に、参加のメンバーが登壇しました。

授賞式後に、壇前で記念撮影。

翌朝23日、この日も快晴でした。

お世話になった大沢温泉湯治屋の前で、記念の集合写真。

湯治屋に隣接の山水閣の敷地に、ヤマボウシ(山帽子)の実を見つけました。
この実は少々モソモソするけどとても甘いです。
ヤマボウシの実が落ちると、秋が徐々に進行していくのが分かります。

そうして、宿からクルマで10分ほどのところでしょうか、釜淵の滝に行きました。
ここは賢治作品「台川」の舞台のひとつ、農学校の生徒を引率して野外で地学演習を施す賢治の姿が生き生きと立ち現れるようでした。
この釜淵の滝は、国の名勝「イーハトーブの風景地」に指定されている景勝地のひとつです。

清流が、跳ねていました。

釜淵の滝を周遊するコースにはところどころにクマ注意の看板が設置され、夏休みのプールでおなじみの、手鐘が置いてありました。こういうニンゲン由来の金属音がクマには有効で効果的です。
互いの不幸を招かないために、まずは、ニンゲンがここにいますよ、キミがいる場所に入りますよということを伝えることが肝要なのです。

そうして散策中にひとりが、「あっ、毒キノコ!」と言ったのです。
そこでそれを制したのが我が相棒、「それはおいしいキノコ、タマゴダケです」と。
さすがは森の住人です。そうなのです、これは優秀な食菌なのです。とてもおいしいのです。

そうこうして、とても刺激的で有意義なツアーを終えて、それぞれの場所に帰り着いたのです。
まあ今回のツアーは、大人の道楽、大人の修学旅行というところだったでしょうか。
お彼岸の、よき仲間たちと行動を共にすることができた、たぶん長く思い出に残る、よい旅行でした。
これで、花巻時間はおしまいです。

それでは、本日はこのへんで。
じゃあまた、バイバイ!

 

※本文に割り込んでいる写真はサムネイル判で表示されています。これは本来のタテヨコの比から左右または上下が切られている状態です。写真はクリックすると拡大し、本来の比の画像が得られます。