東北南部も(例年に比べだいぶ遅いけれども)梅雨に入った模様、ルーザの森はこの時期にふさわしくクリ(栗)の雄花のにおいに満ちています(精液のそれに似てイヤだというひともいるらしいけれど)。
森はみどりの濃さを増し、膨張し…。
筆者たちのように森で暮していると、その時々の食材も山野からの恵みとしていただくことになります。そうして、太陽の運行と共にある自然の時間の流れが食を通して身体のなかにしみこんでいくのです。この時間はとてもふくよかで且(か)つつややかです。
この時期にはコシアブラ(漉油)、この時期にはシオデ(牛尾菜)とかワラビ(蕨)とか。ワラビが落ちつく6月に入ればネマガリダケの竹の子を渇望するようになり、それはムクムクと夢にまで出てくるほどです(笑い)。
山菜のなかでも、このネマガリダケは特別です。里のマダケ(真竹)などの竹の子とはまったく別物といってよいと思います。
あの、茹でた時に部屋いっぱいに漂う、トウモロコシのハニーバンタムのような何とも言えない甘い香り、口に入れたときのやわらかくてしかもサクサクとした心地よい食感、それが鯖缶が入った味噌汁になど浮いていたりすれば、もうこの世の終わりが来てもよいようにさえ思うのです(笑い)。
ネマガリダケの味を知らないひとがいるとしたら、そのひとは人生の半分を損しているかもしれない(笑い)。
嗚呼、ネマガリダケやネマガリダケ、君は偉大なる存在ぞ!(笑い)
ということで、この(6月)15日と18日に天元台に行ってきました。
ネマガリダケ(根曲竹/イネ科ササ属)の標準和名はチシマザサ(千島笹)。別名にネマガリダケがあるのですが、むしろこちらの方が一般的です。
地域によってガッサンダケ(月山竹)とかチョウカイダケ(鳥海竹)とか言い、当米沢地方ではアズマダケ(吾妻竹)あるいはアズマホソダケ(吾妻細竹)とも言っているみたいですが、何のことはない、ネマガリダケが出ている山や地域の名前をくっつけただけの話です。
この調子でいくと、秋田や会津や信州などのそれぞれの本場では、また特別の名で呼ばれているのでは。新潟ではヒメタケ(姫竹)と呼ぶということで。
ネマガリダケは北海道から本州の日本海側の多雪地帯に自生しますので、これは雪国の恵みというものです。長くて重い冬に耐えたひとに与えられる森の幸でもあるのだと思います。
天元台の自生地はロープウェイの終点の高原駅(1,300メートル)近くのペンション村周辺あたりから(実際は1,000メートルくらいから)リフトトップの北望台(1,800メートル)ぐらいまで垂直に分布していますが、単にそれはリフトの両脇で視界が届く範囲のことであって、実際の自生地の面積といったら想像を絶する広大なものだと思います。
下は、標高1,500メートルくらいの自生地、筆者たちのピンポイントの採り場です。
背景に見えるのはダケカンバ(岳樺/カバノキ科カバノキ属)とオオシラビソ(大白檜曽/マツ科モミ属。別名にアオモリトドマツ/青森椴松)ですので、この風景でも標高の高さは察しがつきますね。
藪のなかに分け入れば、出ています、出ています。
これに、根元までぎゅっと指を挿して傾きとは逆方向に力を入れると、竹の子はポキンと折れます。ポキン、ポキン、ポッキン…、この音がたまらないのです。
地表に出ている丈が短いものは折らずに全体をギュッとつかんで傾きの方向そのままに抜き取ることもあります。こっちはポキンならぬスポンです。
ポキン、ポッキン、ポッキンキン…、スポン、スッポン、スッポンポン…、この地上にこれより優れて感動的な音楽がまたとありましょうか(笑い)。
とはいえ、山菜採りの中でも最も難儀するのは間違いなくネマガリダケの竹の子採り。
何せ、下のようなところを掻き分けかきわけ進むのですが、ネマガリダケというのは冬に重い雪をかぶって圧されひれ伏し、雪が解け春が来ては立ち上がる、そのことをくりかえして成長するわけで、そこらの笹(チマキザサ/粽笹)とはわけが違うのです。細いながらもその身丈はきわめて強靭です。
だから一旦ネマガリダケの藪の中に入れば否応なく中腰を強いられ、その姿勢を続けなければ採ること叶わぬこともしばしば。腰痛持ちには正直、堪えますね(笑い)。
そうした中を進むわけで、堅い枯れた茎の先が脛(すね)に、腕に、顔に、目にと向かってきて、実際危険がいっぱいです。
この世の中、頬に瑕(キズ)あるひとは3種。
ひとつは猫を飼っていてじゃれあって引っ掻かれたひと、ふたつ目はアブナイあっち系のひと(笑い)、そしてみっつ目はネマガリダケの竹の子採りです。
当地方に頬にキズあるひとが多いのはみっつめの理由が原因してるかも。頬にキズがあるということは、脛に腕にとキズがあるということでもありますね。
下は、相棒のヨーコさんの恍惚(笑い)。
でも、何でそんなにしてまで?
