旅の空、飛ぶ声

泥湯の秋 栗駒の秋

本日は(2023年)10月22日、外は冷たい雨です。
9月になってもずいぶんと気温の高い日が続いてきたけどぐっと冷え込んだのが24日のこと、それからは本来の秋の冷気が徐々にやってきています。
このごろは主屋もヒュッテも薪ストーブをボンボンと焚いています。
「ストーブをボンボンと焚く」というのは、こちらの特別な言い回しですかね(笑い)。

筆者にすれば長く主宰してきた読書会サークルの幕引きの作業(記念誌の編集作業など)が一段落、冬を越すための準備もほぼやり終えてぽっかりとあいた数日間、さてどうしよう。どこに行こう。
そうして思い浮かんだのはふたつ。
ひとつは近場(クルマで2時間もあれば行ける)磐梯朝日国立公園の浄土平エリアの、一切経山に登った足で谷地平湿原に行き、その避難小屋に泊ってくること……、このエリアのこの時期のナナカマド(七竈)の赤のあざやかなことといったら。
もうひとつは遠く(約200キロかなたの)栗駒国定公園の一角、秋田県湯沢の山奥の鄙びた温泉の泥湯でのんびりすること……、そうだ、その泥湯には魅力的な山、まだ登っていない高松岳があったはず。ならばと、はじめての山行を決め手として泥湯に行くことにしました。はじめての山は誘うのです。

ということで、今回のsignalは「泥湯の秋 栗駒の秋」と、その続篇として「泥湯三山の秋」をつづってみることにします。
「泥湯の秋 栗駒の秋」は滞在記、「泥湯三山の秋」は山歩きの様子です。

泥湯での滞在は2016年と18年に続いて今回は3度目のことになります。
泥湯は俗気・俗臭がなくて、静かでよいのです。このあたりで温泉といえば秋の宮温泉郷や小安峡に流れるようで、泥湯に目を向けるひとはほとんどいないようです。

初日の(10月)16日、泥湯に至る前に、気にはしつつなかなか立ち寄る機会がなかった旧増田町(現在は横手市)のまんが美術館にまずは行ってみることに。
まんが美術館は「釣りキチ三平」で有名な矢口高雄の出身地ということで矢口の個人記念館かと思いきやさにあらず、日本の名だたる漫画家の原画を収集し、それらが一堂に展示されていました。うれしかったです。
何せ筆者はマンガ少年でしたからね。小学生の時はずっと『少年画報』を読んでました(1960年代には「少年画報」をはじめとして、「少年」「冒険王」「ぼくら」などの月刊漫画誌が主流だった)。月に一度、親にもらうわずかなこづかいから『少年画報』を買うことは何より楽しみなことでした(当時の月刊漫画誌には工作付録がついていて、それをつくるのも楽しみだった)。将来は漫画家がいいななんて思ったりして(笑い)。

で、中学高校時代は一旦漫画から離れたけれども、大学の頃にまた熱中して読んできたものです。
そういうこともあって、白土三平の「カムイ伝」の原画とその掲載誌の、伝説の『ガロ』に会えたのはうれしかったです。この『ガロ』がなかったら、今の漫画の隆盛はなかったでしょうね。
白土はとにかくいいです。筆者にしたら、白土三平とつげ義春は双璧です。
下は、白土の表紙絵になる『ガロ』(1969年4月号)。


それから感激したのは、「垣根の魔女」を代表作とする村野守美(もりび)の原画に会えたこと。

彼の作品には甘くてすっぱい思いも重ねたものです(笑い)。“タエ”がよかった。キュンキュンでした(笑い)。
白土も村野も、もうこの世にはいないけど、それぞれの世界をリアルタイムでふれることができた幸せを思います。
よい時間でした。

そして初日の大きな目的のひとつが湯沢市川連(かわつら)の阿部平四郎こけしギャラリーを訪ねることでした。
泥湯に行くときには必ず立ち寄っているので、今回で3回目の訪問ということになります。
今回は、前回18年当時はまだお元気だった阿部陽子工人が2021年に亡くなられ、花を手向けたく思ってのことです。
お相手してくださった娘さんの木の実工人の配慮で仏間に通していただき、仏壇に掌を合わせることができたのは幸いなことでした。
右が陽子さん、中央は名工と謳われた、陽子さんの師匠であり夫の平四郎氏(1929-2013)。

