言の葉

茨木のり子「花の名」をめぐって 2

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以下は、「花の名」をめぐって1 からの続きです。

 

泰山木と辛夷

登山帽が花の名を聴き、のり子がこたえる…、なぜのり子がこたえる側にまわったのかは、この詩の構図として明らかでしょう。それは、敬愛する父の教えとして、「女の人が花の名前を沢山知っているのなんか/とてもいいものだよ」という言葉を先に置いたからです。
したがってのり子は作中で、自分はうんとたくさんな花の名を知っているということにしてしまっている。

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けれども実際はのり子は植生にも花の名もくわしくはない。そののり子に山野を歩く趣味を持ち木に明るい登山帽が聴いている、この設定はかなり奇妙で不自然です。
ですが、奇妙で不自然ながらもともかく(不覚にもそこを計算せずに、そこを見落として、としてもよいと思う)、のり子はこの部分を何としても入れたかったのです。
それはなぜか。
それは、泰山木(タイザンボク)と辛夷(コブシ)こそはこの詩の最大の目標物、めざすべきゴールだったからです。

コブシ

 物心ついてからどれほど怖れてきただろう
 死別の日を
 歳月はあなたとの別れの準備のために
 おおかた費やされてきたように思われる
 いい男だったわ お父さん
 娘が捧げる一輪の花
 生きている時言いたくて
 言えなかった言葉です
 棺のまわりに誰も居なくなったとき
 私はそっと近づいて父の顔に頬をよせた
 氷ともちがう陶器ともちがう
 ふしぎなつめたさ
 菜の花畑のまんなかの火葬場から
 ビスケットを焼くような黒い煙がひとすじ昇る
 ふるさとの海べの町はへんに明るく
 すべてを童話に見せてしまう
 鱶に足を喰いちぎられたとか
 農機具に手をまき込まれたとか
 耳に虻が入って泣きわめくちび 交通事故
 自殺未遂 腸捻転 破傷風 麻薬泥棒
 田舎の外科医だったあなたは
 他人に襲いかかる死神を力まかせにぐいぐい
 のけぞらせ つきとばす
 昼も夜もない精悍な獅子でした
 まったく突然の
 少しの苦しみもない安らかな死は
 だから何者からかの御褒美ではなかったかしら
「今日はお日柄もよろしく……仲人なんて
照れるなあ あれ! 僕のモーニングの上に
どんどん荷物が ま いいや しかし
東京に住もうとは思わないなあ
ありゃ人間の住むとこじゃない
田舎じゃ誠意をもってつきあえば友達は
ジャカスカ出来るしねえ 僕は材木屋です
子供は三人 あなたは?」
 父の葬儀に鳥や獣はこなかったけれど
 花びら散りかかる小型の涅槃図
 白痴のすーやんがやってきて廻らぬ舌で
 かきくどく
 誰も相手にしないすーやんを
 父はやさしく診てあげた
 私の頬をしたたか濡らす熱い塩化ナトリウムのしたたり
 農夫 下駄屋 おもちゃ屋 八百屋
 漁師 うどんや 瓦屋 小使い
 好きだった名もないひとびとに囲まれて
 ひとすじの煙となった野辺おくり
 棺を覆うて始めてわかる
 味噌くさくはなかったから上味噌であった仏教徒
 吉良町のチエホフよ
 さようなら


父への敬愛

「菜の花畑のまんなかの火葬場から/ビスケットを焼くような黒い煙がひとすじ昇る/ふるさとの海べの町はへんに明るく/すべてを童話に見せてしまう」…、これが(4月)6日に荼毘(だび)に付したあとののり子の目とこころが感じ取った光景でしょう。
実際にも火葬の6日は南東からの風がわずかに吹いてあたたかな日和でした。「すべてを童話に見せてしまう」ほどに、ふるさとの海べの町は明るく甘やかだったのは確かなことだったでしょう。

登山帽の花の名の問いから導き出されるかつての父の言葉「女の人が花の名前を沢山知っているのなんか/とてもいいものだよ」から大きく場面転換し、父への思いがあふれ出してきます。
このつなぎは見事ですし、登山帽の質問があればこその展開です。

