本日は(2023年)3月の4日。
あたりはまだまだ白の世界ではあるけれども、雪国の米沢もだいぶ春めいてきました。
時にシジュウカラ(四十雀)が地鳴きではなく、ツピー ツピー ツピーとさえずるようになってきたのも春が近いきざしです。
ふっと思うことがあるのです。
筆者は1956年生まれの66歳だけれど、50代半ばから少しずつ思ってきて年を重ねるごとに確かになっていること…、それは、命はだれしも1回きりのもの、その有限の中で今日々を送っているということです。
この有限感というのが筆者は好きです。
この感覚があればこそ、これをやりたい、あの課題を解決しなくちゃ、気になることを追ってみたい、どこそこに行ってみたい、あの山に登りたいなどと思うもの、その思いがあふれてくるのですから。
そして当然、できるだけ悔いのない暮らし(人生)でありたいと思うのです。
今回のsignalはそんな、あこがれであったひとつについて綴ってみます。
題して「氷筍に会いに」です。
*
地元に住んでいながら、地元でしか見ることができない貴重なものっていろいろとあると思うのだけれど、筆者がここで考えるものはみっつです。
ひとつは、(奥羽脊梁山脈の南端の、東西およそ20キロに渡る)吾妻連峰の縦走路の中ほどに位置する弥兵衛平湿原。
米沢市民でありながら、この湿原の存在を知らないひとは多く、この名さえ聴いたことがないというひとも多いかもしれない。
弥兵衛平湿原は森林限界を超えた標高1,800メートルほどの場所に位置する広大な高層湿原です(高層湿原というのは高い場所にある湿原という意味ではなく、水が流れ込む―流れ出る水路というものがなく、降雨と蒸散だけが湿原の状態を保っている貴重なものをさします)。
しかし弥兵衛平湿原は(登山口から距離があるために)容易に簡便に行ける場所ではなく、山登りをするひとでも初級を少し超えるくらいの体力が必要になります。
筆者はここにもう何度足を運んだでしょう。そしてそこに建つ山小屋に何度泊ったことか。
いつ行っても(晩秋の小屋に泊って凍死しそうになった苦い経験もありますが…。笑い)さまざまな魅力を見せてくれます。
霧の立つ朝の湿原はもう、幻想の絵の中…、
満天の星空には流れ星がビュンビュンと飛んで…、
ワタスゲ(綿菅)やツルコケモモ(蔓苔桃)やモウセンゴケ(毛氈苔)やヒメシャクナゲ(姫石楠花)の高山植物…、
わたる風、静かな湖水と数々の池塘…。
弥兵衛平湿原はまず、飽きるということがありません。
ひとつは、市中より南の郊外、そう遠くないところにある西向沼(にしむきぬま)。
沼の標高はたかだか590メートル、ふたつの低山(東に栃窪山605メートル、西に三郎沢山652メートル)にはさまれた、クルマで乗りつけてから歩いて5分ほどで着く市民憩いの沼です。
なぜそれが重要かといえば、地質史において日本列島に何度も訪れた氷河期の生き残りであるミツガシワ(三柏/ミツガシワ科ミツガシワ属)(花自体はイワイチョウ/岩銀杏によく似ている)という植物が生育しているから。
ミツガシワは普通、森林限界を超えたあたりの高山帯に生育していておかしくないのに(吾妻連峰には確認がない)、きわめて低い山この一箇所に孤立して生きているのは不思議であり貴重です。
もうひとつは、往時の福島と米沢をつないだ国道・萬世大路(ばんせいたいろ)、その旧道の峠にある隧道(ずいどう)内で冬場に見られる氷筍(ひょうじゅん)です。
地元の(万世)コミュニティーセンターが催す隧道までのハイキングに筆者は2度(春と秋に)参加したことがあるのですが、そのときに萬世大路保存会の竹田実さんという方に氷筍のことを教えてもらったのです。
そのとき、“氷筍”という言葉を聴いたのがはじめてなら、(写真の)氷筍の姿もはじめて。その造形の見事さ美しさに感動したものでした。
そして、いつかは是非この目で見てみたいというあこがれが大きくなっていきました。
そして今年、この(3月)3日についに氷筍山行が実現したというわけです。
あこがれはあっても、躊躇というものはあるもの。
ルーザの森のような平地の、我が家からそう遠くない雪歩きならまだしも、気象条件厳しい厳冬期の山中の片道4キロ強の道のりを歩けるのか、どうか。気温はどの程度で、雪崩の心配はないのか。汗の処理を適切にできるのか…。そんな不安があったのは事実。
でも、チャンスを逃すな(笑い)!
