森の小径森の生活

雪渡り

本日は(2023年)2月の半ば、ちょうど15日。1年でもっとも厳しい寒さのピークに差しかかっています。
この苦い時期を乗り切るまであと1週間、あと10日の我慢というところまできました。あと少しすれば、春のにおいがしてきます。
でも冬至から約2か月が過ぎて、ずいぶんと日が長くなりました。それはとてもうれしいことです。

時に、大雪がありまして、吹雪もありまして、
時に、酷寒の日もありまして、
そして時に、たまの晴れ間も見えまして。
そんなわけで今回のsignalは、日常の暮らしを差しはさみつつ晴れの日の野遊び、雪野原歩きをつづろうと思います。題して「雪渡り」です。

こんなに穏やかに降る雪を見ていると、春は近いなあと思ってしまいます。
雪国に暮らす者は、雪が降っていてさえもその降り方に春の気配を感じたりします。

現在の自然積雪深は130センチほど。
昨年は極端な大雪だったことはあるけれど、今の積雪は昨年のこの時期の約半分です。
例年この時期のここらへんの積雪は150センチぐらいですから、今年はごく普通の降り方だと思います。
筆者が立っている後ろの雪は、除雪機で飛ばして積もった分もあるので自然積雪ではありません。でもまあ、こんな感じ。

友人からのメールでは、仙台ではロウバイ(蝋梅)が咲いていたとか、三重では庭にチューリップの芽が出てきたとか。いったいそれは、どこの国の話?(笑い)という感じです。

2月に入ってすぐの頃でしたが、ずいぶんと湿った雪が降りました。
湿った雪の重さのために樹木がいっせいに首(こうべ)を垂れました。
こういう雪が降ると、倒木が心配になります。

そんな中、筆者はいつものように工房に入って製作を続けています。
最近はラジオさえつけない日が多く(情報そのものが耳障りに思え)、工房内はとても静か。静かな中で手を動かしているのは気持ちがいいものです。

この冬には新作にいどむ予定にしていて、そのための手ならしとしてペーパーナイフをつくりはじめました。ものを本格的につくるためには手ならしが大切なのです。
ペーパーナイフは手ならしとはいえその造形作業はとてもおもしろく、3種の予定が6種にふえて、もはやその域をこえてきてしまいました(笑い)。
完成までには2月いっぱいかかりそうです。

下は、スピンドルサンダーという機械でペーパーナイフ外周の凹部のカーブを削っているところ。

下は、紙やすりを貼りつけた手磨き用の治具(じぐ)。
数字の120は紙やすりの番数(粒度)、A・B・Cはそれぞれ微妙に異なった曲がり具合のカーブを示しています。
この紙やすりの台木はナイフの持ち手の丸みを出す目的でつくったものですが、こういった治具は製作物の課題に沿ってその都度用意されていきます。

雪も収まってきたので、樹木の日陰でなかなか自然落下しない小屋の雪を下ろしました。
危険を避けるため、気温がマイナスの時間をみはからって屋根に上ります。マイナスなら、雪がごっそりとそのまま滑り落ちることはありません。
それから、トタンの面を出さないように気をつけながらスノーダンプで雪を掬(すく)います。トタンが出ると危険、足を取られてしまって転落しかねないゆえに。

1月半ばからの約1か月半は1年で最も冷え込む時期、薪の消費量もハンパではありません。
何せ我が家では4台の薪ストーブが活躍していますので(笑い)。
薪があるというのはあたたかな暮らしを約束してくれるわけで、それだけで安心、しあわせな気分です。
我が家はほとんどの暖房を電気に頼ってはいないので、たとえ停電になっても暖で困ることはありません。
自分でつくった燃料で冬の寒さをしのぐ、乗り切る…、これは若いころからのあこがれ、理想でもありました。

