森の生活

そして、七郎右衛門桜

ついこのあいだ、東京の桜はもう満開だとか散ったとかのニュースをラジオは伝えていたけれども、こちらの桜はまだまだ。
でも本日4月2日、山形市でも開花宣言が出されたとのこと。山形市と米沢市では普通約3日~5日ほどは違い、米沢の町場とルーザの森でも約5日ほどは違って遅いのですが、桜前線は当方にも予想よりもかなり早く近づいているようです。このところ、この時期にしては何とも暖かすぎるほどの陽気です。

桜で思い出すのは、保育園の遠足。
筆者は就学前の2年間を保育園(双葉保育園)に通ったのだけれど、5月に入ってすぐの頃に、決まってバスに乗って隣町(旧・赤湯町。筆者は旧・宮内町で、現在はともに南陽市)の烏帽子山公園に花見に行ったものでした。烏帽子山は全山が桜の名所です。
この行事は保護者も一緒で、しかもめったに乗ったことのないバスでの遠出で、桜の下で弁当を広げて食べて帰るというそれだけのことでしたがとてもうれしく楽しかった記憶があります。

下はその時の記念写真。
1961年の春のこと。満開の桜の下の、実に平和な風景です。
最上段の女性が担任のヒロイノリコ先生(広井だったか広居だったか、典子だったか則子だったか)、最前列左2番目の、カオのデカイのがワタクシです(笑い)。
その左隣りのかわいらしい女の子はアキコといい、還暦同窓会で久しぶりに会って以来交流がつづいています。アキコさんは全然変わっていない!?(笑い)。
でもひとりひとりは当時の面影を今に色濃く残しており、面影がないのはワタクシぐらいのものです(笑い)。
もうこのメンバーとのつきあいは極々限られてきているけれども、写真を見ては次々に名前がついて出るのは不思議なものです。

 

それから思い出すのは小学4年か5年生だったと思うけど、年齢様々な友だちが入り混じって遊んでいるときに、米沢の(上杉まつりが開かれている)上杉神社(松が岬公園)の桜を見に行こうということになって(たぶんひとつ上のユウジ君が提案したことだったと思う)、自転車をこいではるばる米沢まで向かったことがありました。
住んでいる集落(宮内町の郊外の山手)から米沢の上杉神社というのはおおざっぱに見ても20キロ超の距離、それを小学生だけの5、6人で自転車を走らせて行くのだけれども、親にさえ知らせぬこと、今から思えば無謀も無謀というもの(お金は100円ぐらいさえ持っていなかったと思う)。
世の中を何もわかっていない少年が考えることっていうのは得てしてこんなものかもしれない。

米沢という町は自分らのところとちがって大きいこと、上杉神社周辺には屋台がたくさん出ていたこと、今は跡形もない遊園地がそこにあったこと、桜は見事だったことは今も覚えています(そう、幼いころは桜といえば5月のはじめと決まっていたのです)。
それにしても、往復で45キロ程の自転車こぎのつらさが印象にないのはどうしてだろう。

ここには大人の目(干渉や援助)というものがまったくないのだけれど、こういう子ども文化(と言えると思う)はその後急速に衰退したのでしたね。
ニホンという国が歪んできた、その分岐点がこの子ども文化の喪失だったと思うなあ。
筆者は、よい子ども時代を過ごしたものだと思っています。

しかし、子どもの頃の思い出からしてなぜにこうも桜が寄り添っているのか。

茨木のり子の詩「さくら」にあるよう、「ことしも生きて/さくらを見ています/ひとは生涯に/何回ぐらいさくらをみるのかしら」……。
ひとは、死までの齢(よわい)を桜を見ることのできる回数に当てはめ置き換えるのはどうしてだろう。
「同期の桜」という軍歌に忌まわしいほどの嫌悪感を覚えつつも、“咲く”ことと“散ること”、すなわちいのちのはかなさについては相通じて感じることであり、それを桜は象徴しているんだろう。
残されている時間を意識するようになると、桜のはかなさが身に染み、それがゆえに桜は美しさを増してゆく…。