話をよく聴いて、服装などの準備を万端にしてともかくも出かけました。
下の地図の上部の赤線が旧国道の萬世大路です。山形・福島の県境に隧道があります。
現在では東北中央道となる高速道路の一部として、8.9キロにおよぶ4代目のトンネルが掘られ開通しています。
私たちのパーティーは “氷筍自主案内人” と称する(笑い)、経験豊かな樋渡敏彦さん(ヘルメット着用)をリーダーに、竹田さんがサブリーダー、同行はテレビ局からの発注業務で映像製作のおふたり、それに筆者の5人です。
氷筍山行は、歩きはじめの標高が550メートル、氷筍のある隧道の標高が884メートル、夏場の距離で4.1キロです。
ただ、リーダーが言うところでは雪の上なら夏場の道をたどる必要はなく、実際は3.7キロということでした。
出発地の砕石事業所(米沢砕石)の事務所わきではもうすでに8人ほどのパーティーが歩きはじめようとしていましたし、その後も何人もの登山者に会ったのにはびっくりしました。
筆者は、我々だけの入山とばかり思っていたのです。
これではまるで、季節のよいグリーンシーズンの西吾妻のにぎわいではないですか(笑い)。
この寒いさなかにねえ(笑い)。
墨絵のような幽玄な世界。
予想よりも雪質は堅く引き締まっていて、(筆者は登山靴にスノーシューの装着でしたが)スノーシューをはくまでもなく、登山靴に軽アイゼンの装着がベストなくらいでした。
山形(市)からおいでだという妙齢の女性はともに、スノーシューをリュックの外の大きなポケットにスッポリ収まるように携帯していて、やはり実際は登山靴に軽アイゼンでした。
途中に行き合った喜多方からお越しという若い(20代?)のふたりの女性はともにスノーシューをはいていました。
しかしそれにしても、この厳冬期に山に入るひとの多いこと。
若いひとたちだけでなしに、福島市からきたという男女8人のパーティーはいずれも70歳前後、数組のカップルもいました。
この時期として、その登山者の多さ、多様な年齢層、登山スタイル(パーティーの形態)にもビックリです。
ちなみにですが、3月1日から3日までの入山者は(事業所事務所に設置の記録簿記入に限っても)71人だったとのことです。
いったいこれはなぜ?
そうして思い当たるのは登山者に人気の “YAMAP” “ヤマレコ” などのアプリでこの山行(具体的なキーワードとして “冬季栗子隧道” “氷筍” か)がアップされ、魅力的な冬場の登山として知られてきているのではということでした。
そういう自分も、はじめての山に向かう場合は、山行記録情報を “YAMAP” 等で入念にチェックしますし(笑い)。
しかし、こう入山者が多くなっている現状で、今後氷筍が美しいままに守られていくのか心配にもなります。
今回の氷筍山行のひとたちを観察して思ったのは、靴、服装、装備が万全であること、いかような気象の変化にも対応できる準備をしてきているということでした。これは当たり前のことだけど、グッドです。
たぶんですが冬場の1,000メートル程度の山の服装の基本は、化繊の肌着にフリースなどの防寒着を着込み、その上はスリーシーズン用のレインウエア(またはスキーウエア相当。この場合は中の着込みは不要)が主流だったと思います。そして、リュックには着脱に便利な軽いダウンベストをしのばせているような…。
とにかく冬の山の場合は、寒さ対策というよりも活動中の汗をどう処理するかが眼目なのです。
筆者もほぼ同様の着こなしですが、このぐらいの用心深さがないと初めての冬の山域には通用しないと思います。
入山者は服装や装備品に結構お金をかけていると思われましたが、冬山はこうでなくちゃいけません。
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皮がはぎとられ白い地肌がむき出しになっている木が目につきました。
これは、ヤマグワ(山桑/クワ科クワ属)です。
サルが食べ物のない冬の時期に、こうしてクワの甘皮部分を食べて飢えをしのいでいるのです。
なぜサルかというと、家の近くで同様の木があり、そのまわりにサルの足跡がくっきりだったので。
ハンノキ(榛木)と思いきや、植物に詳しい樋渡さんから「それはヤシャブシ」(夜叉五倍子/カバノキ科ハンノキ属)と教えてもらいました。
この松ぼっくりはハンノキにそっくり、でも冬芽の様子がちがっています。
