ドアリラの朝 ドアリラの夕べ
森の生活製作の時間

立春にしありて

(2021年)1月29日から降り出した雪は30日にはまたしても猛吹雪、こうなるとただ屋内にこもって過ごすしかありません。まあ筆者は工房に入っての作業ということになりますが。

 

と、2月1日の朝は、マイナスの13℃。
下の温度計は朝6時のヒュッテの外のもの。
夕方のラジオのニュースでは米沢のこの日の最低気温はマイナス14.5℃と言っていたので、この温度計表示は、ここももっと早い時間帯にはそうなっていたのか、あるいはヒュッテの外壁では内部の熱が伝わってのことなのか、そもそも市中(アメダスの設置場所)の方が低いのか。
ちなみにですが、山形県の南部の米沢は全県下でも厳しい冷え込みになりがちですが、それでも例年であればせいぜいマイナス10℃止まりなのです。
気温から言っても、この冬はやはりことのほか厳しい。

屋内のガラス窓はどこも結露した水分が凍って、氷の花を咲かせていたのでした。
まあ、模様の張り出し方はアブストラクトアートのようで、きれいではありますがね。

この気温の低さは放射冷却によるもの。
そのうちに太陽が昇って、あたりは久しぶりに美しく輝いたのです。
冬場にあってこういう晴れ間というのは、日本海側気候ではめずらしいこと。太陽を拝める、それだけでもううれしくもなるのです。

下は、リビングからの景色。

クリスマス前やその後の寒波で、“ピエタ”や“シロクマくん”になったりもしたトウヒ(唐檜)。

我が家を南から見たところ。


厳しかった1月がようやく過ぎて月改まり(とは言っても、厳しさはまだ当分続きそうですが) 、筆者が“ついたち”に行うよう決めているのが包丁研ぎです。かれこれ10か月ほどにもなりましょうか。
今は木工を生業とする者にしてみれば、刃物を研ぐというのは必須の行為。でもしばらくは、研ぎはノミ(鑿)だけになっていて、しかも回転式の研ぎ機に頼っていたものです。
なんで包丁に目が向いたかというと、筆者が台所に入る機会が格段に増えたから。
食材にせよ、切れないのは困りものなのです。
刃物はなんでもそうだけど、切れないとかえってケガやアクシデントにつながってしまいます。

勤め人生活におさらばして、では昼食はどうするかを考えたとき、インスタントや外食ばかりでは味気ないもの。ここはモットーとして「何ごとも自立を」と秘かな誓いを立てて(笑い)、炊飯器によるご飯炊きから(笑い)、蕎麦の茹で方から(笑い)相棒のヨーコさまにご指導を賜ったのです。
それからというもの、昼はほぼ自炊、嘱託となってウイークデーで週2度は在宅するようになった相棒にも昼食を出すし、今では余裕のある時は夕食も作るようになりました。
最近、鍋焼きうどんを覚えました(笑い)。

勤め人であったとき、同僚や出向先のひとから、「あなたは料理をこまめにするタイプだよね」とか言われたことはあったけどどうしてどうして、実際はぜんぜん。“男子、厨房に入らず”のごとくの日々でした。

理由はこうです。
たとえば筆者が好きだったアメリカのテレビドラマ「大草原の小さな家」がそうであったけど、父親は山仕事、野仕事、畑仕事の外仕事、母親は(畑仕事もするけど)家事が中心だったと思う。とにかく野外を相手にする力仕事は男が中心であるべき、であれば女は家を守る…、性の特質・特徴を考えれば、それは何ら不自然ではないわけです。
筆者も、勤め人時代でも(帰宅ののちでも)薪割りをはじめ外仕事・野仕事としてよく働きました。そして、役割の分担はできていたと思います。

今では男が厨房に入るのは当たり前のようで(特に町場や都市部では男性は必須の外仕事を持っているわけではないだろうからこれは当然だと思うなあ)、立場や条件が同じで一方に負担が偏るというのはいかにも不自然なわけで。
そして筆者は今は工房での時間以外も野外を相手の仕事はするけれども、時間は十分にあるわけで。
時間がある方が家事を担う、まあ、そんなわけでの“改心”です(笑い)。
ここでの筆者の場合の家事とは(たまの食事の用意以外では)、朝と昼の食器洗い、洗濯と物干し・乾燥・取り込み、それからゴミ出し、買い物ぐらいのものです。

