言の葉

賢治の世界、30年

とりたてて、ということではないのですが、筆者が代表をつとめている宮澤賢治の読書会・米澤ポランの廣場がこの8月で区切りの月例350回、来年6月には30周年を迎えることからこのことについて取材を受けましたので、その記事を紹介します。
「とりたてて、ということではない」というのは、もしこれをまともに意識などしたら自分でもとても収拾のつく事柄ではなくなります。よって今は、いわばこれは、日常の一部、月に一度の大人の道楽、マンネリズム……、それでくくってよいことだと思っています。それぐらいのものです。

下は、その記事。

 

筆者が賢治の世界に興味を覚えた頃のエピソードを下に転載します。初出は、記念誌『廣場二十年』2010.5。

「ハジマリノハジマリ」/本間哲朗

1983年3月27日。私は初任からふたつ目の職場に移り1年を終えた足でひとり、なぜだか花巻におりました。日中は誰と言葉交わすことなく、かのイギリス海岸に腰を下ろしてどっぷり、時に絵筆を握って風景を目におさめていたのです。近くに、上が12歳ぐらいの兄と、妹がたわむれていたと思います。遠くに、白い早池峰が光っておりました。
学生時分からの倣いでその日も前もっての予約は入れていなかったと思います。日暮れて鉛(なまり)近くのユースホステルに飛び込めば宿は閑散、客は妙齢の女性がふたりばかり。季節はいまだ早春のこと、パブリックルームには炬燵がまだすえられており、ふたりは足を突っ込んでおりました。
聞けば、ともに東京の大学の出、卒論はこれまたともにミヤザワケンジ、ときました。私は日中(ひなか)のスケッチを広げたものか、それを指して言うのでした。「ここを賢治は、“修羅の渚”と言ったんだよね、だよね」。
私がイギリス海岸に居たのはその名から連想された甘いファンタジー以外になく、それを指して乙女が、こともなげに透き通る声で言うのです。「ここを賢治は、“修羅の渚”と言ったんだよね、だよね」……。
耳する私はそれが何を指すのか意味するか、そもそも賢治は牛乳いろの霧の中、その素性は何も知らないのです。
乙女が放った幻惑、甘美な誘惑。こびりつきこびりつき、離れることのなかったこの言葉……。

それからどれほど経ったものか、大学の後輩がかつて紹介してくれた言葉がふいに過ぎりました。「君には、美しいものを創造するに足る混沌が十分とは思われない」(ジョイス)が、それです。
ハッとしました。甘美な誘惑がリンクし、オーバーラップしました。修羅とはジョイス言うところの混沌?、であれば美に対するは、春? ということは、賢治のキーワードのひとつ「春と修羅」は、賢治自身が己を解放するための手段? この対置あればこその立ち位置?
美しいものの裏に人知れぬ深い惑いが隠れ、ごちゃごちゃした葛藤を蔵すればこその美、醜いものを母体にして生れる出(いず)るもの……。そんなことをひとり諒解したのです。
そしたら賢治はさながら天蚕(てんさん)、山繭蛾(ヤママユガ)の生まれ代わりじゃないですか。山繭蛾は薄緑色の美しい糸をたくさんたくさん吐くし、賢治はたくさんな酔うほどに美しい言葉を吐きました。私はそのあまりに隠微な秘密の正体を知りたくて、無性に知りたくて知りたくて仕方なかったのです。青かった日のことです。

ケンジノウチユウヲタビシ コトバノオリジンヲモトムルハ アノシヤチユウノトリトリノゴトキトウトキリンジンノドウジヨウセシコト カクナルハ ポランノヒロバヲコサフベシ ツドフベシ コレガハジマリノハジマリ
ヒヨワナアシナルワタクシノユエ

 

signalで今後賢治の世界についてことさらに取り上げるということはないと思うので、この機会に、米澤ポランの廣場で2006年に開催した「展●賢治へのオマージュ」に出品した作品のごくごく一部、相棒のヨーコさんと筆者の作品を下に紹介しておきます。イヴェントのひとつとして賢治にイメージされる造形展を開いたときのものです。

エンターのアイキャッチ画像は筆者のコラージュ。
下は、架空のワインポスター(以下、断りのないものは筆者作)。

下は、ヨーコさんの草木染めシリーズ「やまなし」、「鹿踊りのはじまり」、「虔十公園林」。

竹ひごによる「賢治、iglooに憩う」。

カービング「よだか」。