製作の時間

リフレッシュ、2題

リス小屋の下屋(げや)を作り終えて(完成は6月23日)そう休む間もなく取りかかったのが、現在物置として使っている(国鉄貨車コンテナによる)コンテナ小屋の塗装と車庫の壁板の補修(張り重ね)でした。
今回のsignalはこのふたつの建物の再生(リフレッシュ)について筆を進めたいと思います。
題して、「リフレッシュ、2題」。

リフレッシュ、その1。コンテナ小屋の塗装。

塗装より先、そもそもコンテナ小屋(ツバメ小屋という名で呼びならわしている)はどのようにして作られたのか、少しばかりの写真で当時をふりかえってみます。
時は、(坊主頭の息子が写っているので)1999年の夏ではないかと思います。

以下の(7枚の)画像が少し褪色しているのは、紙焼きした写真をスキャンして取り込んだがゆえです。

国鉄の貨車用コンテナは、1995年頃に薪小屋の代用として、当時の国鉄清算事業団より購入したものです。
93年秋に新築した家ではすでにリビングに薪ストーブが入り、工事で出た残材などを寄せ集めて燃料とし、何とかひと冬はしのぐことができました。
そして春からは翌冬に向けて薪を蓄えることが至上命題(本来は命令)、それで筆者は本腰を入れて薪づくりをはじめたのです。
それでできた薪をどんどんと軒下に積んだり、野積みにしてシートをかけたりして保管しましたが、そのうち限界を思い知ることになります。圧倒的に収容能力が足らないのです。そこで、貨車用コンテナを思いついたというわけです。

下は、軒端に積んだ薪。
テントは、息子の自由研究のためのセッティングです(森から聴こえてくる自然の音や声を24時間、テープレコーダーで拾っていたような)。

仙台からの輸送代も含めた代金は、当時の金額で13万円ほどだったと記憶しています。
もったいないことですが、当初はひとつあれば十分と思っていたものの、やがて容量としてはひとつでは足らないと思われ、さらに追加でもうひとつを買い足すことにしました。
一度にふたつなら輸送費でずいぶんとちがったことでしょうが。

下は、国鉄コンテナを薪小屋にしていた頃。
コンテナは扉で向かい合わせていて、その隙間の上部に少しばかりの傾斜をつけた屋根を掛けたところ。
子どもたちは手伝っていたのか、遊びに上がってきたのか(笑い)。

この国鉄コンテナを薪用の小屋として使ったはいいものの、時間の経過にしたがって中の薪は乾くどころか何と土のようにボロボロになっていくのにはショックを覚えました。
夏場、扉を閉め切ればその空間の温度は50度を優に超え、木が含んでいた水分によって湿度は100パーセント近くまで上がって腐朽が進んだらしいのです。これは完全に失敗でした。
そこで、通気をよくしようとコンテナの鉄板の壁にドリルでたくさんの穴を開けてはみたものの、それは無駄な抵抗というものでした。そこで、薪づくりの一番の肝は風(通気)だと思い知りました。
そうして、国鉄コンテナの薪小屋としての利用はあきらめたのです。

ならばと一念発起、コンテナをふたつ並列に置き、そこに屋根をかけて物置小屋にしようとしました。そのための基礎をコンクリートブロックとコンクリート板で置いたのが下の写真です。
その位置取りについてはずいぶんと苦労して測量し、計算しました。

懇意にしている工務店の社長のSさんにコンテナの移動と設置のためのクレーンの手配をお願いしました。
自重1.1トンものコンテナでもクレーンでなら軽々と吊られ、中継地点を経た後に、何と電線の上を越えて移動し設置されていくのでした。この光景には驚きました。
コンテナが基礎の設置位置にぴたっと決まって載ったことに、「素人ではなかなかできることではない」とSさんからほめられ、気をよくした覚えがあります。

大型クレーンの調達、クレーンのオペレーターに人足(にんそく)が社長をふくめてふたり。作業は1時間ほどで済んだにせよ、これだけ大掛かりな仕事をしてもらって、ありがたいことに請求はごくわずかのアルバイト程度の安価なものでした。大いに助かりました。
それ以降、困りごとがあったときにはSさんに折りにふれ助けてもらっています。

コンテナ屋上の木材の組みは和小屋の小屋梁に相当しています。

材料は、当時、(町内にあった)産業廃棄物処理場にお勤めのKさんとSさんの提供によるものです。
時に、「本間君、いい材料が入った。焼くのはもったいないから取りにきたらどうだ」とよく教えてくれていたのです。
必要にかられて小屋のいくつかを建てたいと願っていた筆者にとって、この情報はどんなにありがたいものだったか。

小屋梁に垂直材の束(つか)を刺して立て、束に水平材の母屋(もや)を載せ、母屋に斜め材の垂木(たるき)を掛け……。
これは、筆者の本格的な小屋建築の第1号ともいうべき記念碑的な作となりました。