山中の冬の道の真ん中に、大型トラックのタイヤが雪をかぶって?(笑い)
いやいやそんなわけはない、わきの斜面をみると上の方からコロコロところがってきた跡があり。そうして車輪のように大きくなったもよう。
ウダイカンバ(鵜松明樺/カバノキ科カバノキ属)。
筆者が知っている白樺の類いはシラカンバ(白樺=シラカバ)と森林限界前のダケカンバ(岳樺)ぐらいで、このウダイカンバは新鮮でした。
この木は脂分が多く、たとえぬれていても燃えやすいのだそうで、鵜飼いのたいまつ(松明)に使われたことからの命名のようです。
フジ(藤)やヤマブドウ(山葡萄)などの蔓(つる)が絡みついて、ついには太い枝を折るまでになってしまった様子。
「自然はバランスがよく取れている」とはいうけれど、バランスとは果てしない競争の末の結果をいうのだと思います。
みんな生きるのに必死なのです。
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歩きはじめて2時間15分ほど(休憩がけっこうあって。筆者の足だったら1時間50分くらいの所要時間だと思う)で、目的地の栗子隧道に着きました。
下は、夏場の隧道。
左が1937(昭和12)年竣工の「栗子隧道」坑口、右が1881(明治14)年竣工の「栗子山隧道」坑口です。
写真は、「萬世大路散策マップ」(歴史の道土木遺産萬世大路保存会発行)から。
下は、あの「鮭図」で有名な画家の高橋由一(1828-94)が描いた明治期の栗子山隧道の西口(米沢口)の様子。
“土木県令”と言われた山形県の初代県令の三島通庸(みちつね/1835-88)は工事記録として写真に残すだけでなく、当代一流の画家にその様子を描かせていました。
この隧道の工事初期はタガネとハンマーによる手掘りだったようです。すごいことです。
栗子山隧道の西口の現在。
下は、5年前の隧道ハイキングに参加したときのもの。同じ町内会のAさんと坑口前で。
今回、坑口に入って外を見たところ。
そして、あこがれ募った氷筍にようやく会えました。感激です。
坑口から見下ろした氷筍の全景。
巨大なツクシ(土筆)のようであり、仏さまのようであり、五百羅漢のようであり。
モンスターのようであり、コブラのようでも、直立するミミズのようでもあり(笑い)。
氷筍は、天井から垂れ下がる氷柱から一点集中して水滴が落ち、落ちた瞬間に凍ってどんどんと成長を遂げるのです。
鍾乳洞の鍾乳石と生成の過程は似ているけれど、この氷のクリスタル、やがて暖かくなれば消えてなくなる刹那感、一瞬感、短期感…、これらがはかなさをともなった美しさを醸し出しているように思います。
竹田さんによれば、この氷筍を発見したのは(万世)地区の方だそうで、今から15年ほど前のこと。冬の栗子山を歩いてふと隧道に立ち寄ってびっくりしたのだとか。
その方に話を聴いた竹田さんが冬の隧道を訪れたのは5年ほど前、樋渡さんは竹田さんに誘われて3年前とのこと、そう、栗子の隧道の氷筍の評判が立ったのはほんのここ数年のことなのです。
竹田さんと氷筍。
70代後半という彼の健脚ぶりには脱帽です。
竹田さんに撮っていただいたヘルメット装着の筆者。
隧道内はヘルメット必須とのことで、持ち合わせのない筆者はワークマンに走ったものでした(笑い)。
下は、栗子隧道坑口。
坑口前に立つ筆者。
雪がどのくらい深いか、わかるのではないでしょうか。
坑口を内部から見たところ。
外からの坑口。
夏場には床から天井まで5メートルもありますが、
そこで、屈めば中に入れる程度にスコップで雪を掘りだしているのが現状、とは樋渡さんの話です。
栗子山隧道の氷筍群は童話のような美しさなら、こちら栗子隧道のそれは小説のような美しさ、と表現できるかどうか(笑い)。
その具体的なちがいの言葉に詰まる筆者かな(笑い)。
アカデミー賞のトロフィーはここからアイデアを得たのです。
真っ赤なウソです(笑い)。
取材クルーの撮影風景。
この巨大な親指、どっかで見たことあるんだよなあ(笑い)。
そうそう、もう27年前の、信州上田の美ヶ原高原美術館。
なつかしい!(笑い)
この氷筍をよくよく考えてみるのです。
天井から氷柱が下がる…。
氷柱の先から水滴が落ちる…。
その水滴が一点集中して落ちると凍る…。
そして、氷筍が生成され、成長する…。???