下は、ヒュッテ(ルーザ・ヒュッテ)のストーブ。
ヒュッテは筆者のデスクワークのオフィスのようなところ、そしてここは何より乾燥室です。
石油ストーブとちがって薪ストーブは湿気をどんどんと飛ばしながら部屋をあたためるので、冬場の洗濯物干しにはもってこいなのです。
逆に、洗濯物がないと部屋の空気が乾きすぎて息苦しくなるほどです。
通常の部屋の湿度は30パーセント程度、ストーブを焚くと25パーセントほどに下がり、洗濯物を干すと30パーセントに戻るという感じです。
寒くてストーブが必要で、干す洗濯物がない場合はやむを得ず加湿器を使って湿度を調整します。

下は、ヒュッテに隣接の工房のストーブ。
工房の天井は高く、広さも15畳あり、これひとつではとても十分なものではありません。
室温が0℃のときにストーブをガンガン焚いても10℃くらいまで上げるのがせいぜいです。
でも、筆者は絶えず動いているので寒さに震えるようなことはありません。

主屋内のギャラリー(ドアリラのラインナップを常時展示、見学可能)兼アトリエのストーブ。
ここは展示スペースですが、塗装などほこりを避けたい作業はここで行います。
広さは6畳で、ストーブは小さいながらこれで十分な暖房能力があります。

主屋のリビングのストーブ。
これだけがメーカー品、アメリカのバーモントキャスティング社製のイントレピッドⅡというものです。
ただイントレピッドⅡはもう16年も使い続けているので、本来この機種に備わっている2次燃焼機能は失われていることは確か(搭載されているキャタリティックコンバスター=触媒が壊れている可能性大)。

我が家のリビングは吹き抜けの大空間、これひとつでは厳しい寒さを乗り切ることはできません。それで補助暖房として対流式の石油ストーブふたつが対応しています。

さて、リビングには今、雛人形が飾られています。
相棒がかつての職場の上司にいただいた(福島県は郡山近くでつくられる)張り子の三春人形のお雛様です。
それに会津の起き上がり小法師(こぼし)を添えて。
小さく軽いゆえに、3分で設置、1分で撤去という手軽さです(笑い)。

でも、一般に流通する目鼻立ちキリリのっぺら肌の(高価な)雛人形よりは筆者はずっと好きです。この素朴さがいいです。
嫁いだ娘に女の子が生まれたので、やろうかと聞けば、(婚家から頂戴したので)イイ!とのこと、ならばと今年も例年通りに飾ることにしました。
雛人形を飾ると、春が近づいてきてくれる、そんな気がします。

時に、大雪がありまして、吹雪もありまして、
時に、酷寒の日もありまして。
そして時に、まるでご褒美のような、たまの晴れ間も見えまして。

こんな日は野鳥たちもうれしいらしく、シジュウカラ(四十雀)がツツツツ、ツツツと地鳴きをしています。
その声を聴くのもいいものです。
それでこちらもうれしくなって2月6日、スノーシューをはいて雪野原に出ました。
新雪が降ったので少々足をとられて歩きにくかったですが、それより何よりめったに出ない日光を拝めるのはありがたいこと、冷たい空気を吸いながらの雪歩きは実に気持ちがいいものです。

小流れはまるで早春の趣きで。

谷筋にはけものの足跡がいっぱい。
多くはカモシカ(羚羊)やタヌキ(狸)、キツネ(狐=アカギツネ)にイノシシ(猪)、それにリス(栗鼠=ホンドリス)にノウサギ(野兎)ですが、この前我が家に来ていたキテン(黄貂)の足跡も混じっていると思います。