そして今年も、“七郎右衛門桜”が咲きはじめました。
七郎右衛門桜は野生のオオヤマザクラ(大山桜/バラ科サクラ属)、同じ町内の嘉藤家の以前の住居跡地にある老木です。その枝をもらってきて、大甕に活けているのです。

最初に白状しておくけれど、この“七郎右衛門桜”というのは筆者の勝手な命名です、しかも2019年からの(笑い)。
単に、桜に嘉藤家当主の名をくっつけただけです。自分で言うのも何だけど、実にかっこいいと思うのです。酒の銘柄よろしく奥ゆかしさ古めかしさが(笑い)。

昨年もこの桜をテーマに記事にしたので、その時は礼儀として(息子さんを介して)signal記事の案内をしたのでしたが、そののちに実際に七郎右衛門さんが我が家にボイッと(不意に)現れてドキッとしたものでした(笑い)。
「勝手に名前を使いやがって!」などと怒られるのかと半ば冷や冷やビクビクものだったのですが(笑い)、当の本人はいたってニコニコ(笑い)。桜についてのあれこれを語ってくれたりもしたのです。

そして今年も枝をもらってきました。それは雪が堅雪となってガンガンに凍りついていた3月4日のことでした。
下は、それから3週間ばかりたっての、蕾が膨らんできた様子。

いやあ、この韓紅(からくれない)に近い蕾の桃色が何とも言えず春なのです。感激です。

下は現在の、嘉藤家の元敷地内のオオヤマザクラの老木。
膨大な時の流れを蔵(しま)い、雨風に打たれ、吹雪にじっと我慢をし試練に耐えてきた姿です。
太い枝の何本かが折れてしまっています。

皺を寄せ屈曲し、歪んで、老境を示す苔むす枝。
蕾はまだまだ堅いままです。

この老木の下には今、美しい流れのかたわらにキクバオウレン(またはオウレン。菊葉黄連/キンポウゲ科オウレン属)が咲き競っています。
キクバオウレンはまだらな雪の間からも顔を出す早春の花です。
健胃整腸の生薬である“黄連”はこのキクバオウレンの黄褐色の根を採取して作ります。
根は10年しても5センチほどしか伸びないのだとか。

で、これから美しく咲こうとする七郎右衛門桜のはっきりとした出自と来歴を聞いておきたいなと思って、先日、我が家から約2.5キロ先の現在の嘉藤家を訪ねました。
たまたまおひとりだった七郎右衛門さんには(所望して)お茶をいただき、(栽培して収穫したという)ハックルベリーのジャムを載せたヨーグルトまで出していただき(とてもうまかった。恐縮ものでした)、お話を伺いました。

下は、1991年4月末の、嘉藤家の元の敷地全体の貴重な風景。
茶の間に飾ってあった掲額の写真を撮影させてもらったものです。
右端に、それはそれは見事な満開のオオヤマザクラが写っています。

お聞きしたところをかいつまんで記せば…、

中央のトタン葺きに替えた元の茅葺屋根の家屋は200年先の歴史あるもの。
向かって家の左についているのは出小屋(曲屋部分)で、かつては牛とか馬も飼っていた。さらにその反対側にも出小屋がついていたので、上空から見たらL字ならぬT字の家屋であったそうです。

このオオヤマザクラの元は米沢市内の南原は李山(すももやま)地区の大洞(おおほら)部落(集落)にあったもの。集落の奥の山岸(崖になっているところ)に山の神が祀ってあり、そこの桜ということです。
大洞部落の近くに銭子(ぜにご)屋敷というところがあり、そこが七郎右衛門さんの祖母君の出身地で、その祖母君が(生まれ育った場所をなつかしむためだったか)ムカサリ(婚礼)の記念にその苗を持ってきて移植したということです。

祖母君が嫁いできたのは時代が大正に入った頃で、屋敷のオオヤマザクラはかれこれ100年はゆうに超えていると言います。
(全国に伝わったソメイヨシノのような改良種ではなく)オオヤマザクラのような自生の桜は種(たね)を作って増えてゆく。いわゆる実生(みしょう)。
他に桜を増やす方法としては…、桜は根っこから芽が出てそこから苗として育つものだが、そういう苗(彼の言葉で“ゴヨウ”)に土を盛ってやるとやがて苗が盛った土に新しい根を出してくる、それを見計らって根から切って移植する、これは確実な方法だということでした。祖母君もそうしたのでは、と。
そうしてそのオオヤマザクラのひと枝が現在の場所に移植され、100年超というもの嘉藤家を見守り続けてきたとわけです。

