本日は2024年の2月23日です。
長いご無沙汰でした。
18年9月からsignalをつづりはじめてからというもの、2週間という間隔さえ記憶にないのに、2か月ものあいだ記事をアップしないというのは初めてのことでした。
要は、どうも気が進まなかった、そういう気分になれなかったということです。
いざ書こうとしても頭にいろんなことがめぐっては構想がちりぢり、どうにもまとまらず、そのうち立ち消えになる、そのくりかえしという状態だったのです。
ということで、久しぶりにsignalに向き合っています。
今回のsignalは、(年末から今日までのこともはさみつつ)今季のあまりにあたたかな冬についてのこと、題して「らしからぬ冬に」です。
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下は、(2023年)年末からの変わらぬ我が家のしつらえ、リビングの大甕に差したドライのノイバラ(野茨)です。
これは11月に山中の道端で見つけてもらってきていたもの、無彩色になる冬にあって、このノイバラの実の赤さはひときわうつくしいです。
背景ののれんは、相棒がつくった草木染「鹿踊りのはじまり」(賢治作品から)、物語の印象的なシーン、榛の木を透かす夕日のイメージだったよう。
作は18年も前のもので、もう色が褪せていますが。
昨年後半から我が家は喪中にあり、それから年末に家族に心配事があったのも事実、ゆえにクリスマスの清澄な雰囲気も年末の大掃除さえ気が乗らずにパス…、正月の寿(ことほ)ぎは素通りし、小正月のいつもの華やかな団子木飾りもせず、素朴な飾り雛のお出ましもなく…、そうして時間が過ぎていきました。
こうしてみると我が家は、しつらえや飾りを通して春を少しずつ引き寄せていたんだなあとあらためて思ったわけで。
下は、霜の降りたルーザの森の朝、昨年12月5日。
これはこれで凛としたうつくしさです。
いつもの年と違って、12月に入っても雪はなかなか降らなかったです。
それならまだ方々に動けると思い、ふと思い出したのがメグスリノキ(目薬木/ムクロジ科カエデ属)のことでした。
山形県高畠町に隣接する宮城県七ヶ宿町の山中に、北限ともいうべき自生のメグスリノキがあったことが目に焼きついており、たとえすべての葉を落として裸木になっていたとしても、その特徴的な3枚葉の落葉さえ確認できれば枝を採取できると思ったのです。12月11日のこと、やはりピンポイントで行き着くことができました。
この木が有用なのは、その名の示す通り、古来から(戦国時代=西暦1500年くらいからという)目の洗眼液としてつとに有名で樹皮を煎じて用いていたとのこと。そして今日では目と肝臓の調子を整える健康茶に利用されているそうなのです。
これはつくる価値がある。
枝を細かく切って、少し太いところは小さな鉈(なた)で割って、十分に乾燥させました。
できたものを5分ほど煮だすと色はビワ茶に近いうすいピンク、味はクロモジ茶に似たものになりました。やはり、森の香りがプーンとします。
またひとつ野茶のバリエーションが増えました。
メグスリノキの落葉。
メグスリノキの、直交する(直角の)独特な枝ぶり、三角帽子の冬芽が出ていました。
約1か月前に見ていたうつくしいメグスリノキの紅葉。
できあがったメグスリノキ茶。
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いろんなことが重なって気が重かった年末、新年は何とか前向きな心持ちで迎えたいものだと思って、久しぶりに映画を観に行きました。