当時小学校5年生だった娘には、垂木の上に野地板を貼ったときに出たのこぎり屑を掃いてもらっていたような。
ヘルメットをかぶった5年生の女の子の図としては、今では貴重かも(笑い)。

そうして、コンテナ小屋は完成したのです。
この小屋は国鉄のシンボルロゴにちなんで、ツバメ小屋と名づけました。
当時からの看板には“2001年9月21日”という表記が見えますが、これが完成を記念した記録です。

最終的にはこの建物の完成までには2年ほどがかかったことになりますが、この年月は、当時筆者は勤めを持っていたわけで作業のほとんどは休日のみだったということからの長さです。
よく意識を持続したものだと我ながら感心します。

あれから21年という歳月が流れました。
(黄緑と水色のツートーンであったもともとの色を蒸気機関車時代の黒に置き換え)きれいにペイントした貨車コンテナは、現在では褪色激しくご覧の通りです。
赤の色が見えているのは、当初、どうせならと錆が噴いてきている箇所には錆止めを下地として塗っていて、それが21年して現れ出てきたのでした。

“国鉄 C21-9164”という文字は、このコンテナにもともとあった表記です。
また、この素朴なツバメマーク(スワローマーク)は、ものの情報によれば、1948-49年に日立製作所製造の国鉄C62形蒸気機関車2号車の排煙板にのみ現れるもっとも古いデザインのようです。
筆者はこのマークにとことん思い入れを深めて感嘆し(なんと美しいデザインだろう!)、貨車コンテナに意図して入れることにしたのです。
この国鉄C62形蒸気機関車2号は東海道本線や山陽本線で働いたのちやがて57年に函館本線に配置転換され、“C62重連ニセコ”として活躍、71年に引退したということです。

そうしてまず、コンテナのできるかぎりの全方位を黒の油性アクリルペイントで、ローラーとハケを使って塗り上げました。

油性塗料の扱いは水性のそれとちがってたいへん。
効率の良いローラーでの塗装は、塗料が飛び散って身体に降りかかるし、頭にも顔にも容赦なくつくし、とても人前に出られるものではありませんでした。湯でごしごしと洗って、汚れを落とすのに苦労しました。
でもそもそも、塗装というものはそういうもの。ゆえにこそ塗装は、専門職化しているわけで。

塗料は6キロ缶で8,500円ほどだったでしょうか。とにかく、塗料というものは高価です。

塗装作業に入ると、写真の撮影どころではなくなります。途中の画像はひとつもありません。

すっかり乾いてから、表面のかすかな凹凸を頼りに、ペイントすべき文字とロゴマークを三菱の“ポスカ”で縁取りました。こういうときにポスカは威力を発揮します。

縁取りした文字とロゴマークを(手持ちの、水性)黄色ペイントで塗りました。
黒に対して最も視認性が高いのは白ではなく黄色、この黄色の文字とロゴがあるのとないのとでは印象は全く異なります。
ここが筆者のこだわりでした。

この作業をしている最中、近所のYさんが通りかかり、「普通は、塗っておしまいだわな(わざわざ文字を書き入れるなんてしない)」と言って笑っていきました。
そう、筆者は普通ではないのかもしれない(笑い)。
でも筆者にしたら、建造物・造作物を心から愛するというのはこういうデティールを疎かにしないことなのです。

最後、軒天の端の斜め材である破風板(はふいた)と垂木の留めにあたる鼻隠しの(元々は浸透性塗料の赤の)褪色激しく、ここは下屋の塗装でまだ残っていた浸透性のキシラデコール(黒)で塗って作業を終了しました。

そうして、コンテナ小屋(ツバメ小屋)の塗装は完了しました。
これであと少なくとも20年は大丈夫、まさに再生、リフレッシュ!

リフレッシュ、その2。車庫の大胆な補修、壁板の張り重ねなど。

2001年秋にコンテナ小屋(ツバメ小屋)が完成したあとに、大きな課題として取りかかったのは車庫の建築でした。
まず、山土を買って盛土をし、それをクルマで何度も何度もハンドルを切り返し行ったり来たりして踏み固めました。
その上で資料などを参考に(はじめての試み)建物を基礎から作ろうとしました。
広さは3間×3間(18畳=約29.75207㎡)でそれまでの最大の建築物、いわば当時の筆者の新たな大きな挑戦でした。

見よう見まねで“水盛りやりかた=丁張り”(工事に着手する前の、 建物の正確な位置を出す作業のこと)をめぐらし、基礎の高さや建物の位置の割り出しをしました。
素朴な道具“タコ=胴突き”を作って相棒と共に持ち上げては落とし、基礎部分の地固めのためのどん突きをしました。

どうでも、ふたりとも若いね(笑い)。

見よう見まねで、基礎の枠組みを作りました。

当時まだ十分な工具・道具を持っていない筆者の身では、ホゾ作りもドリルと手のみでの手作業でした。
薪小屋にタープテントを張って灯りを点し、職場から帰ってからも遅くまで大工仕事をしていたものでした。