でも何で、(素晴らしいオオヤマザクラのある場所を離れて)住宅の移動を?
それには、「ポツンと一軒家」のようで(笑い)寂しかったからだごで、孫も生まれたし。そこはホンマ君とはちがうごで(笑い)、とのことでした(笑い)。
そこはホンマクンとは違うわけですね(笑い)。確かに、違う。よ~く、分かりました、了解です(笑い)。

時は、3月27日。我が家。

開花がグングン進む七郎右衛門桜。

この薄い韓紅はどんなもんだろう。
さいわいを色に置き換えたら、きっとこんな色になるのではないか。

桜がリビングを照らしている。

時は、29日。笊籬滝(ざるだき)。

そして、開花が加速度的に進んできた七郎右衛門桜。

下は、明かりを消してヘッドライトのあかりだけで。
坂本冬美の「夜桜お七」の雰囲気で(笑い)。

七郎右衛門桜は、ヒュッテの前室にも。
背景は、全国の手織機の杼(ひ)のコレクション。

時は、31日。ルーザの森クラフトの工房前。

そして、満開を迎えた七郎右衛門桜。
いやあ、何とも豪華です。


そして、ゴツゴツとした、苔むした枝の老境の美しさ。
何という潤沢の春だろう。

 

いっぱい咲いたところから
花は散りはじめる
小さな神がどこかでその日を記しているのだろう
きょうはある日からはるかに遠い日だ
散りしきる花吹雪のなかを
なぜかひとひらが遠いところへ舞い落ちる
   〈一九四五・四・一 節子小学一年生〉

御霊村小学校/嵯峨信之  詩集『魂の中の死』詩学社1966より

この詩を知ったのはもう30年も昔のこと。
この静謐(せいひつ)な語彙の世界はたえず異空間への旅を誘いつづけてきたものです。そしてそれは、今も変わることはありません。

「いっぱい咲いたところから/花は散りはじめる」…、当たり前のことのようにも、ゆえにこその詩的な箴言(しんげん)のようにも。
「小さな神がどこかでその日を記している」…、それは、ひとの抗うことのできない定められた世界。
「きょうはある日からはるかに遠い日」…、ある日とはどういう日なのだ。末尾の、“1945年4月1日”を指すものかどうか。そこからはるかに遠いというのはどういうことだ。
「散りしきる花吹雪のなかを/なぜかひとひらが遠いところへ舞い落ちる」…、なぜ、“なぜか”がここに入るのか。ひとひらに何を含意している?
「〈一九四五・四・一…〉」…、この日付の意味するところとは? なぜに“昭和20年”としないで西暦を使ったのか。敗戦がこの年の8月15日、この4月1日とは日本にとっては敗戦の色濃く、沖縄本島に米軍が上陸した日であるけれども、作者の嵯峨信之にとってどんな日だったのか。
「〈… 節子小学一年生〉」…、普通に考えて、“節子”は我が愛し子だろう。それはもうすでにこの世にいない子ども、あるいは架空の子ども? 入学にしては祝意というよりも桜を背景とした深遠な言葉の世界を紡いでいるのはどうしてか。
そして、
「御霊村小学校」…、このしょっぱなの題の、“御霊村(ごりょうむら)小学校”とは実在のものなのか。そこに“節子”が入学するというのか。

疑問は尽きないのです。
けれども作者の嵯峨信之は桜を見、桜に思いをはせながら言葉を紡いだことだけは確かです。
桜は言葉を生産せずにはおかない。


七郎右衛門桜は少しずつ花びらを散らせはじめました。

これから御地の老木の桜が咲いたら、本家の李山の、山の神の桜を見に行きたいと思っています。それは、とても楽しみ。
一旦この項は閉じて、後日、山の神の桜の画像をつけくわえようと思っています。

それじゃあ、バイバイ!

 

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