言の葉

不忘の麓まで

  不忘の麓まで

 

不忘の麓まで
不忘の麓まで俺は
住まふ笊籬から独りして
遥けき彼方の十三里
ただこの足で歩きだす

まだ朝早い出立は薄曇りであった
沼も橋も ゆるいアールの赤松の道も
ひっそりとして行き交う人はない
冷涼な空気を吸いながら
見慣れた景色をゆっくり行けば
ああ このあたりには 少し前には虎尾の白い花穂が揺れていた
今は 大待宵草がただ一株 明るい花をつけている

小さな峠を越えれば 蕎麦の畑があらわれて
またひとつ越えれば 白く輝く葡萄棚 そして田圃の続く道
雑な種が飛び散らぬよう 農夫はこまめに畔の草を刈る
軽トラックが四台も連なって
何かと思えば 荷台にたくさんな花が積まれ どうやら葬列の支度らしい
おっかさんは時候のあいさつを交わし
堀っ建て小屋は葡萄売りの準備に忙(せわ)しい
地蔵は赤いべべを着せられて しずかに坐している
そんな小さな集落は
今日も平安の中にある

不忘の麓まで
不忘の麓まで俺は
住まふ笊籬から独りして
遥けき彼方の十三里
ただこの足で踏みしめる
冷たい夏のあとのごと
どれも浮かない顔ばかり
旧い山路に日は差して
思ひ出ばかりが過ぎ去りぬ

菊月も半ばともなれば
やっぱり実りの頃となり 峠道には堅果が転がる
木漏れ日の下 その実をせっせと拾う人もある

胡桃ですか
ええ 胡桃です
それでは ごきげんよう

 

あれは小楢だろか
いやいやそうではない 葉柄がないじゃないか
それでは水楢だ
この実を醂して擦りつぶし 食べていたのは昨日のことのよう
あっ あの赤い花は釣舟 黄釣舟も咲く
あれは牛ノ額(べごのでな) これは現ノ証拠
美しき青紫は鳥兜 白いは鵯花 秋明菊も咲くではないか
箒をさかさまにしたあの美しい大樹は 欅だろか
いやいや 幹は白く美しいまだら
椈だよ椈だ おお椈だ
こんなところに おまえがひとり立つというのは
はるか昔はここらにも
たくさんの仲間たちが屹立していたのだろう それが散々に伐られたのだな
それでおまえにも空が拡がったのだな
この道でおまえを見つけると
旅の者は安心して喉を潤したり 煙草をくゆらしたりもしたのだろう
さて 俺も一服だ
ああ 空には鰯雲が泳いでいるし
ああ 上層雲の彼方から さわやかな風も吹いてくる

歩き疲れて腰をおろせば 古戦場の芒は一面
おいでおいで と手招きしたり
(どこに来いというのだ やだよ俺は)
バイバイバイバイ と手を振ったりした
(俺にサヨナラを言ってどうする)

またひとつ峠を越えて 古い宿場に入れば真昼時
老人は腰を曲げてただ黙々と鍬をふるい
犬がキャンキャンと戯れている傍らには 菊芋が明く咲いている
街道筋の田圃はどこも
もう秋だというのに稲穂の頭は軽く 黄金の色を示さない
農夫は腰に手を当てて あたりを見回すばかりだ

小岩井農場 イギリス海岸 下根子桜に鉛温泉
縄文杉 四ッ瀬の海 一湊そして白川山
天王川 笊籬橋 笊籬沼 はたまた煙立つ台林……

賢治ツアー1996、光原社にて

親指立てて
オオイと朗らかにやってきた人は
もう来ることはない

不忘の麓まで
不忘の麓まで俺は
住まふ笊籬から独りして
遥けき彼方の十三里
ただこの足で行かんとす
踵は痛んで手は浮腫み
日はいたく西に傾ぶきぬ
寂しさ連れて行く道は
野の花満ちて匂ひけり

私が四十四の時でしたがね
中学の卒業式の前の日でした
いつものように元気な顔を玄関で見送ったんですが
気分が悪いと言って帰ってきて 玄関口で倒れてしまいました
それきり息子は逝きました
三年前には妻が先立ちました
残されるというのは寂しいものです
それから私は何もする気が起きなくて 家に閉じこもってばかり
こうして出歩くようになったのはつい最近です
蔵王はいいです 清々します
この道が好きです
今夜は青根の湯につかって 仙台に帰ります

深い皺の男が そう言った

汗の匂いがぷんぷんするし 足を引きずる姿はみっともない
こんな見ず知らずの ただ歩いている俺に あなたは話しかけようとするか
話しても仕方のないことじゃないか そんなこと
そんなに死の匂いが漂っているというのか俺は おい

みんなみな 魂の旅人なんだな
みんなみな 虚空を游ぶ人だ

それでは さようなら
それでは ごきげんよう

不忘の麓まで
不忘の麓まで俺は
住まふ笊籬から独りして
遥けき彼方の十三里
ただこの足だけを頼りとす
とは言ふものの日は落ちて
痛み堪へて行く道は
心寂しくするばかり
不忘の御岳も見えやせぬ

あなたの生きた幸いを思えば
暮らしの舞台ははるか縄文の頃からの 落葉夏緑樹林の椈帯であったこと
おおい尽くす雪 ケタケタと笑う山
満天の星 お日さまにお月さま……
鬱蒼と繁る樹木 極色に彩られてやがて落ちる葉々
漆黒の闇 かかる靄 光眩しい真昼時 そして茜の雲だ……
おお この椈帯で息を吸って この椈帯に息を吐いたりしたのだ
これが幸いでなくして 何であろう

日はとっぷりと落ち あたりは草原やら樹海なのやらわからない
空は厚い雲におおわれて 星のひとつも瞬かない
ただ見えるのは薄ぼんやりの北の空
不忘の麓はまだだろか
不忘の麓はまだだろか
いい加減に筋肉は萎えて 足はがくがく もうやめろよという声ばかり
狐や熊でもやってきそうなそんな時
そうしてようやく かすかに宿の灯が見えた
ぽおっと明るく 宿屋の親爺の顔が浮かんで
俺の足は急いたのだ

不忘山の頂きより

ごめんください
と 俺が言えば
やあやあ とにかくお上んなさい
と 宿の親爺は言うだろうか

不忘の麓まで
不忘の麓まで俺は
住まふ笊籬から独りして
遥けき彼方の十三里
ただこの足で辿りつく
翌朝(あした)は晴れるか霧だろか
御岳を映して湖は
輝くだろか光らうか
不忘は荘厳するだろか

 

ホンマテツオ/『米澤ポランの廣場 臨時増刊 長谷部優追悼』所収 2003年11月

※原文は、1字下げ、2字下げをしている箇所があるが、このホームページでの表記機能では反映されていない