上棟には主屋の建築を担ってくれた近隣・川西町の大工Fさんの助力を得て。  

屋根をトタンで葺いてもらい、外壁が張られればもうこっちのもの。夜でも雨の日もこの下で作業ができます。
屋根と壁のありがたさ、その偉大さを身をもって知ったものです。

キシラデコールのタンネングリーンという色で板壁の全体を塗っているところ。
先ほども触れた(文化財などにも使用されているという)キシラデコール、これも高価なんだよね。

完成です。
この車庫は、金物材料から生コンの発注、シャッター代、屋根葺き代等人的な費用までかかったすべてで35万円ほどだったと記憶しています。
材料のほとんどはもらい物の廃材、窓ガラスなどは学校を解体する直前にいただいたものでした。

この写真は、ホームセンターコメリが主催するDIYコンテストにたわむれに応募したときのものです。ほんの冷やかしのつもりでした。
結果は入賞とまでは行かぬまでも反響はあったよう。
この情報は現在でもネット上に残っているような。

車庫もあれから19年、壁板の一部は雪に圧しつけられ風雨にさらされボロボロとなりました。
それでここ数年、何とか補修しなくちゃと思っていたのです。

昨秋にコンテナ小屋の屋根は(自分で張った)波トタンをはがして平トタンで葺いてもらったのですが、そのはがした波トタンがたくさんある、そうだこれを壁材として板壁を覆ってしまおうと思い立ったのです。
しかも、コンテナ小屋(ツバメ小屋)を塗った油性塗料は十分に残っている。

はがした波トタンを寸法に合わせて切り、

一枚一枚をていねいに洗い(約18年間のしつこい汚れを落とし)、

塗装のセッティングを済ませ、

カンカン照りの日に、ローラーを使って、一気に塗ったのです。

この作業は過酷なもので、長い時間同じ姿勢を保たねばならなかったので、またもや腰にきてしまいました。ギックリ腰の再発のような鈍痛が走りました。
でも、時間との勝負というのは往々にしてこういうもので、これはいたし方ない事態ではあります。
腰の痛みのリハビリとしてはとにかく歩くのが一番、あたりのウォーキングをはじめ頻繁に山を歩いていたのは実はこのためでもありました。

準備を整え、いよいよ張りつけをします。
張りつけには金物専用のビスを用意し、インパクトドライバで固定していきました。

張れば、外壁は様変わり。

波トタンの黒が美しく映えて。

まずは西面と東面の外壁ができました。

次に気になったのが、入母屋(いりもや)の軒天の処理と正面のタテ板の隙間でした。
軒天の処理というのは、建築当時には自分にはまだ身についていなかった技術で、小屋束に載る母屋部分上の壁面に三角形に空間ができていてそれを塞ぎたいと思ったのです。

下は、母屋の上部分の空間を塞ぎ、タテ板とタテ板の隙間を細い板で張りつけたもの。

さらに気になったのが、シャッターの錆でした。
シャッターと言えど、20年弱の月日が流れれば素材そのものが傷んでくるのは致し方ないこと。
そこで今度はシャッターの塗装をすることにしました。ここは、油性のアクリル塗料のスプレーで。

表面に現れた錆び。

風の吹かぬ時間帯をねらってシャッター全体にスプレー塗装をしました。
スプレー1本で0.7畳分の塗装が可能とのこと、シャッターの面積は約9畳弱とみてとりあえず10本を購入しましたが、結果は7本弱で済みました。これは、下地の黒塗装がしっかりしていたためと思われます。
スプレーの頭を人差し指で長い時間押し続けたものだから、もはや右の手は腱鞘炎になりそうでした。これもなかなかハードな作業でした。

そうしてシャッターは設置したばかりの頃のようによみがえりました。

鍵穴部分、それに会社のロゴもしっかりマスキングして保護しました。

シャッターの塗装が終了し、今度は西日が当たって褪色いちじるしい窓枠をスプレー塗装することにしました。
ガラス窓を洗って乾かし、マスキングをていねいに施しました。
マスキングのていねいさこそは塗装の出来の8割方を左右するのではと思われるほど重要です。

塗装の後にはめ直したガラス窓。
主屋がガラス窓に映えていました。

取り外していた看板も復元して。 

そうして7月13日夕刻、車庫の再生のフィナーレを迎えました。大胆なリフレッシュの終了です。感慨深かったです。
車庫はもう、よみがえり、見違えりの極みと言っていいかもしれない(笑い)。

大きな仕事が終了しました。満足、満足。
ということで、ビールをシュワッ!です(笑い)。

近くでは相棒のヨーコさんが丹精して育てたピーマンを手に誇らしげにしていました。
この10日に聴いたヒグラシ(日暮)の初鳴きはもう、大合唱となっておりました。

本日はこのへんで。
それじゃあ、また。
バイバイ!

 

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