製作の時間

造作4題

季節はどんどんと移りかわってもはや9月の半ば過ぎ、信じられないほどの速さです。

あっ、アキノノゲシ(秋野芥子/キク科アキノノゲシ属)と思ったのは8月の末、それからアザミによく似たタムラソウ(田村草/キク科タムラソウ属)の紫を目にしたのは9月のはじめ、今はあたりに野生化したニラ(韮/ヒガンバナ科ネギ属)の白い花がそちこちに咲いています。
まだもって暑いけど、秋ですね。

 

暑かったですねえ、この夏は。残暑は9月の半ばの今でさえ続いているけれど、7月下旬から8月いっぱいというのは本当にひどかった。
この暑さで、飼育されている牛や豚や鶏の死亡が例年比2倍~10倍に上ったのだとか。自分で環境を変えて生き延びるすべを奪われている家畜たちがかわいそうになってきます。

さて、そんな季節の、7月下旬以来の久しぶりのsignalは、仕事の合間合間に手をかけていた作りものを紹介します。題して「造作4題」です。

筆者はこれまで、“造作”は“ぞうさ”とだけ読むものと思っていたものです。が、そうではなく、“ぞうさく”とも読むのですね。今回はじめて知りました(笑い)。
“ぞうさ”と覚えてきたのは、小さな頃から、“ぞうさない=たやすい”に結びつけていたためです。こちらで“ぞうさない”は、“じょさね”ですが。

話は昨年の10月末のことです。
雪が降る前、除雪機の保守点検の依頼をするために販売店に行ったところ、店のオヤジが筆者に立派な板を2枚くれてやるというのです。
本当は除雪機を軽トラックに載せるために店所有のラダーレール(ブリッジ)を借りるつもりだったのですが、この板があるなら今後は、自宅と町の4往復(1.ラダーレールを借りに行く 2.除雪機を搭載して販売店に持ち込む  3.レールを借りて点検後の除雪機を自宅に持ち帰る 4.レールを返す)が2往復で済むというわけです。ありがたかったです。
チェンソーの専門店でもある店のオヤジは伐採をするひとでもある。その彼がかつて伐ったヒバ(檜葉)=ヒノキアスナロ(檜翌檜)を何かに使えるだろうと製材して取っておいたのだそうで、今後使う予定もないからということだったのです。

幅40センチほど、長さが300センチほど、厚さが45ミリもある、立派なヒノキアスナロ材。こんなものを買ったら一体いくらになるんだろう。保管しているうちに、これを年に一度だけのラダーレール用に使うのはもったいないなあと思ったのです。
で、ラダーレールは別の建築廃材の柱を挽き割ってボルト・ナットでつないで作りました。
下がそのラダーレール。除雪機の重量は255キロ、これを移動させるのですから頑丈さが肝要です。

乾燥しても狂いや歪みの少ない針葉樹、このヒノキアスナロをどうしよう。

で、そうして思いついたひとつは、昨年10月に生まれた孫娘のための椅子でした。この春のことでした。
我が家に息子や娘が生まれたときにも(当時は用具も技術も持っていなかったゆえ)簡単な工法で椅子をつくったものでした。
寸法は30数年前の作とほぼ同じにして、今回は接合部にはすべてホゾを組んでつくっています。下が、新旧2作。

ヒノキアスナロの木目というものはうつくしいものです。

背には名前のイニシャルのRをゴシック文字で書き入れました。
最後にステイン系塗料を塗って仕上げ、まあ、離れて暮らす孫娘へのささやかなプレゼント。

それからこの際、相棒のためにベッドをつくろうと思いました。
これまでの約30年間というもの、フローリングの床にカーペット、そこに布団でしたからね。さりとて買おうとは思わなかったのは、いつかはベッドを自分でつくるということがずっと頭にあったからです。
もともとのイメージは大好きだったテレビドラマの「大草原の小さな家」のチャールズがつくったベッドだったでしょうか。
つくるのならしっかりと組みを入れた本格的なものにしたい、そうして自分の技術を試したかったのです。
思い立ったら早いもの、さっそくにも図面を引いて取りかかりました。
下は、図面の一部。

ベッドの一番の見せ場はヘッドボード、ここは是非、丸棒差しでいきたいと思っていました。椅子やベンチの背もたれにもよく見られる意匠です。
何より、(径/ファイ)10ミリのナラ(楢)の丸棒が手元にすでにあります。かなり前のこと、ネットオークションに出品されていて、何かに使えるだろうと思って購入して保管しておいたのです。これを使わない手はない。