めあてはドイツのヴィム=ヴェンダース監督が撮った「PERFECT DAYS」。
公開直後には上映館が少なく(地元の米沢には上映予定なし。映画が評判を取ってきたためか今はようやく掛かっているもよう)、福島市のフォーラム福島まで出向きました。
役どころが大きかったと思うけど、役所広司という役者はいいなあとはじめて思いました。
便所掃除を生業(なりわい)とする寡黙で平凡な老輩の「平山」、普段は公衆トイレのいくつかと古びたアパートを往復し、寝泊まりする簡素な畳の部屋には昔聴いて集めたのだろうカセットテープが並び、本を読みつつ眠りにつく…。銭湯に行き、たまになじみの大衆酒場に現れてはちょい飲みを楽しみ…。1か月に1度くらい?はバーにも顔を出す、そんな男。
東京の斬新なデザインの公衆トイレや効果的な古い洋楽のナンバー、若者の恋愛(彼女役のアオイヤマダが気になってあれこれ調べもした)も興味を引きながらも、平山に宿るおだやかな心持ちこそが映画の主調音でした。その静かさがよかった。
映画が進むにつれ、ああヴェンダースって、日本が好きなんだ、そしてそれは伝説のマエストロ小津安二郎を意識しているなと思ったものでしたが、購入した映画ガイドを読めばやはりそうでしたね。
平山の、誰とも比べない、誰をもうらやまないつつましさとすがすがしさ、そして静けさは筆者をしてよい気分にさせてくれました。
静けさは希望そのもの、いい映画でした。
ここで、思ったのです。
「静かなる者は遠くまで行く」という箴言(しんげん)を。
この言葉は、城山三郎の著書に『静かに健やかに遠くまで』というのがあって、そこから知られるようになったようだけど、もとはイタリアの諺で経済学者のパレートが好んだ言葉のよう。
原文は「静かに行く者は穏やかであり、穏やかに行く者は健やかであり、健やかに行く者は遠くまで行く」というものだそうです。
上は筆者の勝手な短縮形だけど、こっちの方が端的で詩的だと思うなあ(笑い)。
と、年明け1月末に1974―75年当時の連続企業爆破事件で指名手配中の男が50年の逃亡生活(藤沢市内の工務店に住み込みで働いていたという)の末に病院で、「桐島聡」なる本名を明かして、ほどなく亡くなったというニュースがネットでも話題になっていたものでした。
その素性や潜伏生活の様子が分かるにつれ、「桐島」が「平山」にオーバーラップしたのは筆者だけではなかったようで(ネットに散見)。
「桐島」は広島県福山市の建設会社の御曹司だったよう、「平山」も大きな会社の後継ぎとして嘱望されていた過去が見え隠れしていましたよね。
寡黙な「桐島」も1960~70年代のロックやブルースが好きで、月1回程度、音楽好きが集まるバーに顔を出しており、また別のバーでは(偽名の「内山」から)「うーやん」と呼ばれて親しまれ、週1〜2回来店しては赤ワインを好んで飲んでいたという。バーの男性店主は報道後、死亡を受け、「愛されキャラだった。悲しくて涙が出た」と語った、と東京新聞が報じていました。
年末が近づいてもなかなか雪が降らないので、燻製もしましたよ。
素材は、業務スーパーで売っていた冷凍ものの薄塩のシャケとサバです。
業務スーパーって、それ一辺倒にはなりたくないけど、使いようですよね。
このシャケとサバがちょうどよい塩加減で、自然解凍してから風乾に約1日費やしたのち(燻製のキモはこの風乾ですね)、スモモチップとサクラチップ(いずれも作業で出た木屑)での煙かけをしたのです。
燻製のシャケとサバは抜群のうまさです!
