森の生活

焚火

本日は(2023年)12月18日。
おとといのこと、旧知にある物を届けようとその添え書きに記したのはこの冬の異様な好天つづきのこと、暖かさのこと。
クリスマスまでもう間もないというのに雪がないのです。12月に入って雪が降ったのはただの1度きりで、それも数日のうちに消えてしまっていました。
いつものこの時期の風景とあまりに違い、拍子抜けするやら、安堵するやら、少々心配になるやら。

と、昨日17日夜からまるでこれまでを挽回するかのように?本格的な雪が降ってきました。
こりゃ積もるぞと予想して翌朝に外を見たら、何と約50センチ!
降るのは構わないけど、こういう一気はちょっとねえ(-_-;)。
除雪の感覚を取り戻すべく5時には起き出して除雪機を始動、砂利を巻き込むおそれのあるところはスノーダンプでセッセセッセと、汗をかきかきたっぷり1時間は働きました。

今回のsignalは「焚火」がテーマです。
本当は昨年の秋にまとめるつもりだったものを先送りにしてしまい、今年は雪が降らないうちに何とかなどと忙しさにかまけて引き延ばしていたら、雪が来てしまったというわけです。
でも、これ以上、延ばすのも何だしということで。

下は、我が家の上空高くからの鳥瞰図。我が家が森の中にあるということが一目瞭然の1枚です。
息子の友人がドローンで撮影してくれたものです。2016年8月の撮影。

筆者が森の生活にあこがれをいだいた直接のきっかけは薪ストーブで暖をとりたいと思ったことからです。冬場に家の中に火があるというのはただそれだけで心豊かになるもの、日常とはちがった上質な時間が過ぎるように思ったわけで。
そして(米沢市郊外の)ルーザの森に移り住むこととなり、薪ストーブを招き入れてこの方30年、それはいささかも変わることはありません。
薪ストーブのある森の暮らしは、ただそれだけで満ち足りています。

森の生活で、もうひとつ虜になったものがあります。それは焚火です。


隣接するコナラ(小楢)の林の中に、引っ越してほどなく3年ほど手をかけて切り拓いた広場があり、そこに炉を切っているのです。昔の家屋にあった不要な囲炉裏の石を伝手(つて)を頼ってもらい受け、運び込んだものです。
ここで、夏分は火を焚きます。

漆黒の闇に浮かぶ焔(ほのお)、頭上の星や月や、木のはぜる音、巻きあがる火の粉…、焚火は何と素敵な時空を用意するんだろう。
ときにヨタカ(夜鷹)がキョキョキョキョキョキョキョと啼き、ときにフクロウ(梟)のオッホ  オッホオッホ、ホトトギス(不如帰)は飛甲高い声を発して闇夜を切り裂き、トラツグミ(虎鶫)は悲し気な笛を吹いたりします。
炉辺には至福の時間が漂います。

筆者は、辻まこと(1913-75)が好きでしてね。
辻の面影を求めて、ゆかりのあった東京は御茶ノ水駅前(すぐ近くに岩波ホールがあったなあ)の茗溪堂という書店を訪ねたことがありました。そして、著作の何冊かを買い求めて悦に入ったものです。
その山の本に特化していた茗溪堂は今はなくなってしまったよう、さびしいことです。

辻まことの母親はかの伊藤野枝(1895-1923)、父はダダイストで詩人の辻潤(1884―1944)です。(辻潤は宮澤賢治の詩集『春と修羅』をいち早く評価した人物としても知られる)。
辻まことは出自にして、クリエイターおよびアーティストの血が濃いわけで。絵も描くし、文章にも秀で、音楽をもものする…。

肖像は、『「辻まことの世界」目録』(みすず書房1979)の図版から。

下は、焔についてしたためた辻の一文です。
この一文に出会ってからですかね、筆者が火というものを格段に好きになったのは。
その詩的な言葉遣いの、過不足ない、たたみかけの妙味、何度読んでもクラクラします。