木の実さんの作品。
この、木地山系の伝統を守りつつそこに収まりきらない筆遣いは魅力的で、彼女はやはりクリエーター。

木の実作、石蔵型。

かつて陽子さんからいただいた平四郎が描いた石蔵型のこけし絵の手ぬぐい。
筆者のところの主屋の和室に、みずからつくった額に入れて大切に飾ってあります。

ギャラリーにて、木の実さんと。 

こけし、阿部平四郎、陽子工人、木の実工人、木地山系、石蔵型そして泥湯…。筆者の中では、この単語の配列はすべて1本の線でつながっているものです。
それをつないでいるのが、東北に10(11とする説もある)ある伝統こけしの系統のひとつの木地山系こけし、そしてその顔ともいうべき小椋久太郎(1906~98)というこけし工人です。
泥湯の小椋旅館は久太郎の親戚筋に当たります。石蔵型の石蔵とは久太郎の父の弟で、一世を風靡した伝説の工人です。石蔵の遊んでいるかのような奔放な絵模様はもはやスタイルになっているのです。筆者も惹かれています。

こけしには見向きもしなかった筆者が、近年、久太郎のこけしに出会ってこころ奪われてしまったのです。
湯沢、川連、木地山、泥湯…という場所に筆者を誘ったのも、ひとえに小椋久太郎です。

木地山系こけしはまず、伝統こけしとしては特異な一木(いちぼく)つくりという特徴があります。一木ゆえに、伝統こけしの中でも最もひとの形に近いものになっています。
そして久太郎の描く顔の表情が何ともいえずいい。
久太郎は15の頃から死去した92歳まで、同じように木を挽き、同じ顔、同じ絵模様をたんたんと描き続けたのです。このたんたんとしたくりかえしの、気の遠くなる時間が筆者にはいとおしいのです。
筆者は「九十二歳」と記された久太郎こけしを所持していますが、その震える筆遣いにも感じ入ってしまいます。

下は、木地山の工房跡のわきに立つ久太郎の記念碑。

我が家の久太郎コレクション。 

そうして向かった先が記念碑からほど近い泥湯温泉小椋旅館です。深い山中にあります。
泥湯から見る山も秋です。

いいですね、この黒い板壁、鄙びた風情。

 

で、かつて栗駒山に子どもたちと登った記憶があるなあと思ってそのあたりの写真をながめていたら、何と小椋旅館前で写真を撮っているではないですか。
たぶんちょうど30年前、1993年の夏だったと思います。なつかしいです。
栗駒に登って、登山口近くの須川湖でキャンプをして、ぐっと下ってここ泥湯で湯をもらったのだったのでしょうか。

実は小椋旅館、一七子(ひなこ)女将は、歳をとってなんの構いもできないからと、今は宿泊の客を取ってはいないのです。営業は立ち寄り入浴だけです。

そこを何とか、なじみということで、誼(よしみ)ということで頼み込んで泊めてもらったというのが本当のところです。特別です。
よって寝具は持参(毛布だけは借りました)、食材を含め数日を過ごすに必要な一切を持ち込んでの滞在が基本です。

軽トラ荷台のキャリーケース。滞在に必要な物品をコンパクトにパッキングしています。

まあ筆者は山に登って山小屋(避難小屋)に泊るというのは慣れていること、屋根と壁があればそれだけでもありがたいという話なのです。
この春には少し高級なダウンシュラフ(イスカ製ポカラX。マイナス6℃まで対応)も手に入れたことでもあるし。

泥湯はとにかく、湯がいいのです。総木造りの湯船、熱くもなくぬるくもなく、そして適度な濁りもあるのも温泉らしくていい。
湯船の底には温泉成分が沈殿していて、それを掬えばまさに泥、泥湯とはここから来ています。

そうして朝に日中に夕に晩にと、滞在中に何度、出たり入ったりしたことだろう。
下は、外の窓から見た湯船。 

食事は、筆者は普段から昼は自分でつくっているので食材さえあれば特別困ることはありません。
滞在中も、湯を沸かし、焼いて煮て、何かしらつくって食べていました。
夕食はレトルトのごはんを湯であたためて(あるいは登山用のアルファ米に湯をそそいで)、牛丼やら焼きハンバーグやら出来あいの手ごろなもので。朝食は食パンに持参した卵とハムでハムエッグやソーセージ焼き、コンビニからの生野菜サラダもつけてと。それなりにうまいものです。