冬の食卓に少しだけ彩りが加わりました。
下は、なじみのガソリンスタンドからもらったオイル缶ふたつでつくった手製の燻製器。
ずいぶんと活躍してくれています。
そうして燻製から1週間後の12月17日に本格的な雪が来ました。
下は18日の朝。
ヒュッテの窓の外の小さなワイヤーバスケットには一日の労働のご褒美のビールとワイン(笑い)、ここはよい冷蔵庫代わりなのです(笑い)。
下はまるで銀河のようだけど、吹雪の中に出てストロボを使って撮影したもの。
我ながらよい写真!(笑い)
18日には朝と昼に2回、除雪車が出動したものでした。
米沢の、いつもの冬の景色です。
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正月のしょっぱな、能登半島で大地震がありましたね。
こちらにも揺れが伝わり、揺れの時間の長さとその様子からしてどこかで相当大きな地震が発生したのではと体感したものでした。
そして、240人超もの死者、6万7000棟以上の住宅被害…、どんなにか悲痛な空気が能登の空をおおったことか…、自分にはいくばくかの支援カンパぐらいしかできないけれども…。
しかしそれにしても震源地近くの海岸では4メートルもの隆起があったのだとか、断層のズレの恐ろしさです。
こともあろうにここに原子力発電所をつくる計画(1975年。その後反対運動等の理由で2003年に計画凍結)があったのです。
仮に、このまさに震源地に原発が建設され、それが稼働中であったらと思うとぞっとします。
これに関連して、それでは震度7を観測したという志賀町の志賀原発はどうだったと言えば、停止中だったからこれもよかったのです。
でも、隠していることはないのだろうか。北陸電力は今もなお報道機関などの立ち入りを禁止しており、敷地内がどうなっているのか判然としない状態なのです。北陸電力には過去に重大な隠ぺい事件がありましたしね、大いに疑わしいことです。
NHKの地震直後の震度を表示した画面を見たけど、志賀原発の所在は地図上から消されていたものです。
NHKには地震のときに原発を意識させないようにするためのこの手の操作がよくあること、NHKに限らず報道機関というものは疑ってかからないと本当のことは伝わってはきません。
それにしても、この地震で浮き彫りになったのは集落の孤立化、消滅の危機に瀕する集落がどれほど散らばっているかということでした。
これから確実に縮みゆく地域社会に、どんな希望が見いだせるのだろう。そんなことを考えさせられた地震でもありました。
2月6日に、小澤征爾が亡くなったのは筆者にも大きな出来事でした。
テレビが遠い筆者ですがyoutubeにはよく手をのばし、小澤のドキュメンタリーや演奏会の様子をこれまでもたくさん見ていたのです。
11日の朝日新聞に載った村上春樹の追悼文の中に、こうありました。
「僕がいちばん好きな時刻は夜明け前の数時間だ」と征爾さんは言っていた。「みんながまだ寝静まっているときに、一人で譜面を読み込むんだ。集中して、他のどんなことにも気を逸らせることなく、ずっと深いところまで」
そんなときの彼の頭には音楽だけが鳴り響いていたのだろう。おそらく無音のうちに。
少年のような無邪気さや誰とでも分け隔てなく接する気さくさや、けれどもいったんタクトを持つや変わる形相、そして手指や身体の動きの雄弁さ、この下敷きに自分の音楽への信念を磨き上げる夜明け前の時間があったということに筆者も納得するのです。
29年という長きにわたって音楽監督を務めたボストン交響楽団はこの10日、すぐに追悼の演奏をしていました。
小澤が名匠ロストロポーヴィチとともに阪神大震災において犠牲となったひとびとを追悼して演奏したバッハの「G線上のアリア」が、今度は小澤の冥福を祈って捧げられたのでした。
それはとても荘厳、悲しくもうつくしかった。
筆者がもっと若い時分に小澤の音楽に接し惹かれていたなら、一度でも小澤が指揮するサイトウ・キネン・オーケストラを生で観たかったです。やはり小澤の指揮するサイトウ・キネンはすごい。
でも、小澤がいた時代に同じ空気を吸っていた、それだけでも幸いだったとしないといけない。
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ロシアがウクライナへ衝撃的な軍事侵攻をはじめてから明日24日でまる2年、ロシアはいい加減に侵攻を止めにしてほしい。でも、どちらも旗を下ろしそうにないからその行方も知れない。いったいこの先どうなるんだろう。
プーチンの政敵アレクセイ=ナワリヌイ氏の虐殺には気が沈みました。
命がけだと思うけど、ロシア全土の献花の列はやまず。たとえ花が絶えても、ロシアの心ある民衆はずっと追悼の火を心にともしつづけるのだろうと思います。それは希望というものです。
イスラエルによるパレスチナ・ガザ地区と南部ラファへの無差別の攻撃…、かの(戦後社会に大いに謝罪して立ち直った)ドイツはそれでもイスラエルを支持するという時代倒錯はどうなんだろう。ホロコーストへの贖罪?