で、料理というものは率直にいっておもしろい(笑い)。
素材を加工して品を作るというのは、木工に通じて同じようなもので、なんでこんなおもしろいことをしてこなかったんだろうとも思うわけで(笑い)。

料理に興味を覚えてから思うのは、長い間食事を作ってもらっていたありがたみが分かってきたこと。それまでも決して感謝していないわけではなかったのだけれど、自分で実際にやってみるとその苦労にも思いが及ぶわけです。
そして今は、この味はどのようにして出すのか、その調味料の分量はどの程度か、どんな過程があるのか、いつどのタイミングでこの食材を投入するかなど疑問と想像が広がります。そうした課題をひとつひとつ解決していくこともおもしろい。
料理って、奥が深い。

ということで包丁研ぎなのです。
下は、台所で包丁を研ぐためには専用の研ぎ台が必要と思って、シンクの寸法を採って作ったもの。
この上に砥石を載せれば、砥石はちょうど蛇口の下にきて、常に水に浸るようになります。

砥石は、その粒度によって“荒砥”、“中砥”、“仕上げ砥”に分けられます。
筆者の場合、いつもは中砥のみが多いけれども、時間に余裕があるときには仕上げ砥も使います。
荒砥は刃の大きな狂いの調整に使うけれども、一方、よく使って平面が少し凹んでゆがみが出ることもある中砥の“台直し”にも使います。互いを摺り合わせると、目の細かい方が削れていって平滑になるのです。荒砥は、こっちの方が大切な役目を担うかもしれない。
下は、仕上げ砥を使っての仕上げ。

この、研ぐという行為はいいものです。
刃物と砥石の摩擦によってサクサクサクサクと音立て同じリズムが刻まれていき、その単純な感触のくりかえしに心は不思議と落ち着いていきます。
そして、気持ちがスッキリします、スパッとします。
そうして、普段使いの8本の包丁が研ぎ上がりました。

それに加え野外用の、フランスはオピネル社のナイフ3丁も。いずれも折り畳み式です。
ナイフは上から、12番、10番、8番。数字は刃渡りの長さです。
山登りに持っていくのは8番のみ、あとは工房でのキノコの処理などの日常使いです。
オピネルのナイフはデザインがシャープでシンプル、しかも切れ味抜群なのでとても気に入っています。
こういう道具を持っていると、ただそれだけで満ち足りた思いにもなるもの。
値段も1,500円から3,000円程度のもので、決して高価というわけではありません。

 

一番下の包丁は真ん中のものと同じものだったのですが、実は長年の使用で柄が腐って抜け落ちてしまい、焚きつけの薪にするものだった端材を成形して付け替えたもの。
刃物は、研げば切れ味鋭くなるし、ダメになった柄は取り替えればいいし。これを心がければ道具は持つものです。


この家はもう築28年になろうとしていて、当時からのシステムキッチンの扉や引き出しの取っ手が割れたり壊れたりしていたことが気になっていたのです。
で、この取っ手を取りつけている後ろからの左右のスクリューの幅を測ってみると90ミリ、この幅の取っ手をホームセンターなどで探したのだけれど結局はありませんでした。どうも、幅90ミリの取っ手というのは規格品ではないらしく。

なればと、作ったのが下のもの。
形状は全く変わってしまったけれども、うん、けっこう使いやすくできました。
他にまだ同じプラスチックのものが6ケほどついているけれども、もういつ壊れても大丈夫。予備のものも作りましたので。これも、焚きつけになるはずだった端材で。

筆者はずっと森の中にこもっているわけではなく、食材を中心として買い物のリストがたまってくると3日に一度ほどは町に出ます。気分転換ということもあります。
そしてこの時期、その日の朝に、身近なマーケット(キムラ駅前店)に電話を入れて聞くことがあります。「ブリ(鰤)のカマは出ますかね」と。
そうするとこの時期ならだいたい、「出ますよ」という返事です。まず確実です。そして用事の最後にそこに回って“カマ”をゲットしてくるというわけです。
カマ(形からして“鎌”から来ているんだろうね)はえらの下の、胸びれのついたあたり。
旬のこの時期のブリのカマは脂がのってとても美味なのです。
大ぶりの、左右ふたつで500円なり。