東海道本線ダイヤ 1963年

「父は私を薬学専門学校へ進めるつもりで、私が頼んだわけでもなく、なぜか幼い頃からそのように私の進路は決まっていた」(「はたちが敗戦」/堀場清子編『ストッキングで歩くとき』たいまつ新書1978年)ということです。
自分の行く末にレールを敷かれ進路まで勝手に決められ、とらえようによってはまるで鋳型にはめられたように育てられながら、それでものり子が尊敬と愛着を保ち続けたのは父親にたっぷりの愛情を降りそそいでもらっていたことが根底にあるのだと思います。そして(スイスの大学に留学経験のある)父親には時代の先を見通す先見性があって理知的、リベラルであったのは大きかったでしょう。そしてそのことは行間からも横溢(おういつ)しています。

とはいえ父にたとえ大いなる尊敬を捧げていたとして表現はまるで聖人や守護神であるかのよう、でもそれはのり子が11歳で直面した母の死と無関係ではなかったはずです。
それは、自分の身体とこころの半分をつくった一方の愛しい母はすでになく、その後の多感な時期の依るべき己のアイデンティティのすべては父に向けて収斂(しゅうれん)していったということでもありましょう。

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「鱶に足を喰いちぎられたとか/農機具に手をまき込まれたとか/耳に虻が入って泣きわめくちび 交通事故/自殺未遂/腸捻転/破傷風/麻薬泥棒」。
この羅列、しかも「とか」のあとの体言と名詞の連続はのり子の真骨頂、(その後も練りに練ってゆくテクニックのひとつであると思われるが)この、それぞれが独特の空気を放つ語彙のたたみかけは見事です。

詩にあらわれるこれら生前の患者たちのことは開業前の勤務医時代の父から聞き及んでいたことだったか、あるいは医院を開業(診療科目は外科、耳鼻科、皮膚科)してからの、見聞きしたのり子のリアルだったでしょうか。
ただ開業はのり子16歳の11月はじめのこと、翌春には進学のために東京へ出るわけですから、実際にその現場に触れていたのはわずかなはずです。
とするとこれは、たまの帰省のときの団欒の中で父が語っていたものか、ともすると多くは葬儀のときに、弟とか継母とかあるいは勤めの看護婦とかから語られて知り得たことだったのかもしれません。この部分に誇張や脚色というものはないと思います。

そうしてのり子は、父・洪(ひろし)の、日夜ない獅子奮迅の、奉仕ごときの猛烈な働きぶりを列記し、そしてまた仁徳な人生に見合った葬儀への参列者の数々を書き留めるのです。

中でも、駆けつけた「すーやん」は特別です。
後藤正治が著した茨木のり子の評伝『清冽』(中央公論新社2014年)にこうあります。
「(すーやんは)実在の人物である。いわゆる知的障害者で、町の人が相手にしない中年女性であったが、居心地が良かったのであろう、宮崎医院の常連の“患者”であった」ということです。
「「先生、わたしゃおカネがないから病気になったらどうせなぁ」「大丈夫じゃ。スーヤンは三河名物のえびせんべいと同じで、この地の名物だからだれもほっときゃあせんよ」。診療室でのそんなやりとりを(看護婦の)岩川は耳にしている。宮崎の葬儀のさい、すーやんがやって来て号泣したことを(お手伝いの)岡田は覚えている」という記述は洪のひととなりを如実に示していると言えます。
※引用中の( )は本間の挿入

 

さようなら

そうして終局、「歳月はあなたとの別れの準備のために/おおかた費やされてきたように思われる/いい男だったわ お父さん/娘が捧げる一輪の花/生きている時言いたくて/言えなかった言葉です/棺のまわりに誰も居なくなったとき/私はそっと近づいて父の顔に頬をよせた」…、もうここまで来ると何をかいわんやです。

