森の小径

早春について

3月も春分を過ぎる頃となりました。
この頃に決まって思い出すのは、父にお供して行ったドジョウ(泥鰌)獲りのこと。筆者がまだ、10歳くらいのことです。
家(生まれ育った山形県東置賜郡宮内町=現・南陽市宮内の山手の集落にあった借家)の近くの田んぼにはまだ雪が覆いかぶさっており、そこにバケツとシャベルを持って繰り出したのです。父に言われるままに雪を払いのけ、田んぼの表面に剣先を突き刺すと、10センチぐらいの深さにドジョウがたくさん潜んでいたのです。
へえ、ドジョウって、こんなふうに冬を過ごしているんだ!
泥鰌の「鰌」は魚偏に旁(つくり)は「酋」、これはミミズの意味だとか。なるほど、泥のミミズねえ。
わずかな時間でドジョウはバケツに三分の一ほどにも。それは当然に泥鰌鍋として父の酒の肴に、そして夕餉の一品にともなったのです。
貧しい生活ながらも、早春のうれしい時間。思い出すだけで幸いがあふれてくるような幼い日の思い出。
その父もとっくの昔に遥かだ。

下は現在の、増築しようとしている工房(兼ヒュッテ。左がヒュッテ、右に工房)。
手前は、山からの移植のブナ(山毛欅、ブナ科ブナ属)。5月ともなれば、美しい若葉が光り輝きます。ゾクッとする時間です。

敷地にフクジュソウ(福寿草、キンポウゲ科フクジュソウ属)が咲いたので、晴れ上がった21日、天然の大群落はどうだろうと当工房から15分ほどの場所に相棒のヨーコさんと連れ立って行ってきました。黄色なフクジュソウに会いに行く、それは我が家にすれば早春の恒例なのです。

そこは昨秋、(抗いの術もなく)大胆に切り開かれて林の様相が一変し、広大なスギ(杉)の植林地になったのは知っていました。重機が入って表土はメチャクチャにひっくり返されたので、フクジュソウはどうしたろうと心配していたのでしたが、どっこい、生きていました。
大群落はそのままとはいかなかったけれども、たくさんたくさん生き残っていました。本当にうれしかった。

フクジュソウの群落は、最上川の源流のひとつにして清流・天王川のほとりにあります。その、川面のちらちらする水と光の競演の美しさといったら。
棲息するイワナ(岩魚)やヤマメ(山女魚)は、さぞうれしかろうや。

下は、家の脇を流れる笊籬川(“ざるがわ”と呼びならわしている小さな川)と天王川の合流地点の手前。笊籬川はすべて凝灰岩の一枚岩!

笊籬川にかかって、マルバマンサク(丸葉万作、マンサク科マンサク属)が踊るように咲いて。

上空に、ハンノキ(榛木、カバノキ科ハンノキ属)。尾状の暗褐色のものは雄花序(花)、黒いものは果実です。春先の典型的なハンノキの姿。
この木の実や樹皮はいにしえより染料として使われていたとのこと。媒染にもよりましょうが、鈍色(にびいろ=鈍い灰色)に染まって、江戸時代には茶色や藍色と並んで粋な色だったとか。
若葉の頃のハンノキの美しさといったら、胸のすく思いです。それももうすぐです。

今年はじめてのショウジョウバカマ(猩々袴、メランチウム科ショウジョウバカマ属)。
この“猩々”とは中国の架空の生き物とのこと(能の演目にもあるそうな)、連想されるのは、サル、オランウータン、ゴリラなどのヒトを除いた霊長類のよう。花の色がその酔っぱらったような顔の色からの発想(とするからにはサルか。ショウジョウバカマの花にはもっと赤いものもある)、袴はその根生葉からという。何ともシュールで想像たくましい命名なものです。
ショウジョウバカマは野に山にありふれたものですが、早春を代表する実に美しい花です。
これって、けっこうな高山(ここらで1800メートル級)にもあります。生命力たくましく、相当適応力に優れていることがうかがえます。

天王川沿いの、日本最大の葉を持つホウノキ(朴木、もくれん科モクレン属)の株立ち。
ホウノキはいわゆるマグノリアのひとつ。

家のすぐ近くの笊籬溪(ざるだに、天王川)の現在。やがて一斉に芽吹きだします。

そうしてゆっくりのんびりと1時間ばかりの散歩を楽しんで家に戻りました。うーん、いい運動、気持ちのよい森の散歩でした。
戻ってすぐに、相棒は敷地のフキノトウ(蕗の薹。フキの若い花芽)を摘んでいました。これはてんぷらに?