冬に、ぶり大根はたまらんですね。ぶり大根のブリは身でなく、何といってもカマに限ります。

で、レシピ通り、酒や醤油など分量通りで煮ていてどうも煮え方がイマイチなので、水を加えて全体の具材がすっぽりと覆われるようにするのですが、それでは煮汁が薄まってしまう。こんなときどうすればいいのか相棒に聞くと、「落し蓋があればいい」という。
でもその適当な落し蓋がないので、鍋の径に合わせて作ったのが下のもの。20センチと23センチの2種。
この材料もくぎ抜きの跡があるいずれもつまらない材です。

そうしてコトコトと。


最近のこと、このsignalの「せめてこころに春を」を見てくれた旧知が、「風呂吹き大根を盛りつけている皿が気になる。それは、古伊万里のなます皿か」と問うてきたものです。
筆者は古い焼き物が好きではあるけれどもそれが何を指すかは明るくはなく、“古伊万里”も“なます皿”もよく分からない。

それで、少しだけ調べてみると……、“伊万里焼き”とは、佐賀県有田を中心とする磁器の総称で、“古伊万里”というのは江戸時代の元禄年間(1688~1704)から江戸末期までに作られたものと括(くく)ってよいようです。
伊万里というのは産地そのものを指すのではなく、伊万里津の港に集積されて、そこから(ヨーロッパに向けて)送り出されたのでそう呼ぶのだそうな。よって、長崎の波佐見焼きなども伊万里焼きに含めるとのこと。
“なます皿”の“なます”は、直接には野菜を酢で味つけしたものを指すようですが、この場合はおかず一般と解してよいような。

とにかくも古伊万里は、江戸の末期までに作られたもので、時間の流れを身体に蔵(しま)っているのです。
何気に買い集めたものだけれど、日常使いの器にそういった古びた時間が横たわっているのはうれしい。

少しだけ、その紹介を。
筆者ごときが買うものは決して高いものはありません。いずれも1,000円以内だったと思います(大皿は1,500円ほどしたかなあ)。
骨董店にもいきますが毎年6月に開催される福島県会津三島の「ふるさと会津工人まつり」期間中、町なかに出る店から購入したものも多いです。ネットオークションで入手したものもあります。

下の各写真のレモンは同じもので、それに比しての器の大きさを表すことを意図してのもの。

この時代の磁器の模様は、“染付け”と“印判”に分かれます。
染付けは直接に描いたもの、印判はいわゆる転写です。
印判には“型紙摺絵”と“銅版転写”があります。“こんにゃく判”というものもあり、曲面にあてがう時に便利なようだけど、どうもイメージがついて行きません。
“型紙摺絵”は現在でいえばステンシルなわけで、図柄もくっきりと。
“銅版転写”の場合は、銅版によっていったん紙に印刷し、その紙をさらに磁器本体に貼りつけてそのついた染料を着けていくわけでぼんやりとした印象があります。ちがうだろうか。

次の3枚はØが30センチ弱の大皿です。
上から3枚は“型紙摺絵”という技法で作られもの。柿渋などで防水処理をした紙を彫り(この精緻な彫りの見事さ)、そこに染料のコバルトをブラシでこすりつけて色を落としたもののようです。

下の写真の右が、“型紙摺絵”の典型。左は染付けで、バナナの葉を描いたものだろうか。

下の2点は、染付けのようです。
いずれにしても、このコバルト藍にはうっとりするのです。

我が家はふたり住まいになってしばらく経つのだけれど、食器棚を見るとふたりきりの暮らしにしては(先の古伊万里も含め)どうも数が多すぎるような。
作家物もあるけれども、一方、100円ショップ(特に、ひと昔前の、キャンドゥ)から購入したものも多く含まれています。

以下は余談だけど…、筆者は昔からどうしたわけだろう、食器棚を含めた台所の風景がとても好きなのです。
それは、食器のひとつひとつが何ものかを語るからか、それぞれの道具が様々なストーリーを紡ぐからか、どうか。
だから例えば、島根の、とても著名な松場登美さんの群言堂の台所風景とかはすっぽりと心に納まりますね。それからそういう理由で、雑誌「天然生活」の古本のバックナンバーはけっこう持っています。

それで食器の出し入れがしやすいようにスペースにもう少し余裕がほしいと思って、整理用の収納棚を作ろうと思いました。普段は食器棚には置いておかず、さりとて完全にしまい込むほどではなく、来客があったときなどにはすぐ出せるようなものをそこに置こうと。