それは、“猫にマタタビ、ひとにネマガリダケ”(笑い)、だから。
ネマガリダケの味を知ったら、どんなに辛かろうがどんな試練が待っていようが現場に向かうと思います。ネマガリダケ採りとはそういうものです。
そうして、下のようにショルダーの山菜バッグがいっぱいになれば、背負ってきたリュックに移し入れます。
ネマガリダケの赤味がさしているところと白っぽいところは地表より下の部分、何とかがやかしい色艶だろう。
移し替えの時間に頭上を見上げれば、ダケカンバの樹林に空が透けて。
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当然のことながら、ネマガリダケの竹の子採りの場合は熊鈴が必携です。
何せ、“猫にマタタビ、ひとにネマガリダケ”ならぬ、“熊にはさらに強烈にネマガリダケ”なのですから。
ネマガリダケのあるところ、熊はやってきているのはごく自然なことです。
筆者は熊サンにインタビューを試みたことがあるのですが、大好物の断然トップはネマガリダケ、ついで第2位はブナ(山毛欅)の実、第3位に蜂の子、蟻の子などの昆虫の幼虫とのことです。カモシカの幼獣やノウサギなどの肉類、ミズナラ(水楢)やコナラ(小楢)のドングリやクリの実もとても好きだけど、ベスト3は譲れないとのことでした。こだわりですねえ(笑い)。当然架空ですよ。
ということで熊(ツキノワグマ/月輪熊)にとって、春から夏における食糧でネマガリダケの竹の子以上のメインディッシュはないのです。
今回も、ひとが採った跡にしては何か様子が変だなあと思って進むとぽっかりとした空間に出たのはいいものの(そこはオオシラビソの樹下だったのですが)、何とそこには熊が木の皮を剥(は)いだ生々しい跡があったのでした。
その様子を観察するに、“犯行”は前夜より当日の朝ぐらいらしい(ゾゾッ!)。
筆者の住むところにも熊は棲んでいて、散歩のときなど近くの杉林には数多くの皮剥ぎ(または“熊剥ぎ”)が見られるのですが、熊がオオシラビソの木の皮も剥ぐとは知りませんでした。
地区の古老に言わせれば、熊が皮を剥ぐのは、「剥いだ下の生皮(甘皮)をなめたいから。生皮はアマゴイ(甘い)」のだとか。
よく見ると外皮を剥いだあとの甘皮に爪を立てているのですが、甘皮に染み込む甘い汁を掻き出しているのかどうか。
甘いだけでなく、彼らにとっては整腸の薬にでもしているのかどうか。
それから長い時間のスパンで考えて…、樹木が樹皮を剥がされると(それが全周にわたってしまえば、一説には70パーセント以上で)その木は急速に生命力を失います。そこから雑菌が入り腐朽が進み、そこに蟻が入って塒(ねぐら)として繁殖をすれば、それは熊にとっては食糧確保の貴重なひとつになるわけで、そんな見通しがあるのかどうか。そうして倒れた木の根元には必ずや蟻が巣を作っていますし。
基本的に熊はニンゲンに対して臆病、よって熊はいつもは(ニンゲンの目の届く)時間帯をずらして(夕方から朝方にかけて)行動するものですが、魅力的な好物がワンサとあるとなれば話は別かもしれません。
したがってこちらにはニンゲンが居ることをしっかりと伝えるために、ヒト由来のしっかり響く金属音や燃えた煙の匂い(筆者が強く用心するときは、蚊取り線香をともす)を放つことは重要なことだと思います。
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リュックを重くしてヨタヨタと歩けば、そこはもう高山植物の宝庫。天元台高原とはそういうところです。
踏み場もないほどのマイヅルソウ(舞鶴草/キジカクシ科マイヅルソウ属)が花をつけはじめていました。
すぐそばにはツマトリソウ(褄取草/サクラソウ科ツマトリソウ属)の美しい星が。
近くにはコバイケイソウ(小梅蕙草/ユリ科シュロソウ属)の群落が。
コバイケイソウは初夏の高山を代表する花ながら、毎年花を咲かせるというわけではないらしいのだけれど、ここの群落は毎年確実に花をつけています。とてもうれしいことだけれど、どうしてだろう。