クマ(ツキノワグマ/月輪熊)は近くで冬眠しているはずです。
クマは冬眠中に出産するのだそうで、その生命のメカニズムたるや驚異です。

イノシシの足跡。

円(まど)やかな雪野原。

向こうに見えるは羽山(はやま)。
日照りの夏、いにしえびとはこの山に登って雨ごいをしたと伝わっています。
羽山は葉山、端山。
羽山は奥山・深山に対する里山集落を護る山の神、精霊、祖霊の住処です。
死んだ者の魂魄(こんぱく)は3年ほどは近くの羽山にとどまり、その後は奥山へ深山へとわたっていく(=羽山信仰)という話を聴いたことがあります。残してきた者たちを3年は山から見守っているというわけです。
羽山信仰は奥羽山系でも南部、特に南東北に集中しているとのこと、米沢は位置的にはその中心であるよう。

羽山の裾野にひろがる榛の木林。
ハンノキの樹形は独特です。

カバノキ科ハンノキ属のハンノキ。
下は、ハンノキの雄花(雄花序/ゆうかじょ)。

ハンノキの果実、松かさ。
前年の秋に熟したものです。
これは草木染めの染料のひとつだとか。

榛の木林を背景にして、セルフで。

筆者は普段、動いているとはいっても除雪か工房内での作業のこと、やはり身体はなまっているのです。
こうして歩くというのはほんとうにいい運動です。

時に、大雪がありまして、吹雪もありまして、
時に、酷寒の日もありまして。
そして時に、日ごろの労働へのねぎらいであるかのよう、たまの晴れ間も見えまして。

下は2月12日のこと、我が家の朝7時の屋外の寒暖計ではマイナス12℃を指していました。
前の日は月が煌々(こうこう)と照って冴え冴えの夜でしたし、放射冷却で地表の熱が奪われたようです。

気温がマイナス10℃を下回ったかどうかは、我が家ではてき面です。家屋の板壁に空気中に漂う水蒸気が凍って付着して白くなり、冷えにくいがため付着しない構造骨格の部分が浮かび上がるからです。
下は、12日朝の我が家の外壁。柱および間柱と筋交い(斜め材)がはっきりと現れています。
建築のセオリー通りのつくりがこれで分かります。
川崎洋に、とんびは空気の流れを教えてくれるという内容の詩があったような。冷気はとんびのように、普段は見えない家屋の構造を見させてくれるわけです。

そんな冷えた日に、相棒とともに雪渡りをしてきました。

ここであらためて “雪渡り” なのだけれど、筆者の幼い頃から慣れ親しんだ言い方にしたがえば、雪渡りは“堅雪渡り” です。
堅雪というのは雪の表面が凍って氷のように堅くなり、単に長靴のままでも歩ける状態をいいます。
そうなれば田んぼや野原は自由自在に歩き回れます。ということは、遠い小学校への道も直線で歩くことができる…、それは実に楽しくなつかしい思い出なのです。

堅雪ができるのは寒く冷えることだけが条件ではありません。
降り積もった雪が時間をかけて徐々に圧されることがひとつ、それから天候がよい日が続き、日中に暖かくなって雪の表面を解かし、時には雪が雨に変わって表面をぬらし、そうした状態ができた上に夜間から朝にかけて急激に気温が低下する…、これではじめて堅雪ができるのです。

今回はスノーシューをはいての雪歩きですが、積雪の圧縮にはまだ時間が足らず、表面の解けぐあいやぬれぐあいが不十分につき凍り方もまだ甘く、本来の堅雪にはまだなってはいませんでした。
堅雪ができ、純粋な雪渡りができるのはこのへんで年に2回、多くて3回ではないでしょうか。

宮澤賢治に童話「雪渡り」があります(賢治が生前にもらった唯一の原稿料はこの「雪渡り」に対してということです)。雪国に生まれ育った者でしか書けない、シチュエーションとしてもとてもリアルないい作品です。
作中で四郎とかん子が雪渡りをしながら狐の幻燈会に出かけるのですが、その兄たちが望んでも行けなかったのは、入場券に11歳までという制限が書いてあったためです。けれどもこれは、異界を信じて異界に遊ぶことができる年齢までという意味とともに、体重制限でもあったとも思われます。
生半可な凍り方では重いひとが歩くにはむずかしいのです。
雪渡りができるというのは、かなり厳しい条件が必要だということ、それからしたら雪渡りは何と貴重な体験であることか。