炉辺というのは不思議なものだ。炉を囲んで焔を見ている夜は、たとえ沈黙が一晩中続いたとしても、人々はけっして退屈もしないし気詰まりなおもいもしないのだ。相槌を打っても打たなくてもいいのだ。語り手は半ば焔を聴手とし、人々は燃えうつり消える熱と光を濾してあるいは遠くあるいは近く、そこから生まれてくる話を聴くのだから。  画文集『山の声』あとがき(東京新聞出版局1971)より 

どうだろう。

以下には、焚火を詠んだ句をはさんで、おりおりの思い出の焚火のシーンを記してみたいと思います。
「焚火」は冬の季語として長く詠まれてきた題材です。
ここにあえて句を登場させるのは、筆者の言い足らぬ思いの補足という意味合いもあってのことです。
なお句は、手持ちの『現代俳句歳時記 冬・新年』(石田波郷編、主婦と生活社2000)および俳句のwebサイトを参照しています。

遅れ来る人を待てざる焚火かな   稲畑汀子
筆者にとって、焚火は客人への何よりのもてなしと思っているふしがあります。そう思って、いつ来るかいつ到着するかと気が急いてきて、想定よりも早く火をつけてしまうこともあるもの。待っていられない!(笑い)
稲畑はそんな情景を詠んで、焚火に強い愛着を寄せています。

ゆつくりと山が近づく焚火かな   柴田朱美
日暮れ時に焚火をしだすとなぜだろう、遠くの景色が近づいてくるという錯覚を覚えることがあります。
不思議なことに焚火は、遠くの景色だけではなしに遠い心象風景やはるかな過去も引き寄せてくるのです。
焚火は時空を詩的に撹乱し、引き寄せる力があるのです。

下は、昨年の6月の地区の行事(「持ち寄り交換会」)あとの打ち上げのひとコマ。

遠く宮城県は加美町から、(2018年秋の、我がルーザの森クラフト展に来てくださったご縁の)蕎麦屋の若女将が出張の仕事のついでに立ち寄ってくれました。
4年前の9月のことです。

たぶんこの時(2016年6月)は、熊鍋をつついたのだと思います。
右手前の須藤さんは単独での伐採を生業とするひとであり、熊撃ちの猟師でもあります。その彼から熊肉の差し入れがあって。

アメリカ出身のBillさんは東京のマグロの卸し業者、夫人は香港出身の周さん、そして神奈川の根本さんも加わって。17年の5月。
知らない世界が渦巻いて、刺激的な一夜でした。

とつぷりと後ろ暮れゐし焚火かな   松本たかし
闇が徐々に増してくる頃に焚火を見つめていると、背中がどんどんと闇に包まれるように感じるものです。その、焚火の醸す空間感覚は不思議なものです。
この句は手持ちの歳時記でもwebサイトでも採られていたもの。「焚火」を詠んだ名句として残るひとつなんでしょう。

焚火して八方の闇深うせり   岡本久也
焚火が四方八方の闇を深くするというのです。
焔の赤い色がまわりのわずかな明るさを吸い取ってしまうかのように、焚火は闇を大きく深くしていきます。

星あまた焚火の火の粉舞ひ上る   島村茂雄
ルーザの森には余計な明るさがないので、雲なき、月なき、漆黒の夜の頭上には満天の星です。
広場の木立のホールからも星は瞬いて見えます。
その、天に向かって火の粉が舞い上がる様は圧巻、まるで火の粉のひとつひとつが星に置き換わるがごとくです。

魂を送るごとく焚火を高うせよ   辻 美奈子
東北南部(特に山形県と福島県北部)には羽山(端山、葉山、麓山とも書く)という山が点在しています。ここルーザの森にも羽山はあって、地区の共同墓地はそのすぐ下に位置しています。
死んだ者の霊魂は近在の羽山に3年とどまって残してきた者を見守り、そののちに奥山、深山へと移ってゆく…、これが羽山信仰です。
句は、焚火はその魂への捧げでもあるということなのでしょう。焚火を高く大きくすれば、魂を送ることができるというのでしょう。