途中の道の駅で売っていたコクワ(サルナシ)はデザート代わりに。
口に入れれば、まさに甘いキューイフルーツ。

そして今回の料理の極めつけは登山中に採ったアイシメジ(ハエトリシメジ。近縁にシモフリシメジ)とブナカノコ(ブナヒラタケ)のきのこ汁。
いやあ、いい出汁が出ててひと口で感動でした。
なお、アイシメジはたくさん採ったので半分は宿の女将に差し上げました。とても喜んでくれました。

それでです、持参のワインではどうもなあ、きのこ汁なら日本酒に限ると思って、善は急げ(笑い)、クルマを飛ばして山を下ったのです。
ところが走れども走れども酒屋はないのです。そしてようやく見つけたスーパーマーケットは26キロ先でありました(-_-;)。(ナビで距離優先にして、主要道を避けていたのがいけなかった)。
そうしてゲットした湯沢名産の純米“福小町”は何ともおいしかったです(笑い)。
きのこ汁と福小町、至福のひと時とはこのことです。 

下は、真夜中の風情ある出入り口の内側から。

朝、玄関口の前で、セルフで。

明治時代の建築という小椋旅館の建物が今も現役なのは、この基礎にあると思います。
この礎石こそ長持ちの秘訣、建物の寿命というのは床下の空気の流れ如何に比例しているのです。

2日目、17日は登山、これは次回のsignalの後篇にて。

3日目、18日は朝から前日とは打って変わっての快晴でした。この日はドライブを決め込みました。

泥湯まで来たからには宿から約2キロの川原毛地獄と川原毛大湯滝に行かねばです。
川原毛地獄は、青森県の恐山と富山県立山と並ぶ日本三大霊場のひとつだそうで、あたり一面に硫黄臭がただよう荒涼とした景色です。
その先に、川原毛大湯滝があります。
途中、仙台からきたという女性ふたりと外人男性の3人組と話したのですが、(水着で)滝つぼに入ってきた、ああいい湯だったと満足そうに笑っていました。
そう、流れ落ちる水がすべて湯なのです。北海道にはカムイワッカ湯の滝というこれまた壮大な湯滝があるけど、ここもどうしてどうしてです。
どうだろう、この迫力!

大湯滝をあとにして訪ねたのは、小安峡大噴湯(おやすきょうだいふんとう)。
小安峡は皆瀬川の急流が長年にわたり両岸を深く浸食してできたV字の峡谷。60メートルほどの下の川底に下れば、熱湯と蒸気が激しく噴出しています。蒸気や熱水がたまっている地熱貯留層の亀裂が露出しているという世界でも珍しい地形なのだとか。
地球の力をまざまざと見せつけるこの大迫力!

前回もそうだったけど、小安峡はとにかく外国人、特に中華系の観光客でいっぱいでした。
筆者をつかまえてスマホで写真を撮ってくれという中華系の若いカップルがいて(彼女はモデルのようなスタイルだった)、それに応じました。
彼らと2度、3度と行き合ったので、Where are you from?と聞いてみました。それにすかさず Hong Kong!と彼、Hong Kong!と彼女も追って。
これで自分が英語を上手く話すことができたら(-_-;)、とっさにでも「大陸化反対!民主香港を愛しています!」とでも返したでしょうに(笑い)。
それにしてもふたり、こちらが恥ずかしくなるくらいにイチャついていたなあ(笑い)。

橋の上からの眺め。

川底から立ち上がる蒸気! 

大噴湯を後にすれば、天気は澄みわたる秋の青空、そうだ栗駒に行ってみようと思い立ちました。
小安峡から栗駒山の登山基地の須川温泉まではわずか約20キロと近いのです。ということは、ランプの宿として有名な(栗駒登山で宿泊したことがある宮城県側の)湯浜温泉三浦旅館も近いということです。

栗駒山に近づくにつれて紅葉が映えてきました。

栗駒連山のひとつ秣岳(まぐさだけ、1,424メートル)を背景として。
秣岳は秀麗な山です。登山口にはたくさんのクルマが駐車してありましたので人気のほどが分かります。
須川温泉から栗駒山(1,627メートル)を経由して秣岳に下りる、または逆のコースを登って須川温泉に下る…、すばらしい山旅が想像できます。筆者もここ数年の間に、きっと実現したいと思います。
この「秣」の字は栗駒の地図を眺めるまで知らなかったのだけれど、「まぐさ」なのだそう。まぐさは牛や馬が食(は)む草やわらを指すとのこと、どうしてこの山にこういう名がついたのだろう、不明です。

