森の生活旅の空、飛ぶ声

春はオウレン

(2024年の)3月も矢のように過ぎ、もう月末、明日には4月というところまできました。
今回のsignalは「春はオウレン」と題して、冬から春への移りかわりを主としてつづってみたいと思います。

前回のsignal「らしからぬ冬に」を読んでくれた方(あることをきっかけに知り合った若い男性)からメールを頂戴していました。まずはそのことから。
およその内容はこうです。

自分も雪深い町の真室川の出身、雪が降った日にはかんじきをはいて犬と一緒に田んぼを駆けまわったり、ソリ遊びをしたり、カマクラを作ってろうそくを立てて秘密基地を作ったりした。
特に思い出すのは小学校低学年の頃、まだ自転車に乗れなかった自分に、父が庭を除雪し練習につき合ってくれたこと。バランスをくずし何度も転んではやり直していつのまにか乗れるようにはなったのだが、転倒してもわきには雪があってけがをしないようにとの配慮だったのだろう、そこで練習を見守ってくれた。
あれは父のやさしさだったのではないか、と。
そして続けて、(signalに紹介されている)絵本『ゆきのひ』は夜の静寂が伝わってきてとてもきれいだ、自分はユリ=シュルヴィッツの『ゆき』という絵本を持っていて、とても絵がすてきで好きな絵本…、と紹介してくれたのでした。

雪にまつわる父との思い出、早春の、自転車乗りの練習の風景…、いいですね。映像がよぎるようです。
筆者にも印象的な父との雪の思い出があります。それは筆者が8歳か9歳の頃、あたりは雪が解けかけてきた3月半ば、シャベルとバケツを持って父について近くの田んぼに行ったのです。
何をするのか興味津々に見ていると、シャベルを田んぼに突き差して土を掘り起こすと、その中からドジョウ(泥鰌)がたくさん現れたのでした。驚きの光景でした。
父はこの時期は田んぼにドジョウが潜んでいることを知っており、これから食材を採る、まあついて来い、ぐらいだったのかもしれません。当然その夜は卵とじの泥鰌鍋とあいなったわけで(笑い)。

で、シュルヴィッツの『ゆき』(さくまゆみこ訳、あすなろ書房1998)という絵本を自分は知らず、さっそくにも取り寄せて読んでみました。

作中、雪が降ってきて少年はうれしくてしょうがない。大人たちはそんな少年の気持ちを「すぐにとけるよ」と軽くいなすばかり。大人たちの素っ気ない反応や天気予報に反して雪はやむどころかどんどんと降り積もって、町中を白い景色に変えてしまった。大人たちが雪を嫌がって建物に消えてしまった中、少年は愛犬とふたりして白い町に出れば、店の看板から魔女や動物たちも飛び出してきてごあいさつ、やがて空は晴れて、町は光りかがやいて真っ白!…、というものでした。

ユリ=シュルヴィッツの経歴を少しのぞくと…、
生まれは1935年、ポーランドのワルシャワ。4歳で第二次世界大戦をむかえ、家族でポーランドを脱出、各地を転々とする。49年にイスラエルにおちつき、働きながら夜間高校に通った後教員養成機関で文学などを学ぶ。1959年単身アメリカへ渡った、という。
ポーランドは現在のドイツとチェコの東隣り、ベラルーシとウクライナの西隣りに位置する東欧諸国の一員。北海道より緯度は北に位置しているので、冬は厳しく雪が降るのは当然のことです。
でも、この『ゆき』には雪へのファンタジーがあふれていて、それはまるで雪の降らない地方で生まれ育った者に特有の感性のよう、それが興味をひきました。雪のウラとオモテを知っている者がなぜにオモテにだけ光を当てて表現するのか。
ひとつは、厳しい冬を知りつつ、シュルヴィッツはそれでも雪が好きだったこと、大人になっても少年のこころそのままに変わらなかったこと…、それから4歳までの記憶しかない故郷への郷愁性…、そして大国列強に翻弄され続けた祖国ポーランドの歴史をしのばせて、雪を祖国解放のイメージとシンボルに見立てたこと…。この絵本への評価(1998年度コルデコット賞オナー賞)はこんなところからなのかも。