アメリカはウクライナを支援しつつ、こちらではイスラエルを支持してアラブ諸国を敵に回すという二重基準…。
世界は今、一気にカオスへと向かっているというのに、国際社会の無力、国連の機能不全には一地球市民としていら立ちを覚えるばかりです。
とはいえオマエに何ができる?
この、今という時間に、他のひとはどんなことを思って日々を過ごしている?
少なくとも筆者は、ひとがひとを殺す、ひとが殺されるということがらを消費物にはしたくないのです。でも世の中、ひとがひとを殺す、ひとが殺されることがらを消費物にしてしまう誘惑が何と多いことかと思うのです。それは、ひとは情報の洪水に日々何気に接しているから。情報の洪水は感覚をマヒさせてしまうから。
だったら、情報という情報は遮断した方がよい。何も見ない方がいい、耳に入れない方がよっぽどいい。
大切な事実だけをかみしめていた方が健康的と思うのですよ。でないと、この混迷の空気の中で、心は持たないと思う。
そして思うのです。自然という大霊の秩序からしたら、ニンゲンというのは実に小賢しく愚かだと。
だからですかね、筆者はいつも自然の秩序に服していたいと思うのは。山に行きたくなるのはそのためもあると。
筆者はこのところずっと工房にこもって、機械音の響く中に黙々と木に向かう時間を過ごしています。
今はこういうつつましやかな過ごし方がいいのです。
そして、ものをこしらえるときには、本当はこんな雪の日がよいと思うのです。
何もかも遮断し、拒絶するほどに厳しい雪の日が。
人間の手も足も出ない、圧倒的な雪降りが。
下は2019年1月のもの。
寿ぎからは遠い生活でしたが、まためぐってくる正月のためにと、木を削って鏡餅をつくりました。
白さが決め手と思って安価なツーバイフォー材=SPF材(北米産のマツ科の樹木の総称)を使ったのですが、木目とそれ以外の部分の材質の硬軟の差がありすぎ、削って成形するのは思った以上にたいへんでした。
ミカンの葉? みどり色のビール缶をわざわざ買ってきて、その缶を切ったもの(笑い)。
飾り台と併用の収納箱は、もらい物の「今治タオル」が入っていた桐の箱を解体し、一部利用してつくっています。
赤い布は家にあった端切れを相棒が縫ってくれました。
この鏡餅は、来年の正月のよいしつらえとなるでしょう。
それから、表面がそじて(傷んで、腐りかけて)どうにも使えなくなったもらい物のクリ(栗)の角材があったなあと思い、それを材料に木馬をつくりました。
いくらそじた材料とはいえ、挽き割れば使えるところは十分に残されているものです。
クリはほどほどに堅く、歪みが少なく、しかも加工がしやすいのです。クリはとても魅力的な材です。
木馬の製作ははじめてのことゆえ、図面引きから完成までに約1か月を要しました。
こういうものは商売ではない(商品にはしない)ので、じっくり構えることができてよいです。
べニアでつくったパーツの型。
いつかこの製作過程を紹介することがあるでしょうか。
それから最近手がけていたのは、バターケース。これは我がルーザの森クラフトの展示会に向けた製品です。
過去にはバターナイフも多数つくっているので、今年秋に予定する展示会ではお披露目できると思います。
ハルニレ(春楡)、サクラ(桜)、ケヤキ(欅)の銘木から挽き割ってつくったケースのふた。
それぞれに木目がうつくしく出ました。
製作の終わり近く、「ルーザの森クラフト」のロゴの刻印を押しました。
この刻印は新潟は三条の専門の業者に依頼してつくってもらったものです。
ステイン系塗料(亜麻仁油を主原料の食品衛生試験適合塗料)を塗って拭き取って完成です。
ケース本体は陶器、これは業者に発注したもの。
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どうにも雪が降らないのです。あたたかなのです。
まだ2月、本当は最も厳しい冬の寒さの中であるはずなのに、あたりは雪解けの溪の音がゴウゴウと響き渡っています。
これは本来は3月下旬の音です。
いつもの年のこの時期の笊籬溪(ざるだに)。
違いが一目瞭然です。
2年前のこの時期の雪。
このときの雪は、筆者の身長を優に超えていたものでした。
キジバト(雉鳩)のデデポ デデポッポが聴こえるではないですか。ちょっとちょっと、ずいぶん早いんだけど!