筆者が簡易温度計で測った隧道内(氷筍群付近)の温度は、0℃でした。
しかし、それは筆者が立っている位置のことで、天井は1℃とか2℃ぐらいにはなっているのではないかと推測できます。見ている間も、水滴が落ちてくるのです。
天井は分厚い岩盤や土壌に覆われているので保温状態になっており、寒さ厳しくなれば水滴が凍って氷柱ができ、寒さ緩めば水滴が落ちる。
一方の地表面は、外から冷たい風が吹き込んでくるので氷点下になりやすいのではないでしょうか。よって、氷柱の水滴が急冷して氷結する…。
氷筍というのはこういう生成メカニズムをたどるように思います。
経験者のふたりの話では、昨年の同じ時期と比較して、大雪だった昨年よりも雪がぐっと少ない今年の方が氷筍は太くなって高さが低く、奥の方の数が少ない。昭和の隧道の氷筍は細いのが少ないのと、
これは、今年の方が気温が高いことからの現象ではと推測していました。
そもそもなぜ天井から氷柱ができるのか。
それはトンネルを覆う岩盤や土壌から少しずつ水がしみ出すためですが、気温の寒暖差によって天井の素の岩石(明治の坑口)やコンクリートの表面が凍みては解け、解けては染みることをくりかえすことで表面組成が劣化することから起こるものでしょう。
凍って解けるというのはそれほど巨大な破壊力が加わるということです。例えば高い山で岩石が小さくなり礫(れき)になり徐々に砂に変わっていくのも同じことです。
この現象がどんどんと進めば、トンネル内の崩落となるわけです。
つまりです、氷筍ができるというのはトンネルの劣化の指標でもあるということです。
筆者は氷筍を “時間の芸術” と思うのですが、それは時間の経過とともにトンネルの劣化は確実に進み、劣化の進み具合で氷筍が生成され、やがては氷筍も消滅する運命にあるということです。
あと、何年、氷筍は美しい姿を造形するのだろう。
氷筍は私的には、“特別天然記念物”です。
特別天然記念物ということは自然界における国宝に相当することなのです。
文化財担当者のお歴々、指定するなら今ですゾ(笑い)。
下山の頃には晴れ間も見えてきたのです。
お世話になった樋渡さん(左)、竹田さん。
ありがとうございました。
そうして、山を下りたのです。
冬の高い山の雪歩きは過酷なものというイメージはあったけど、氷筍山行は(天候にもめぐまれたことは大きいけれども)比較的楽な行程だったという印象です。
夏場でいえば、西吾妻山の(素朴な吾妻神社のある)天狗岩に行くくらいの感覚でした。
少々構えてはいたけど、それは杞憂(きゆう)というものでした。
氷筍…、とてもよいものを見ました。よいものは力をくれます。
よい労働に勤しんでいると、たまにこうしたよき日に恵まれるものです。
本日はこのへんで。
それじゃあ、バイバイ!
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