で、シュルヴィッツとははてどこかで聴いた名だと思ったら、『よあけ』(福音館書店1977)の作者じゃないですか。『ゆき』とは絵柄がまったくちがっていたのですぐには結びつきませんでした。
この『よあけ』は、老人と孫と思しき少年の静かな物語。ふたりは湖のほとりで一夜を明かし、未明に舟をこぎ出せば山端から太陽が出てきた、その時間の移りかわりに呼応して変わる光のグラデーションのみごとなこと、そのうつくしさ。少年は、生涯をともにするこのうつくしい情景を胸に刻んだのだと思います。
秀逸な絵本です。

あまりにらしからぬ冬の2月に反して、3月になると本降りとはいかないまでも雪の日が続きました。うれしかったですね。
このまま何の苦もなく障害もなく春になったら、どうしようと心配だったのです。

宮澤賢治作品の白眉ともいうべき「水仙月の四日」、まるでその物語世界のような春の吹雪も2度、3度とやってきました。
下は3月5日の朝の風景。
目の前の、谷に沿ったコナラ(小楢)の林、それにルーザの森のビューポイントのひとつ笊籬溪(ざるだに)の雪景色。

そんな3月の半ばのこと、用あって相棒のヨーコさんとともにシンガポールに行くこととなりました。
息子がシンガポールの女性と縁あって、現地で祝言(しゅうげん)のセレモニーをするというので行ってきたのです。
冬の米沢から赤道のほぼ直下(赤道より北に130キロ)の常夏の国へ。
シンガポールは通年の日中平均気温は31℃(夜間24℃)、高湿度の土地ですからね、それはまるで日本の梅雨の晴れ間のよう、やはり別世界でした。
その話題をつまんで少々。

行きの機内で。
シンガポールの地図をながめながら、隣りに座る相棒とせっかくの異国の地、(観光では)どのへんを歩こうかと話していると、筆者の左隣りの青年が、「ボク、くわしいですよ」と声をかけてくれたのでした。
彼は18歳。親の仕事の関係でシンガポールに滞在、この17日にシンガポールの高校の卒業式があるので(一時帰省中の)東京からもどってゆく、春からは日本の大学に進学するということでした。大学では社会学の分野、特に民族間の差別について勉強したいですネとすべらかに言う彼の頼もしかったこと。
ひと時の一期一会だけれど、楽しかった。
コウイチロウさんに、good luck!

行動は相棒とそれから花嫁の日本の友人(サチコさん)もご一緒ということもあり、許された自由な時間は二日間、欲張ってもしようのないこと。で、1日目(14日)は定番のベイ・エリア、2日目は下町のリトル・インディアとチャイナタウンをめぐることにしました。

家族からの最初のおもてなしだった海岸べりの飲食ブースで。
味つけは濃いと思ったけど、注文の料理はどれもおいしかったです。
うす緑の飲物はバンブージュースと言っていたけど、竹の匂いがするでなし。
ここでのバンブーbambooは竹ではなく、サトウキビを指しているみたいです。素朴な甘さ。

観光のしょっぱなはマーライオンMerlion。
ものすごい数の観光客でした。ヨーロッパ系が多かったと思うけど、肌の色もさまざま。

下は、シンガポールの代表的な風景です。
右がハス(蓮)の花をデザインしたミュージアム、左がマリーナベイ・サンズMarina Bay Sandsというホテル(1泊で6万円以上というから驚き)、上にのっかっている船のようなものがサンズ・スカイパークSands Sky Parkで、いわゆる展望台、この場所にプール(宿泊者専用)もあるのです。
スカイパークは地上からの高さが200メートル! ここに上がるエレベーターに乗るためだけでものすごい行列で、そして料金が何と約3,500円也!