以下は、焚火場のある広場の、林の四季の移ろいです。

雪解けの3月の、林の中の朽ちた巣箱。

主屋からすぐの、広場への切通し。
若葉萌えいずる5月。
雪が消え、地面があたたまって、そこら中がポカポカの春、うれしい季節の到来です。

5月の、若葉うつくしい広場の風景。

みどりが濃くなった6月の広場。

焚火場から立ち昇る煙に映る日のひかり。
この斜め差すひかりの幕は荘厳な感じさえします。
7月のこと。

10月の林。

大方のコナラの中に1本だけ生えるアカイタヤ(赤板屋/ムクロジ科カエデ属。イタヤカエデの1種)の黄葉。
11月はじめのこと。

焚火場の頭上のホール、11月半ば。
夜はこの空間に月が灯り、星が点ります。月夜には雲が流れていきます。

11月半ば過ぎのこと、風が来て、赤く染まったコナラの葉がいっせいに舞うときが来ました。

11月下旬のこと、半乾きのイラモミ(刺樅)の枝を炉にくべたときのもの。
このイラモミはクリスマスツリーとしてもてはやされるモミ(樅)にも増して美しい姿をしていたものです。
昨年の夏、マイマイガ(舞舞蛾)の幼虫の異常発生ですべての針葉が食べられてしまい(それは異様な光景だった)、とうとう枯れてしまったのです。
したがってこれはイラモミ供養です。

ヒュッテの前に立っていた在りし日のイラモミ(刺樅/マツ科トウヒ属。別名にマツハダ/松肌)。
実生(みしょう)の幼木から大切に育てた木だったので、枯れてしまったのはとても残念なことでした。

12月はじめの、ルーザの森ではめずらしい霧の朝。
ここは標高が350メートル、この高さまで霧が張るのは年に何回とありません。
広場からの、霧に浮かぶ主屋。

広場は落ち葉におおわれて。落ち葉の絨毯に朝日が差して。

下は2009年の11月3日のこと、紅葉がピークのときに牡丹雪がゆっくりと落ちてきました。

12月の新雪に朝日が差して。

真冬の切通し。

焚火して語り合ひゐる影と影    工藤義夫
焚火を前にして影と影が語り合っているのだという。
影と影が語るって、焚火以外に歌になるロケーションてあるものなのかどうか。その奥ゆかしい風景。

色々のてにひらのある焚火かな   塩田博久
冷える日には焚火は磁石のごとくひとびとを引きつけるもの。そしてひとびとはかじかんだ手をかざして熱を焚火からもらうもの。
たくさんのひとびとがひとつの焚火を囲み、そこにはきっと皺が深い手はあったろうし、小さな手もあったのかも知れない。

ひとり来てふたりの抜けし焚火かな   深澤 鱶
焚火にたたずんでいると、わきに据えられたテーブルから立って火にあたりに来て、温まってはまたテーブルに戻るという光景はよく目にするもの。
でもこの句はあたたまっては現場に戻る労働者の風景でもあるような。
そうして焚火ひとりは動かずに、入れ替わり立ち代わりして訪れる者に熱とひかりを惜しみなく与え続けるのです。

焚火の輪人間臭き人ばかり   松田都青
広場には歳の別なく性の別なくやって来るのだけれど、焚火の風景を観察していると、火を前にしてひとりになって枯れ木を放ったり、火を育てたりしてたたずんでいるのは圧倒的に男、しかも年寄りが多いのはどうしたわけだろう(笑い)。
焚火に集まるのは人間くさいひととな、火にいろんなことを聴いてほしいのかも知れず。

子どもを連れた家族が遊びに来たときのもの。8年前の5月のこと。
当時この家族は東京のど真ん中で暮らしていたので、子どもたちの興奮のしようといったら…。
眼がキツネのようになっていたっけ(笑い)。 

仙台からのお客さんを迎えて。14年前の思い出の夜。
中央の秋元さんはこの時ちょうど還暦で、わざわざ娘さんを横浜から呼び寄せての祝いの会ともしたのでした。
お世話になった右のおふたりはもう鬼籍に入っています。
この、みんなの笑顔が忘れられない夜です。