肝心の構造をどうしよう、スノコを載せる部分をどうしようか考えました。
ヨコ板は家屋で言えば床の土台、それに直交して渡している板は大引きに相当するものです。
ヨコ板は約200センチの長さとはいえここは45ミリ厚の部材を使用しているので相当に強いはず、でも中間に、大引きを支える束(つか)のように支柱をいれたら完璧になるはずと思いました。
中間の位置に、太い丸棒を突き差して重量を分散させようとしました。

そうしたのちに、スノコを張りました。

ヘッドボードの中央の節の穴はご愛敬。
何もここに節の穴のある部材を使うこともなかったのですが、意匠としておもしろいかなと。

その穴の下には、相棒の名前のイニシャルを、やはりゴシック文字で。
この文字には少々、オリジナルなアレンジを加えています。

Yの字を彫刻刀で彫ってみましたが、なかなかシャープな造形はできませんでした。しょうがないことです。

ヘッドボードの下には移動用のキャスターを取りつけ、全体にステイン系のナチュラル塗料を塗って、そうしてベッドができ上がりました。

寝室の壁の額縁の中は、盛岡の光原社を描いたポスターです。
全国のすぐれた民藝を扱う光原社はものつくりびとの聖地、それを染色工芸家の柚木沙弥郎(ゆのきさみろう)が描いたものです。名品だと思います。
“光原社”は宮澤賢治による命名、賢治が世に出した唯一の童話集『注文の多い料理店』はこの店の初代店主の及川四郎によって出版されたのです。

ベッドがあれば、サイドテーブルはつきもの。
ということで、余った部材で、サイドテーブルをつくってみました。デザインはごくシンプルなものとし、天板はA3判の大きさにしました。
天板は20ミリ厚とし、22ミリくらいに挽き割ったものを接いで一枚の板として、接いだあとにカンナ掛けを施しています。この方法なら、天板の厚みは自在です。
4本の脚の中間の棚から下は、内側2面にテーパー(先細り加工)をつけているのが分かりましょうか。

サイドテーブルも完成しました。
プレゼントしてほどなくして、相棒から爆睡の、 Zzzzz  Zzzzz  Zzzzz … が聴こえてきたのは言うまでもないことです(笑い)。

ベッドは、筆者のものつくりにちょっと幅がひろがったひと品だったと思います。
工夫してつくるというのは楽しいものです。

7月に入ってからの猛暑、エアコンがない我が家は困りました。
我が家で網戸が唯一ないのがボイラー(石油給湯器)室の窓です。
30年前の建築当時、いくらかでも費用負担を少なくしようと自分たちでできるところは自分たちで行い(和室の天井板の塗装、外壁の塗装などはそのひとつ)、削れるところは徹底して削ったものでした。で、ボイラー室の網戸なんていらないだろうと思ってここは省いたのです。みみっちいことでした。

ところが今夏の連日の暑さ、ここに網戸があるのとないのとでは大違い。それで、手元に張り替え用の網は買ってあるし、固定式だけど網戸をつくってみることにしました。風の通り道をふやす、これは暑さをしのぐ最低条件ですから。
網戸のない、ボイラー室の窓。

 

もうこれで、家の中にまたひとつの風の道ができました。
ギャラリー(ドアリラの展示スペース)の奥がボイラー室、その窓の網戸。

唐突ですが、筆者はどうしてだろう、台所の品々が好きです。その中でも特に好きなのがヤカンです。
水を溜め、持ち手を傾けて、別の器に注ぐ…、この単純な機能と動作をデザインに落とし込んだらどうなるのか、ヤカンにはそのファクトがつまっているはず、ヤカンはデザインの集積場だと思うのです。
それで、若い頃から骨董屋を巡ったり、さまざまな売り場をさまよってうつくしい形のヤカンを探したものです。そして唯一目にかなったのが、底が平らで側面のフォルムが傾きのある直線で、肩が丸く、注ぎ口がゆるやかなS字を描き、持ち手が平たい…、それは、金太郎印のヤカンでした。地元に古くからある卸の店で見つけて買いました。
でもアルミのヤカンは使いこんでいるうちに寿命がきます。穴が開くのです。そうして金太郎印ヤカンをふたつほどダメにしたでしょうか。(なお、“金太郎印ヤカン”というのは、かつて大阪にあった渡邊金属工業という会社の製品のよう。もう会社は消滅し、かつての製品がオークションに出回るきりになっています。こういう秀逸なデザインの製品をつくる会社がなくなるのは実にさびしいことです)。

下が、あこがれた“金太郎印ヤカン”。ネットオークションの画像から。


そうして次に出会ったのが下のヤカンです。一目ぼれでした。とにかくうつくしい。

この底部分の平べったさ、この底面積の広さが熱を有効に内部に伝えていきます。
持ち手の微妙な傾き、この傾きが、水のスムーズな注ぎを助けるのです。

このヤカンは洋食器や刃物で有名な新潟は燕三条が作り出しているもの。
よくよく調べると、このヤカンは機械任せにできる部分が少なく、研磨や溶接に熟練工の手が欠かせないよう。完成までになんと、燕三条の15カ所の町工場を転々として完成するのだとか。日本のヤカンの歴史(笑い)のなかで、これほどこだわった製品はなかったのではないでしょうか。