と、帰り道でたまたまお会いした天元台の“植物博士”といわれる方にお聞きしても、帰ってからいくら調べても、ネマガリダケの藪のなかで見つけた下の植物が何なのかは分かりませんでした。
分かるひとがいれば、是非情報をお願いしたいところです。
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こう書いたところ、山形県立博物館の植物専門員の方から、「これはツルシキミ(蔓樒/ミカン科ミヤマシキミ属)で常緑低木。特別めずらしくはない、比較的標高のあまり高くないところに産し、林床にあって赤い実をつけます」とのことでした。感謝です。
実はツルシキミは知っていたのですが、もっと咲く時期の早い段階の姿しか見たことがなくそれで惑わされてしまったという次第。
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誰か倒れていると思いきや、なんだ、相棒じゃないですか(笑い)。
あっ、これはワイエスの「遠雷」だ!
“ワイエスの「遠雷」”とは、筆者が最も好きな画家のひとりのアンドリュー=ワイエス(Andrew Wyeth,1917-2009/米)の1961年の代表作。美しい少女の“シリ”のシリーズもよいけど、ワイエスのエスプリはこの絵に凝縮されているように思います。
モデルは妻のベッツイ。
ワイエスは、ベッツイがブルーベリーを摘んでいるところを描きたかったのだけれど、結局はうまくいかず、自分が森に身を隠すと、そのうちにベッツイは眠り込んでしまっていたという。その時遠くに雷鳴を聞いた。そうして眠るベッツイを描いたが今度はどうも顔が現れすぎていると感じて顔を帽子でおおった、という制作秘話を残しています(自作評『アンドリュー・ワイエス展』1995図録より)。
傍らには、カップに摘んで木の籠に満たした(と思われる)ブルーベリー。
ベッツイの帽子に対して、相棒は手ぬぐい(笑い)。
ベッツイのブルーベリーに対して、相棒のはリュックに詰まったネマガリダケ(笑い)。
ベッツイの愛犬のラトラーに対して、相棒の背景には(藪から顔を出している)熊、これは冗談(笑い)。
もうこれは、現代によみがえる新しい名作の「遠雷」の図ですぞ(笑い)。
下は筆者が設置しているギャラリーに自作で額装して掲げている、ワイエスの展覧会ポスター。
1995年に福島県立美術館で開催されたワイエス展は、それまでの最高入場者数を塗り替えたのだという。
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リフトで下れば、天元台高原が一望に。
かつては現在の電波塔のあたりにはホテルがそびえたっていた。
幼いころに子ども会の旅行で来たことがあったけど、とてもなつかしいです(子ども会の旅行って、子どもにとっては一大イベントでしたね)。
ペンション村には10棟が確認できるけれども、現在営業しているのは5棟のみです。厳しい環境に置かれているのはここ天元台も同じこと。
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難儀した竹の子採りも、家に戻れば戻ったで、たいへんな作業が待ち受けています。
それはネマガリダケの“茹で上げ”と、“皮むき”と“節取り”です。
下は、(経験で、熱湯に入れ13分で茹で上げた)ネマガリダケの先端を包丁で斜めに切り、その部分の皮をむいているところ。
皮むきの方法はいろいろあるようだけれど、我が家では先端を切り落とすようにしています。これが最も合理的みたい。
むく作業が終われば、あとはひたすら“節取り”が待っています。
堅くてとても食べられない節はあっても、節と節の間はやわらかいもの。そのやわらかい部分を回収するため、ひと節ひと節と包丁を入れて確かめるのです。これはとてもムサイ(根気のいる)仕事です。
下の写真の左下が、むいたのちに堅いと判断して捨てる部分のもの。
こんなにたくさん食べられない部分が出るということは食べられる部分は少ないということ。
悲しいことに、食べられる部分というのは元の姿のほぼ3分の1ほどにしかならないのです。
そんなにまでして何故!?