当時の職場の同僚がつどってカンパイ! 2012年の7月のこと。

一世を風靡した教育評論家の故・村田栄一夫人の悦子さんが横浜からおいでになって。
2016年の5月、筆者のかつての仙台の仲間で彼女を囲んだ一夜。
筆者も親交のあった村田栄一さんはこのルーザの森にとても来たがっていたのですが、12年1月に願いかなわぬままこの世におさらばしてしまいました。
悦子さんは夫の無念を晴らすかのように、夫の分もと、写真を自分の後ろの木にくくりつけて話しかけていたっけ。
「ねえ、うらやましいだろう!?  代わりに、私が来ましたヨ」とか、何とか。

東京での送る会での遺影にもなっていた栄一さんの肖像写真。

書表現作家の阿羅こんしん(大友慶次)さんといっしょに焚火に当たって。2009年10月のこと。
こんしんさんとの一夜は忘れ得ぬ時間です。風呂敷をどんなに大きくしても包み込めないほどに話は大きく膨らんだのでした。
これまでのホンマテツオを芯からささえてくれた恩人のおひとり。まごうことなく、コスモポリタンでした。
コスモポリタンという表現がしっくりきたのは彼がはじめてだったかもしれない。
その彼が2年前の6月にあの世に旅立ってしまいました。

筆者の仙台時代の同僚の一家が訪ねてくれた夜。
共通の若い友人(とその息子さん)も横浜から合流して。4年前の5月のことです。
日中は山に分け入って、みんなでコゴミ(屈)やコシアブラ(漉油)などの山菜をたくさん採って、それが天ぷらやおひたしになってテーブルに並んでいます。
酒がおいしいわけです。

相棒のヨーコさんの姉が横浜から来て。これも19年の5月のことです。
姉と妹が焚火のかたわらで語っているなんて、いい絵です。
この日もミズ(水=ウワバミソウ/蟒蛇草)などの山菜を採ったのだっけ。

焚火してどんどん過去を投げ込める   塩川雄三
焚火の焔を見つめていたら、どんどんと思い出がわいてきた、あふれるほどにわいてきたというのでしょう。そしてそれも火に投げ入れるのです。
そうなのです、くべるのは木の枝だけではなく無尽蔵の思い出もなのです。そうして火を育てていくのです。

黙りをる記憶ばかりの焚火かな   辻 美奈子
火を前にして黙っている風景っていいものです。
火の前で黙るというのは、(辻まことを引くまでもなく)自分との対話がはじまるということ、火に話しかけるということ、そして火の言葉を聴くということでもあります。

もう、ロレツが回らぬふたり。
中央の彼は感極まって泣きはじめたのでした(笑い)。

オヤジたちの酒、酒のにおいがプンプン(笑い)。ブルース!(笑い)

徐々にボルテージが上がってきて。

言い足りぬこともあらうに焚火消ゆ   内山照久
会話は火とともに盛り上がり、火とともに消えゆくのです。
火が心もとなくなれば、じゃあ、このへんで、ということになっていきます。

一切を投じ了へたる焚火かな   中村房枝
我が家の焚火の材料は特別に用意するというのではありません。木の不要な枝打ちや倒木の処理の過程で出たもの、それから大工仕事で出た切れ端やどうにも使うことができない廃材がほとんどです。
それらのものを焚火場のまわりに運び込んでおき、生木は1年以上は乾かしたものを材料とします。
その日に決めた量を投じ終えれば、我が方とて一抹の寂しさもあるわけで。

告白は焚火の後と決めており   津田このみ
大切なひと言は火が消えて冷静さを取り戻してから、というのでしょうか。「好きです」とでも告げたいのか、どうか。
川柳に通じる味わいのある俳句です。

火照りたる焚火の顔のまま戻る   高倉和子
焚火の強い熱に当たれば顔は火照るもの、焚火の熱を留め、焔の色を留めて作者は普段の時間に戻ったということです。
そのあざやかな時間のとどまりは、何を想像したのか上気のとどまりでもありましょう。

以下は、筆者が代表を務めていた読書会・米澤ポランの廣場(略称として、廣場)のスナップの数々。
この場所で宮澤賢治の作品を読んでいたのです。

59歳という年齢で逝ってしまった会員の長谷部さん。大切な仲間を失った悲しみがしばらく尾を引きました。
2003年の7月のことでした。
読書会を離れても、長谷部さんとは焚火をしてよく飲んだものです。いつも楽しい酒になりました。