そして、亡き父を偲んで綴ったこの魅力的なひと塊りの最後の「さようなら」がとても重く響きます。
この「さようなら」は、自らの父恋の物語への惜別の言葉でもあったでしょう。
のり子はこの言葉を吐いて、本当に父にさようならを告げたのだと思います。
つまりのり子はこの最終的な別れの言葉「さようなら」を自分に対して吐くためにこの「花の名」を書き下ろした、それぐらいの重みがあったのではないでしょうか。

「旅は道づれというけれど いやあお蔭さんで
 楽しかったな じゃ お達者でね」
  東京駅のプラットフォームに登山帽がまったく
  紛れてしまったとき あ と叫ぶ
あのひとが指したのは辛夷の花ではなかったかしら
そうだ泰山木は六月の花
もう咲いていたというのなら辛夷の花
ああ なんといううわのそら
娘の頃に父はしきりに言ったものだ
「お前は馬鹿だ」
「お前は抜けている」
「お前は途方もない馬鹿だ」
リバガアゼでも詰め込むようにせっせと
世の中に出てみたら左程の馬鹿でもないことが
かなりはっきりしたけれど
あれは何を怖れていたのですか 父上よ
それにしても今日はほんとに一寸 馬鹿
かの登山帽の戦中派
花の名前の誤りを
何時 何処で どんな顔をして
気付いてくれることだろう

連のない詩形

「花の名」を俯瞰しつつふりかえります。

この詩の特徴のひとつは、連がないこと、連で構成していないこと、つまりひと息つくべき意味のくくりを独立して置かないところにあると思います。
これは、ひとくくりして次につなげたり、体言止めで小休止をたくさんつくって進むという茨木のり子の非常に多い詩形にしては異色です。

この作中の意味のくくりからすれば、たとえば「はかなさが十一月の風のようです/黙って行きたいのです」のあととか、「だから何者からかの御褒美ではなかったかしら」のあととか、「…子供は三人 あなたは?」のあととか、そして「吉良町のチエホフよ/さようなら」のあととか、普通はここに空白の一行を差しはさむところでしょう。けれどもそうはしなかった。

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それは、列車に乗って伝わってくる、そのガタゴトの揺れと振動が途切れることなく連続してリズムを刻んでゆく様を詩形に反映させたかったからだと思います。ちがうでしょうか。
ここからものり子は、本来は言葉の重要な属性であるはずなのにあまり意識されてはいない音(おん)や韻やリズムを大いに意識した詩人と言えるかもしれません。

 

父という故郷性

「今日はお日柄もよろしく……仲人なんて/照れるなあ あれ! 僕のモーニングの上に/どんどん荷物が ま いいや しかし/東京に住もうとは思わないなあ/ありゃ人間の住むとこじゃない/田舎じゃ誠意をもってつきあえば友達は/ジャカスカ出来るしねえ 僕は材木屋です/子供は三人 あなたは?」。

このしゃべりの部分に「東京に住もうとは思わないなあ/ありゃ人間の住むとこじゃない/田舎じゃ誠意をもってつきあえば友達は/ジャカスカ出来るしねえ」がありますが、これは登山帽が放ったことではあるけれども、一方登山帽が言ったことにしたのり子の内面の吐露のようにも私には感じます。

詩集『見えない配達夫』(飯塚書店1958年)に収録されている、夫の安信の妹をうたった「山の女に」の末尾にこうあります。
「たくましく/美しいイメージを貰ったことを/言葉すくないあなたに謝して/ふたたび狸よりひどいやつらの/うろつく街へ!/太陽も土も青菜も知らぬ鶏が/ただ食べられるためにだけ/陸続と生産される/悪い工場のある街だ!」