話のネタにとスカイパークに上って展望してみたのです。
シンガポールといえば誰もが口にするマーライオンはちょうど対岸に当たります。そこから湾を時計回りに歩いてここにやって来たのです。

眼下がガーデンズ・バイ・ザ・ベイGardens by the Bay 。巨大な植物公園になっています。

下の写真はチャンギ国際空港近くの庶民の保養地ともいうべきシーサイドエリアです。相棒の背景にご注目。
上の写真でもよく分かるよう洋上に浮かぶ船の数の多いこと!
あとで現地のひとに聴いたところによれば、シンガポールというのは東京23区ほどのせまい国土、そこに530万人もの人々が住んでいるとのこと。生活の基盤は何といっても港湾関連、食糧をはじめとした生活物資からエネルギーに至るまで多くのものが輸入で成り立っているということです。

原生の植生がひとつもないというシンガポール、すべては人工の植栽。花はそちこちに。

ガーデンズ・バイ・ザ・ベイを歩いていたら、突然に現れた巨大な赤ん坊の彫刻。空中に浮いているようでインパクト大です。
奥には、先ほどのベイ・サンズのホテルが。

翌15日は下町を歩きました。庶民が集うところというのはどこもいいものです。

下は、リトル・インディアLittle Indiaのスリ・ヴィラマカリアマン寺院Sri Veeramakaliamman Templeの内部。敬虔なヒンドゥー教徒が祈りを捧げていました。
上履きのままに敷地に入ったら注意を受けました。上履きは不浄のよう。

チャイナタウンChina Townの象徴は新加坡佛牙寺龍華院Singapore Buddha Tooth Relic Temple。
中に入ると仏教徒たちが僧侶の詠唱にしたがって日本の般若心経のような書束を繰っていました。
この巨大な建造物の上階は市民の座禅の道場もあり大方は博物館になっていました。
まさに、シンガポール仏教のシンボル!

チャイナタウンのにぎわい。サチコさんと相棒と。
中に日本の100円ショップ・ダイソーのような1ダラー(ドル)ショップがあって、おもしろかったです。
サチコさんは日本へのお土産用にと爆買い?(笑い)

シンガポールは庶民のためのフードコート(飲食店ブース)が充実しています。安価なので気軽に食べられます。
ここマックスウェルフードセンターMaxwell Food Centreでは、歩き疲れのひと休みの氷菓子を。
ここは約80メートルほどもあろうかと思われる棟(ストール)が3つも並んで、105店舗が所狭しとひしめいています。
シンガポール人は基本、昼食を作って職場に持ってゆくということがなく、こういう場所を利用しているそうな。

翌16日は渡航のメインのセレモニー当日。
へぇー、と筆者は少し新鮮に思ったのです。シンガポールの庶民の家(高層団地)って、あちらこちらでナショナルフラッグ(国旗)を掲げているんだ、自分の国のだけでなく。
そしたら相棒が言うのです、「いやだあ、あれ全部、洗濯物!」(笑い)。要するに筆者は遠くがよく見えないのです。
考えてみたら、こうする以外に洗濯物を干すという方法がないわけなんだ。
花嫁の父に聴いたら、シンガポールで一戸建てなんて夢の夢、大金持ちだけが許されるということです。

当日の朝の祝いのセレモニーのひとつ、ゲートクラッシュGATE CRASH、文字通り玄関を打ち破ることです。
新郎の男性チーム Brothers と新婦につく女性チーム Sisters が分かれていて、新郎は新婦の家に迎えに上がるのですが 、その時にSistersチームは新郎と Brothers に難題を投げかけて簡単に家には上がれないようにする風習だそうです。
あっ、来た、来た!とSisters。赤い袋を持って待ち構え…。
どういう難題を投げかけられたのか分からなかったけど、いかにも不安げで、戸惑っている新郎。
赤い袋に何か(お金?)を入れて、ようやく玄関を開けてもらった様子。

このあと会場をホテルのレストランに移して、ティーセレモニー(献茶式)と祝宴がありました。
ティーセレモニーは華僑の結婚式で古くから行われる伝統的な習慣だそうで、新郎と新婦が両親、親族にお茶をささげることで新婦と新郎はお互いの家族に迎え入れられたことを意味するということです。
祝宴は150人という大勢の参会者でした。

祝宴にはとりたててのプログラムというのはなく、あったのはふたりの参会者へのお礼の言葉ぐらいでした。
参加者は日常の服装、ラフなひともたくさんいました。
また、(用意はされていましたが)酒をつぐ習慣もなければ、第一酒類を口にするひともほとんどいなかったと思います。