秣岳を眺めた橋から溪谷を見下ろした図。

須川湖から眺める秣岳。
須川湖は紅葉の名所、たくさんのカメラマンと紅葉狩りのひとびとでにぎわっていたのは言うまでもないことです。
今年の紅葉はどうなんですかね、と湖のほとりでカメラを構えていた男性に聴くと、「今年は暑かったからね、赤の出がよくないような」と答えるのでした。
その男性のイントネーションは西の方、関西かもしれない、ということはこの時期、はるばる栗駒まで幾度も来ているということなのでしょう。
さすがは栗駒です。

須川湖は思い出のキャンプ場。そしてかつての(30年前の)テントサイトがすぐに分かりました。

そう、栗駒山に登って下りて、ここに、こんなふうに小さなテントを張ったのでした。 

登山基地の須川温泉から栗駒山頂までは、大人の標準タイムで1時間40分ほど、まだ8歳と6歳の子どもがいっしょなら2時間ほどはかけたのかもしれず。思い出の登山です。  

須川湖畔のブナの黄葉。

登山基地あたりから見下ろした須川湖方面。よく言われるところの、神の絨毯。

途中に目にしたすっくと立つ美しい針葉樹。
西吾妻になじみのオオシラビソ(大白檜曽=アオモリトドマツ/青森椴松)ではないし、シラビソ(白檜曽)のような樹形。でも、シラビソというのは北限が東吾妻と聞いているので、??です。なんだろう。

栗駒から国道342号で東成瀬村に抜けて、増田に、湯沢にと出て、買い物をして泥湯に戻りました。
よいドライブでした。

お世話になってきた女将と。

19日の朝早く、荷物をまとめて宿を出ました。いやあ、のんびりできました。
一七子女将、また来ますね、またヨロシクお願いします。
どうぞ、お元気で。

 

宿をあとにし、横手からはじめての一路、日本海広がる由利本荘をめざして走りました。
それから海岸線を走って南下、象潟(きさかた)を抜け、遊佐(ゆざ)に至り、酒田まで来て11時半。
そうだ、酒田のラーメン“満月”がこのほど開催された「ご当地ラーメン総選挙」で、なんと優勝したのだとか。これは行かなくちゃ!(笑い)。

ということで、満月には平日と言えど長い行列ができていました。
クルマのナンバーも関東、北陸、新潟と遠方も多かったです。
web投票10万票の末に予選を突破した札幌、喜多方、佐野、家系(横浜)、甲州、尾道、博多などの並みいる敵をなぎ倒しての優勝だけのことはあります。
満月のラーメンの特徴は、新聞の文字が読めるくらいにうすいワンタン、豚骨と鶏ガラをベースに昆布と煮干しとトビウオからとったスープ、それにストレートな自家製麺です。確かにおいしかったです。

筆者の米沢は知る人ぞ知るラーメンの本場中の本場。約2時間ほどで行ける喜多方まで行って比べてくるひとも多いのだけれど、口をそろえるのは、「(喜多方など)米沢ラーメンには手も足も出ない。宣伝がうまいだけ」という酷評です。それだけ米沢市民はご当地ラーメンをこよなく愛しているのです。
横須賀に住む友人などは、“そばの店ひらま”を指定してわざわざ食べに来るくらいですからね。
満月のワンタンメンはすごくおいしかった。でも麺はやっぱり米沢の縮れ・手揉みがいいなあ(笑い)。

庄内は酒田のコメの集積場、山居倉庫。
この風景はいつ来てもいい。

そうして、庄内浜をながめ、今川の海にたたずみ、下海府、外海府の海を抜け、笹川流れを目にして家路を急いだのです。

日本海はいいなあ。
磯の香、小さな漁港、立ち並ぶ家々と狭い路地…。日本海はいつ来てもいい。
海はもうすぐ荒れ狂ってくるんだろう。日本海は厳しさを併せ持つゆえのうつくしさです。

それでは、本日はこのへんで。
じゃあまた、バイバイ!

 

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