筆者は、(北海道から送っていただいていた)半生のものを乾燥させた棒鱈をノコギリで切って笊籬川に沈めました。棒鱈の煮つけを作るために、うるかす(水に浸して水分をしみ込ませる)必要があり、この川の流れを利用したのです。
棒鱈を戻す場合、ある情報の解説には「水を替えながら3日を要す」とあるけれども、川の流れでは1日で事足ります。塩蔵キノコの戻しも同様で、丸1日かかるところを、4時間ほども晒せばOKです。何とも便利。

川に沈める? 川に浸す? 流れに晒す?
不審に思われる向きも当然あろうかと思いますが、この上流には一切の汚染源がありません。よってこの川はすべて飲料もOK。山菜採りなどで動いて喉が渇けば、手ですくって飲んで潤すこともちょくちょくです。
筆者にすれば、こういうのを何よりの幸いと思うのです。森の暮らしは、こうした醍醐味の連続なのです。

そうして水にうるかしていた棒鱈を引き上げ、酒やみりんやしょうゆや砂糖で味を調えて炊いて、棒鱈煮の出来上がりです。
骨までも柔らかくして、とても美味に仕上がりました。筆者の料理のセンセイたる相棒も褒めてくれ、ブリ大根とともに自慢の一品となっています。

庭のウメ(梅、バラ科サクラ属)の枝を折って、居間に活けていたら、昨日23日にとうとう一輪の花が咲きました。部屋にいい香りが漂いはじめました。
ウメは、まごうことなき春の使者です。

と、本日24日は何と8センチほどの積雪です。一気に冬に逆戻り。
この急激な季節の戻りを、宮澤賢治は「水仙月の四日」という名品に仕上げています。
筆者に言わせれば、賢治作品にあって5本の指に入るだろう名作です。東北に住む者の試練、春を迎えるに際してどうしても通過せねばならない厳しさを圧倒的な筆力で描いています。
東北の春の美しさを理解されたい向きは、ぜひ読まれたし。
筆者は昨年、この物語と向き合って評論文「「水仙月の四日」をめぐって」を書き上げてめぐりあいの記念としました(『設立30周年記念 米澤ポランの廣場Ⅷ』2019.8に収録。興味ある方には送付可能です。向きは、連絡フォームよりご一報のほどを)。

ヒュッテ前のトウヒ(唐檜、マツ科トウヒ属)の枝もご覧のとおり。

そんな早春の、静かで豊かな時間は過ぎて……。


と、横須賀の友人から、彼が懇意にしていた裏磐梯のペンションのオーナーのTさんが亡くなったという悲報が入りました。
昨秋はふたりして当工房においでになり楽しいひと時を過ごしたのでしたが……。
そのあと、当地米沢の有名なラーメン店に行ったのだそうで、Tさんから、「突然の訪問にもかかわらずご親切な対応ありがとうございました。/“ひらま”は30分くらい待って中に入れました。ラーメンのイメージが180°変わりました。とても丁寧な作業で1回に茹で上げラーメンは2、3杯分で5、6回位でゆでるお湯を交換しておりました。時間がかかるのが分かります。とても美味しいラーメンでした」というメールをいただいていたのでしたが……。
彼は花博士ともいうべき野生の植物にものすごく詳しい方で(当方垂涎の)希少な画像をたくさん見せていただき、この春にでもご一緒しながら歩けるのを楽しみにしていたのでしたが……。

Tさん自身、思い残したことはたくさんあったろうことは想像に余りあります。したいことがたくさんだったろうな。さぞかし無念だったろうな。
こうして死は突然にやってきて、人生、その重い意味だけが積み重なってゆく。

で、ひとしきりのあと、筆者はこう思うのです。
“進む者は別れなければならない”(ワーズワース)と。(ひとり大切に蔵っている金言です)。
お前は“進む者”なんだ。だから、別れる必要があるんだ。もっともっと人生を楽しめ、と。おのおのがた、もっともっと楽しまれよ、と。

下は、ヒュッテにある木彫りの小さなオオカミの、筆者に成り代わっての、早春の遠吠えです。