くりかえしになるけど、それもこれも、“猫にマタタビ、ひとにネマガリダケ”(笑い)、だから。
下は、下処理の作業全景。
そして、いよいよ実食です。
下は夕食の一例。
こちらからサンショウ(山椒)の実を送ったら、友人はいただいたという小鮎を“山椒煮”にして送り返してくれた逸品とともに、ネマガリダケの粕汁。
筆者は昼にスープカレーをよく作るのだけれど、スープカレーにもネマガリダケを。
2016年の北海道旅行で土産物として買ってきて、それ以来病みつきになってしまったソラチの「札幌スープカレーの素」。
なくなりそうになるとネット通販で即注文です(笑い)。
下は、ある日の朝食。
友人が焼いてくれたパンに燻製のチーズ、ワラビのおひたしに塩コショウで味付けしたネマガリダケとハムの炒め物。
ある日の夕食の、ネマガリダケとホタテの貝柱のすまし汁。庭のサンショウの若葉を浮かべて。
ネマガリダケとミズ(ウワバミソウ/蟒蛇草。イラクサ科ウワバミソウ属)の辛し和え。カニ蒲鉾をのせて。
そして、何といってもネマガリダケを引き立てるのは、味噌汁に投入する鯖缶です。
鯖缶というのは、ネマガリダケのためにこの世に生まれてきたのです(笑い)。
嗚呼、ネマガリダケ三昧の日々や麗しきこと。
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さて、この20日に行われた萬世大路(ばんせいたいろ。米沢と福島を結ぶ旧道で、手掘りの隧道がある土木遺産)の散策会に参加したときのスナップを加えておきます。ここは標高884メートル。
植物に詳しい方も交えての往復8キロの散策会はとても楽しく有意義な時間となりました。いただいた山菜汁はとてもおいしかったです。
(写真提供は萬世大路保存会の竹田実さん)。
いつもの労働の日常の他は、山に登ったり、山菜採りに興じたり…、お呼ばれしてお茶のみに伺ったり、遠くからの来客があったり…。
世はコロナ禍で不自由を強いられている風景一辺倒のようだけど、(申し訳ないようにも思うのだけれど)筆者の森暮らしは以前とあまり変わりません。
そうそう、ワタクシはこの22日で65歳になりました。
自分としたらずいぶん遠くまで来たという印象だけど(近年、大病を患って命びろいもしたけど)、西吾妻山くらいなら難儀せずに登れることを(私的な)基準とする“健康寿命”は、これから長く見積もってあと10年の歳月と思い定めています。
もちろん、それ以上に生きて今もなお快活にハツラツとした行動を示すたくさんの先輩たちがいることは知ってはいます。けれども筆者は目標は控えめに、有限にして確実にしておきたい。
よってこれからも日々を規則正しく健康に留意して過ごすでしょうし、そして10年後にそれが1日でも延びたら素晴らしく幸運と思うようにしようと思っているのです。
一度だけの人生、今までがそうだったけど、これからも充実した日々でありますように。
6月は鎮魂の月でもある。
樺美智子さんが日米安保条約反対闘争で亡くなった6.15(61周年)と沖縄戦終結の6.23(76周年)を今年も胸に刻んで、2021年の6月が静かに過ぎてゆきます。
それじゃあ、バイバイ!
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