軒下の、土が顔を見せたところにはカキドオシ(垣通)が花をつけているではないですか。エエッ!
郊外の田んぼはすでに明け(雪が消え)、サルは早くも土が顔を出したところからキクイモ(菊芋)掘りをはじめたらしい。
これ全部が本当は3月下旬の、春のサイン、春のシグナルのはずなのです。
この時期の、薪小屋からそれぞれの場所への薪運びといったら(何せ我が家は4つの薪ストーブがある)橇(そり)に決まっているのに、雪が解けかけているので一輪車で、とは。
この時期に一輪車の出番とは信じられないことです。
まだ2月だというのに、あたたかでまるで春の日差しなのです。
現在のここらの積雪は40センチ。
気温が下がったこの2月19日に自然積雪の上に上がってみると、少しも沈ませんでした。
ということで今季はじめての雪渡り(堅雪渡り)をしました。
キックキックトントンをしながらね(笑い)。
11歳以下の子どもでなし、老輩のキックキックトントンとはいかがなものかとは思いますがね(笑い)。
狐の紺三郎が遠くから苦笑していたような(笑い)。
いつもは分厚い氷でおおわれる笊籬沼もこのとおり。
堅雪ゆえに移動は自由自在、段丘から見下ろした我が家の全景。
ここは造山運動でできた河岸段丘なのだと思います。
カモシカの足跡が近くの小流れに続いていました。
隣接する、焚火場のある林の広場。
2月にこんなにあたたかで雪が降らないことは、一面では生活する分には楽なのは確かなのだけれど、これで本当によいのだろうかと不安にもなるのです。
田畑をうるおす水は大丈夫なのか、ダムの貯水量に影響はないのか、山菜は例年どおりの芽を出す準備ができているのか、クマはしっかり冬眠し出産を済ませているのか、山は健康なのか、そしてうつくしい春はやってくるのか…。
この(たぶん昨夏からつづく)異様な高温の冬が重大なことにつながらなければよいがと案じます。
2月の20日をもう過ぎたのだし、これから生活に困るほどの大雪になることはまずありません。
ただ願うことなら、3月の下旬ぐらいまでに1度や2度の「水仙月の四日」(賢治作品の白眉。冬に逆戻りの猛吹雪の嵐)は来てほしい。
でないと、うつくしい春は来ないように思うのです。
雪国の人間はうつくしい春のためにこそ暮らしているのですから。
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『ゆきのひ』(佐々木潔作、講談社1980)という絵本が好きです。
田舎の小さな駅の雪の日の一日が定点で描かれています。
日暮れて電灯がともったり、待合所と詰所から(石炭ストーブでも焚いているのか)煙が出たり、駅員はわずかな乗客を見送り、貨物列車に荷を積み、除雪をし…、そうして一日中雪は静かに降り続き、ようやく雪が止んだ夜に月が出た、それだけのこと。
雪国の、静かで豊饒な時間がここにはあります。
らしからぬ冬の話はこれでおしまいです。
次は「らしくある春」の物語がつづれればと思います。
じゃあまた。
バイバイ!
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