新型コロナ禍が世界中を巻き込んでいる現在、細々とでもアートの展観はあり。ここ山形県は米沢でもARTS MEET OKITAMA2020 が、よねざわ市民ギャラリーで開かれています(3月22日まで)。
筆者も出品していることもあり、展覧会の宣伝も兼ねて、眼にとまった作品の一部を紹介します(この会場はすべて撮影OK)。
“Untitled#1”、132×162、アクリル・綿布。石塚由美子(米沢市)
“untitled”の意味は「無題」のようです。こういうアブストラクトって、感情の機微ですよね。音の、空気の、心の形象化。白からグレーへのこころよい諧調。
“connexion”、162×130、油彩・キャンバス。菊地千尋(南陽市)
脚のもつれにシンボライズされているのはsex ?、じゃないね。もつれる脚はユニセックス、とすれば不確かな世の絆やつながりへの希求でしょうか。レンブラントの絵画を評する言葉に、「レンブラントライト」というのがあるけれど、下方からの光が独特ですよね。
“戦慄のページ”、79×97、油彩・キャンバス。渡邊修一(米沢市)
知人の1点。説明に写真家への敬意とあるけれど、モノクロの画面にあざやかな赤も混じって命を脅かされる子どもたちへの連帯も確かな技術の上に立ち上がっている、と観る。
“疾走するミュウ(細胞)Ⅰ”、194×162、油彩・キャンバス。清水恵子(米沢市)
身近な友人の1点。どんどんとオリジナリティの形象化が進んで、もうどうしてもケイコ。これゆえにこそ画家の証明というものですよね。
“遥かなるグラナダ”、224×220、キルト。髙橋幸子(米沢市)
昨年度(来場者の投票による)大賞に選ばれ、今回は一角を占めた作品群の中の1点。形象と色彩とを布に置き換える感性の卓抜さ、眼の確かさですね。
昨年の受賞作品。“Borderless-人がいて、猫がいて”、186×200。
“郷愁”、231×208。これは酒田の山居倉庫、それに別方向の鳥海山を組み入れての構成のよう。
“川端茅舎の句”、70×45、髙橋如水(米沢市)
墨の濃淡が作り出す造形的な世界。茅舎(ぼうしゃ)の句という「しんしんと雪降る空に鳶の笛」も響き。この句は、厳冬期というより明るさを帯びた早春の空が思われるのだけれど…。最近になってトビの声も、それからフクロウの声も聴こえてきてうれしい。“あたたかいのあるところ”、44×36、切り絵。金田愛里(長井市)
繊細なナイフ跡の集積に見る平和な世界。現在の閉塞状況とは真逆のおだやかな空気に満ちていて。“風の十二方位”、90×40×90、和紙・絹糸。佐藤静子(米沢市)
物語の場面という、和紙で人物を造形する技術の見事さ。“昇り龍”、25×70×25、ひょうたん。千葉三朗(米沢市)
自分で育てたというヒョウタンを用いた照明のおもしろさ。
拙作。“door-lira F-01 pick+”、25.0×23.5×52.0。樹種はサクラ(桜)とシタン(紫檀)を使用。
下は、弦を張るための金属ピン(自作)を打っているところ。ショップにあった消しゴムハンコ。クサムラクモさんの作品群。
前回、その緻密な彫りに感激して購入したものでした。今回もアーティスティックな作品が並んでいました。
下が購入した作品。ショップには、希望する作家が作品を商品として並べています。アートを商品として並べ、これを購入できる仕組みというのはよいことだと思います。アートは暮らしの中に溶け込むべきというのが主催者の意図なのでしょう。
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コロナ禍はとうとうパンデミック宣言にまで及んでしまいました。人心は混沌、経済は急降下、新型コロナウイルス以上に先行きの見えない不安ウイルスというべき重い空気が世界をおおっているようです。ここは努めて冷静に、冷静に。
日本の政府がコロナ禍によるクリエーター(アーティスト=作家)を含めたフリーランス(仕事に応じて自由に契約する人)への生活保障にと日額4,100円という数字をあげていましたね。それに対抗するかのように、この11日、ドイツ文化大臣(モニカ=グラッターズ)がアーティスト支援の声明を出しました。
「この状況が文化、クリエイティブ産業に大きな負担をかけ、とくに小さな文化機関やアーティストが大きな苦痛にさらされる可能性がある。私たちはアーティストたちを失望させない。政府の援助対策協議で支援を提案する」、という。(source;TOKYO ART BEAT)
これは日本とドイツの民度の差、文化や芸術への視線の違いを示していますね。すぐに金銭を持ち出すあたりが日本らしい。ではないんだ!
文化や芸術って、それがなくったってひとは生きてゆけるもの、けれどこれらは心のビタミンとなって精神を豊かにし、生命を強靭にしていくのも事実だと思います。これこそ、ひとのひとたる所以というべきものです。
上に紹介したクリエーターで、これを職業として制作(製作)し、生活を成り立たせているひとはまずいないと思います。受け入れる側の国家も社会も地域も個人も、感性の脆弱さは如何ともしがたいゆえ。
創造活動に携わるひとに(せめて勤め人と同じくらいの)労働の対価が支払われる、そんな社会が訪れやしないかと思う早春でもあります。
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家に戻れば、庭にフクジュソウ(キンポウゲ科フクジュソウ属)が。パラボナアンテナ然として、日差しをいっぱい集めていました。