家屋南の倒木を真下から見上げてみました。すごい迫力です。

隣接のコナラ(小楢/ブナ科コナラ属)の広場に朝日による長いコバルトの影。

霧氷(むひょう)。
ここで、橋幸夫を思い出すのはそれ相当の年齢ですね(笑い)。

霧氷は空気中にただよう水蒸気が凍って樹木に付着してできます。
霧氷ができるということは、時間と場所によってはダイヤモンドダストが見えたのかもしれない。

近くの笊籬橋(ざるばし)から。

近くの笊籬沼(ざるぬま)全景。
沼はもう、完全に凍っています。

 

おっかなびっくりで(笑い)湖面に立つ相棒のヨーコさん。
凍れば沼の上を歩くことができるということを、何年しても信じることができないようで(笑い)。

少し歩いて、コーヒーブレイク。
保温瓶に湯を入れてきたので、カフェオーレを即席でつくって。
雪渡りのカフェオーレは、格別においしいです。

笊籬沼は笊籬溪(ざるだに)と隣り合わせ、その際(きわ)を伝いました。


普段ならこうした晴れた日の2月なら、美しい羽根を持つカケス(懸巣)がギャーギャーと鳴いて谷を飛び交っているものですが、今年はどうしたわけか見えませんでした。

下は、ちょうど10年前に撮影したカケス。


カケスの別名はカシドリ、カシとはどんぐりのことで、カケスはことのほかどんぐりが大好物なのです。
谷の南斜面は雪解けが早く、そこに雪の下から現れる出るどんぐりを探してカケスはいち早く活動を開始するはずなのですが…。

相棒が、なんだろうと気に留めた木。枝先が刺に変化したもののようです。
枝先が刺に変化するのはウメ(梅)などのバラ科の若い樹木に多く見られることだし、樹皮は一見サクラのよう、よって筆者の見立てでは真っ白い花の咲くズミ(酸実/バラ科リンゴ属。リンゴの野生種、コリンゴ)ではないかと思うのだけれど、どうだろう。

我が家すぐわきの笊籬溪。
川は平地より10メートルほど落ちて、深く切れ込んでいます。

そうして我が家に戻りました。
またして、いい運動をしました。
これで充電も十分、これからまた蓄えたエネルギーを使って存分に働けそうです。


今度は地域の先輩たちに連れられての高山の雪歩きを希望しているのですが、(長い行程、過酷な環境ゆえ天候次第)よい連絡が来るでしょうか。

仕事の合間のベーコンもほどよい色にできてきました。
これから折りにふれ食卓を彩ることでしょう。
冬は耐えるだけが能でなし、楽しんでいかなきゃ。

新聞を眺めればどうしても飛び込んでくるトルコとシリアの大地震、それからいつ終わるとも知れないウクライナへのロシアの軍事侵攻…、嗚呼、何という悲劇が続くのだろう。
そして片や日本は軍事費を5年で43兆円を積み増しし、それを「国民の責任で」賄うのだということです。
巡航ミサイル・トマホークを爆買いし(1発3億円、500発をアメリカから購入とのこと。戦力の不保持を謳う平和憲法を持つ国がどうしてミサイルを持つことができるんだろう? だからだろう、邪魔な憲法条文を改変したくて仕方ないのは)、南西諸島は今や台湾有事に備えて本土防衛の最前線化してきているらし…。
アジア人民2,000万人を天皇の名のもとに死に追いやったその反省が日本国憲法をつくったことを決して忘れてはならない!と思います。

重たい時間が世界のひとびとの日々を覆いはじめました。
でも、どんなに小さくとも細くとも希望を集めて、前に進まなければと思います。
希望を失ったときに銃口が火を噴くものです。

それじゃあ、本日はこのへんで。
バイバイ!

 

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