豪勢な中華料理がめいめいに次々と出され、こういう支払いはどうするんだと心配にもなったもの、そこでたくさんお世話いただいた(日本に留学経験があり、現在は現地の日本企業で働く)Kさんに聴くと、すべては新郎新婦ふたりの収支、そこに家は関わらないとのことでした。
日本のような(余計な)引き物はなく、参加者は自分が口に入れる分に少し色をつけてお祝いを持っていくので、ふたりがたいへんなものをかぶるというのはないのだそうです。それは実に合理的と思ったものです。

シンガポールの人々の大方は英語ができます。
それは誰もが特別の教育を受けたからではなく、他民族で他宗教の人々がつどう社会ではどうしても共通の言語が必要とされ、日常生活の中で自然に身につくのだと思います。
自分たちのような旅行者としては知っている単語を並べて用件を伝えるだけでなく、英語でスムーズな会話ができたらなあと実感したものです。二人だけの場面では困ったことも少なからずあったのも事実。
でもまあ、わずかな英語と身ぶり手ぶり、それに相手の目をよく見ていると何となく思いは通じて安心もしましたが。

下は、家族との最後の晩餐。
フィッシュヘッドホットポットFish Head Hot Potと言うのだそうだけど、味わえば、日本で言う鱈鍋でした。ただ鍋に梅干しが1ヶ入っていて、その酸味がよい味を出していましたが。

いやあ、こころあたたまるシンガポールの時間でした。

米沢に戻ると、そこは冬のさ中。3月の半ばを過ぎたというのに、例年にはない寒い日が待っていました。
18日から27日までの10日間というのは、またしてもの「水仙月の四日」、春の吹雪、でもそれも27日が最後だったように思います。

シンガポールとのあまりのちがい、春の雪。

屋根に積もった雪がドドドッと落ちてきました。

庭のモミ(樅/マツ科モミ属)はまるでクリスマスツリー。
意外かもしれないけれど、モミは日本原産で特産です。
ヨーロッパのものはモミではなくトウヒです。

笊籬溪の雪化粧。

ヒュッテの前の、植栽したブナ(山毛欅/ブナ科ブナ属)も雪化粧。

そうして春の訪れを告げる靄(もや)が立ってきました。
この薄ぼんやりの甘い空気こそが何よりの春のしらせなのです。
この幸せな、森の空気感。

靄立ち込める中、谷側から見た我がヒュッテ。
薪小屋に積むことが叶わなかった薪の越冬です。 

モミの葉の春のしずく。

笊籬溪の現在。

そして筆者が春が来たことを感ずるのは雪を割って咲くオウレンの花たちです。
氷点下の朝、寒さにふるえながらも咲いたオウレン。

ルーザの森の、清冽な小流れの一角にオウレンの花が咲くのです。
たぶんだけど、ここに、この時期にこの花が咲くのを知っているのは筆者だけだと思います。

オウレンまたはキクバオウレン(菊葉黄連/キンオウゲ科オウレン属)は多年草。日本の特産種で希少種。
根茎が黄褐色で、健胃・整腸・口内炎などの生薬の黄連となる有用植物です。

この菊の葉様の葉のみどりと花の白さはどうだろう。

この花をじっと見てから、筆者の春ははじまっていきます。

朝食が済んだやいなや、相棒が「ちょっと、ちょっと!」というので外を見てみると、カモシカがやってきていました。
彼女はカモシカ君に「ガンバレヨ!」と声をかけていたけど、いったい何を頑張れというのだろう(笑い)。
カモシカが通った足跡。

除雪の目じるしの(3メートルほどの)竹棒も回収したし、もはや春なのです。

積むスペースがなく玉切りのままにしていた薪材が雪から現れ出たことだし、もはや春なのです。

庭のヤマモミジ(山紅葉/ムクロジ科カエデ属)が雪を跳ねて起き上がったことだし、もはや春なのです。

残った雪がワインとビールの冷蔵庫代わりになったことだし(笑い)、本当にもう春なのです。

2024年の冬から春への移りかわりの話はこれでおしまいです。
春はこれからはたしてどんな顔を見せるものやら。
じゃあまた。
バイバイ!

 

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