採寸して、イメージを紙に。
脇にある材料は、古材の柱の切れ端の何本かを20ミリくらいの厚さに挽き割ったもの。これを接(は)いで板を作り、接着剤の乾燥ののちに自動カンナに送って厚さを均一にし、そこから木取りして実際の製作に入ります。
いかにつまらない材を使っているとはいえ、製作は入念にします。
受けの棚板も単なる平滑面同士の接着(ビス留め)=イモ継ぎではなく、タテ板に溝を彫ってから組み込んだもの(大入れ継ぎ)で造りは頑丈です。板厚は18ミリほど。

とここまで作り、さて地震があった場合に皿が飛び出しはしまいかと想像しました。それで、いろいろ考えた結果、シンプルにも棚板の際(きわ)に小さな段をつけることに落ち着きました。
各段の棚の中間に取り外し可能な細い板を渡すことも考えましたが、デザイン的にどうもすっきりとしませんでした。これでは、何がしまってあるのか分からなくなるし。

これから、下のガラスの食器棚の中から、可能な限り上の収納棚に移ってくるでしょう。


2月の2日は節分。
今年は124年ぶりに、3日ではなく2日なのだそうで。生まれてこの方、節分というのは3日と決まっているものと思っていました。

この節分に“恵方巻”なるものがここらに伝わったのはいったいいつの頃だろう。
筆者の家族は1990年の3月まで仙台に住んでいたのだけれど、その当時までにあったのかどうか。これも、きっとバレンタインデーにチョコレートを結びつけた(一説によると)「森永の陰謀」同様のにおい。
そう思って検索してみると、やっぱりそうでした。
首謀者?は、セブン-イレブンとイオンでした。
1989年にセブンの社員が「大阪には節分に太巻き寿司を食べる風習がある」と聴いて仕かけ、98年頃からイオンが全国展開し急速に広まったのだとか。
資本の、金のにおいの嗅覚のすごさだ。錬金術というのは、要するに、流行を作り出すこと、不要をさも必要のように思わせることですよね。

そう言いつつ我が家もおいしいものは食べたいもの。
我が家には(いくらかのいただきものの)海苔があり、燻製にした生鮭もまだあり、ということで足らないところの具材だけは買ってきて、相棒が巻いてくれました。
今年の恵方は南南東なのだそうだけれど、筆者は方角にまったくの無頓着にてパクついたのです。
醤油だれ漬けしたまぐろに、えびに、きゅうりに卵焼き、それになんといっても手製の燻製鮭の醸すハーモニー…、たまらんかったです。それに、ぶり大根と(塩漬け戻しの)なめこの味噌汁と。

節分というのは、冬至と春分の中間なのだそうな(そうだったんだ)。節分は立春の前日で(そうだったんだ)。ということで、本日は立春なのです。日もだいぶ長くなりました。
立春は春が立つと書くけど、ここらでは春なんてまだとんでもないこと、冬の厳しさが極まるところ。

でも、“立”のそもそもの意味は数学でいう(“1”ではなく)“0”ですよね。まだ何もないけど、春という季節のスタートに立ったということです。
雪国に住む者にとっては、このスタートの意のゼロにしてもうれしい希望なのです。

室内の色彩の華やぎと、外の無彩色と。

三好達治(1900-64)の有名な詩に「雪」というものがあります。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

いいですね、この平和な景色は。
でもこの詩の雪には厳しさというものは見当たらず、ただにも甘やかであたたかなロマンティシズムが被さっているように思います。
なるほど、三好は大阪出身だ。

これが無著成恭(1927-)が編んだ生徒の生活記録『山びこ学校』(この舞台は現在の山形県上山市狸森。ここから北に50キロほど)の冒頭、「雪」(石井敏雄)ではこうです。

雪がコンコン降る。
人間は
その下で暮らしているのです。

筆者には、こっちの方が身体に染みてきます。冬にひとは雪の下で暮らすというのは実感です。

ただいま 、ルーザの森測候所の観測によれば、現在の自然積雪深は165センチであります。

立春にしありて、二十四節季のひとつ、“雨水(うすい)”を、切に待ち望むのであります。

それじゃあ、バイバイ。

追伸…。
4日はまたしても大雪と猛吹雪に見舞われ、5日朝には自然積雪深が180センチに達しました。
こうなると、いやはや、何ともです。

 

下は、吹雪がやんで、車庫の屋根に上っての撮影。

※本文に割り込んでいる写真はサムネイル判で表示されています。これは本来のタテヨコの比から左右または上下が切られている状態です。写真はクリックすると拡大し、本来の比の画像が得られます。

 

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