我が家のこれは、結婚式の引き出物のギフトブックからのセレクト商品です。
雑誌のページ写真は、下のポートレートも含めて、『BRUTUS Casa特別編集 柳宗理』マガジンハウス2003から。

このヤカンの作者は、相撲解説の舞の海秀平さん、ではありません(笑い)。似てますよね(笑い)。インダストリアルデザイナーの柳宗理(やなぎそうり/本名は、むねみち1915-2011)がそのひと。そう、かの民藝運動を主導した柳宗悦(やなぎむねよし)の長男です。

それからというもの、ギフトブックがいただければ柳(ヤナギ)の製品を選んできました。
そして最近、やはり名品の片手鍋18センチを、こちらはネット通販で購入しました。うつくしいものが台所にふえて、うれしいです。

この片手鍋の優れているところは、蓋を回すことで蒸気を逃がすことができ、なおかつ内容物を入れたままの湯切りができることです。この思いつきはどうだろう。そして、鍋の縁に左右の出っ張りがあるために、右でも左でも注ぎがスムーズなのです。さすがはヤナギです。

そうして使っていくうち、これらは流し台の下の収納スペースにしまい込んでおくのはもったいないこと、できれば見せる収納はできまいかと考えはじめました。
そして考え至ったのが、台所を見通す大きな空間の中に棚板をつけること。ここに棚板をこしらえて置けば、うつくしいフォルムの鍋たちをいつでも眺めることができます。そして、さっと取り出して、日常使いすることもできます。

ヤナギの両手鍋もギフトブックからのセレクト。

 

そうして筆者は、ヤナギを生かすための棚をデザインしました。
下は、厚さ30ミリ幅200ミリ長さ1,820ミリの手持ちの板(建築廃材)を接(は)いでいるところ。
締めつけ用具のクランプは自作です。ラチェットレンチで均一に締めつけて接着します。

上の3点の写真のようにつくって設置したのですが、どうも納得がいかずにやり直したのが下のものです。
両手鍋の底の直径が約22センチ、この直径が器物の最大で、棚板の幅は30ミリほども多かったのです。余分なものをそのままにしておくのは邪魔というものです。
それでいったん外して、30ミリを切り落として作り直しました。
棚受けの形状も直観に耐えられずに、ごくシンプルなものへと形を整えました。

しっかりと両端の溝を噛むようにも工夫しています。
地震があったときにズレて落下しないように、棚板の左右には8ミリ高の突起柵を設けています。

そうして、ヤナギの鍋類を飾りました。
下は16センチのミルクパン。ほぼ、毎日使います。

22センチの浅型両手鍋。

ヤカン。

台所側から、リビングを見て。
新たな飾り棚の上は、乾物などの収納スペースになっています。

2階のギャラリー(回廊)から台所を見たところ。四つのヤナギが飾られています。

筆者はこのところ、ズーッとデスクワークばかり。
やはり、机に向かってばかりいては煮詰まってしまってダメですね。
そしたら、9月6日でしたか、カモシカ君が遊びに来てくれました。やあ、お久しぶりです。
しばらく目と目で会話しながら遊びました。いい息抜きでした。

それから、気分転換にと思って久しぶりに西吾妻を歩いてきました。百名山の西吾妻山とは逆方向の、穴場ともいうべき小凹(こくぼ)まで。
小凹は池塘が点在するうつくしい高層湿原です。
やがて一面を覆うヌマガヤ(沼茅)が橙(だいだい)に変わって晩秋を彩ることでしょう。それももうすぐです。

道々、西吾妻の名花、エゾオヤマリンドウ(蝦夷御山竜胆/リンドウ科リンドウ属)がたくさん咲いていました。
花屋の店先に並ぶのは、自生種エゾリンドウの改良種です。エゾリンドウは茎のところどころから花をつけます。オヤマリンドウの特徴は花が茎の先端部に集まってつくことです。そのエゾリンドウの立ち姿とオヤマリンドウの特徴を併せ持つのがエゾオヤマリンドウ。
この花は、吾妻連峰が南限です。

この青を目にして思う、ああ、秋だなあ。

 

それでは、本日はこのへんで。
じゃあまた、バイバイ!

 

※本文に割り込んでいる写真はサムネイル判で表示されています。これは本来のタテヨコの比から左右または上下が切られている状態です。写真はクリックすると拡大し、本来の比の画像が得られます。