読後に語り合う廣場の面々。

休憩の合間に。

廣場の本拠をこの場所に移したのは1994年の春のこと、引っ越してひとつの冬を越してすぐのことです。
それからこの焚火のかたわらに何度つどったことでしょう。そしてどんなにか賢治の豊饒な世界に遊んだことでしょう。
そしてこの10月に、33年と4か月の読書会の歴史に終止符を打ちました。
出会いがあれば別れはいつかはやってくるもの、会の先細りが懸念される中、いつの間にか消滅していたというのは絶対にイヤ! スマートにスタイリッシュに会を終えたいと思ったのです。

散開(!)ののちに、各々はそれぞれの場所で、賢治のタネをどう蒔くでしょうか。
ワタクシはこれからどうするんだろう、今はただ、休息の時間にひたっていたいのです。

こんな持ち寄りの料理が並ぶのもいつものことでした。

この場所での最後の読書会に、キクイモ(菊芋)の花を飾って。


この6月、北海道は旭川に住む(小中学の同級生の女性の)友人が山仲間を連れて泊りに来てくれたことがありました。本州の登山ツアーの帰路の途中のことでした。
筆者が案内した西吾妻にまだ高山植物は早く、バイカオウレンとわずかなヒナザクラ(雛桜)がようやく見れたぐらいでした。
でも、このふたつはとても貴重、バイカオウレンは西吾妻が北限、東北限定のヒナザクラはここが南限という地理上の特殊性があるのです。

下は、朝ドラ「らんまん」の第1週のタイトルにもなったバイカオウレン(梅花黄蓮/キンポウゲ科オウレン属)。
筆者は今もって、「らんまん」ロスが続いています(笑い)。

前の晩は大いに飲みましたよ。もう明るいうちから(笑い)。

筆者はかの国屋裕子さん似(笑い)の同級生マドンナ・ノリコと「夏の思い出」をデュエット。
それから興に乗って、メートル上がって、若い日に北海道のユースホステルで聴きおぼえた「岩尾別旅情」という歌を歌ったのです。
そしたらです、リーダーが顔を手でおおってオイオイと泣き出すではないですか。どうした?

そして瞬時に想像しました。
歌にかぶって彼に去来したのは誰かとの別れなのは確か、でもそれは悲しいだけではない、己を支えてきたような大切な、忘れ得ぬ思い出でもあるのかと。
そう思えば涙は、いやにまぶしくもあり。
素敵な彼、元気でいるかなあ。

と、そんな彼から、最近メールが届きました。
「旭川に君が来たときには、タクランケにならないほどには飲むぞ!」と。タクランケ、ねえ(笑い)。
このタクランケ、北海道人には共通語?
筆者は分かっているのに、まわりの米沢原人(笑い)の誰もが知らないというのです。ハテ?(笑い)。


この、みんなのシェーは我が焚火場の、最高の1枚かなあ。
マドンナも、プリンセス・キヨミも、クリス鳴海も、リーダーも、相棒も、みんなみなの、シェー!

焚火してつくづく終の栖かな   宮原みさを
一生を焚火の番をしてゐたき   辻木桃子
句は、焚火をすることでつくづく終の住処を思ったということでしょう。
ここで暮らして、ここで焚火をして、ここで弱っていく、萎えていく、潰(つい)えていく、土に還っていく…、宮原はそういう最上級の愛着を土地に捧げているということでしょうか。
それならそれは、まったく筆者のことでもあって。
そして、自分も辻木のごとく一生、焚火の番をしていたいと心から思うのです。

焚火して残り火といふ時の中   柳川 晋
焚火という題材を詠んだ句を味わう時間はいいもの、その中でも筆者が特に心惹かれたのはこの句でした。
「時の中」で留まっている時間、その止まっている時間が引いている余韻が何ともここちよいのです。
みんながひき上げた後、焚火の最後は筆者が終わりまで見届けます。
このひとりの時間もまたいいのです。

焚火の話はこれでおしまいです。
じゃあまた。
それでは、楽しいクリスマスを、よい年の暮れを、そしてよい新年を迎えられますよう。バイバイ!

 

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