さらには、先にあげた「山小屋のスタンプ」にこんなくだりもあります。
「山にきて/私は私をとりもどしました/街はなぜか/私を塵あくたのように惨めにします」。

都会にはなじめない、東京は住まいでありながら好きになれない、それがのり子の常のスタンスだったのではなかったでしょうか。

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そしてのり子は、大岡信との対談(「美しい言葉を求めて」『花神ブックス1 茨木のり子』花神社1985年)でこんな発言をしています。
茨木「(吉良吉田は、)大岡さんが三島でお育ちになった、という形で根付いた感じはなくて、やはりよそ者的だった」。
大岡「よそ者というよりお嬢さんでしょう。(父親が教師で、短歌雑誌の主宰などしていたものだから)生まれてずっとそこで育った土地であるにもかかわらず、ぼく自身も他の連中から別扱いされて、居心地は時にしっくりしませんでした。多分茨木さんの場合もはっきりとそれがあったんだと思う」。
※引用中の( )は本間の挿入

以上、東京にはなじめない、都会は腹黒い者たちの町…、そうして自らの住む場所を外化(己の包摂の範囲から意図して切り離す)しつつ、一方、少女期を過ごした西尾や吉良吉田はどうかと言えば、医者の娘であるがゆえか本意にあらず浮いてしまいがちだった(疎外感さえ抱いた)のり子にとっては帰り着くことのできる場所ではない。ゆえに父親の存在というのは安心して戻ることのできる唯一の故郷性であったということ、死は、その故郷性さえ失ってしまったということでもあると思うのです。

 

「花の名」の着想

のり子にとって父・洪の死という大きな喪失をテーマにいつかは作品として書き上げたいという思いはいつもあったと思います。それは文学者の常、詩人としては必然だったでしょう。
けれども見送ったときの1963年は死という事実があまりに重く受け入れがたく筆をとれずじまいだったはず。それを証明するように、63年の4月以降その年というのは創作意欲が湧かなかったようで、(たぶん)頼まれものの詩を4篇ほど書いているきりです。
1年して64年も書きたい思いは強くなってもまだうまく構成することができなかった、よってたくさんの素材を甕(かめ)に入れ、思い切り塩を振って漬け込んで眠らせていたのだと思います。

そうして月日が流れて、ふと思いついた大きなひとつは、帰路に居合わせた陽気な登山帽のこと、どこまでもおめでたいほどに陽気な彼の登場によって、死というものの重さが逆に際立つことを意識したのです。
つまり、色彩の円環のなかで緑ならその反対の赤を引き立てるように、赤は緑をフロント(前面)に押し出す、この対照的な反対色が詩のモチーフ足りうると。

タイサンボク web
ホオノキ
ハクモクレン web
タムシバ

さらに思いついた大きなひとつは、花の「白」だったでしょう。
この白を思いついたとき、のり子は膝を打って、「ヤッター!」と快哉(かいさい)を叫んだのではないでしょうか。これでようやく、父の弔いの作品ができると。これなら、まとめることができると。
だからこそ、泰山木を引き合いにし辛夷を登場させた、この花の白こそが詩の真のモチーフになりえたのです。

コブシ

そうして詩をもう一度見直すとき、圧倒的な泰山木と辛夷の白は進行をさかのぼって最初の、「浜松は…」から霧のように降りかかってきます。
ガタゴト進む列車の中の会話に降りかかり、父とのかけがえのない思い出や葬儀の様子に降りかかり、そして桜の赤と海の青にも降りかかり、最後の東京駅でのシーンにも降りかかっている…。
そこに見えてくる幻想的なうすぼんやりの白っぽい情景の数々…。
つまり「花の名」は死をテーマとするゆえに、白い情景を醸したあくまでも白い詩だということなのです。

 

「やまなし」との花

ここで話をそらすようですが、宮澤賢治の最も知られている童話のひとつ「やまなし」に触れてみます。
「やまなし」は5月と11月(新聞掲載には「十二月」とあるけれども草稿は「十一月」で、「十二月」は誤植ではないかという指摘がある)の谷川でくりひろげられる蟹の兄弟と父親の物語です。

その5月のこと、かわせみが弾丸のようにして川面に突っ込んで魚を捕らえ、その魚は蟹の兄弟たちの前から一瞬にして消えてしまいます。そして、怖くて居すくまる子どもを前にして父親が言うのです。「大丈夫だ、安心しろ。おれたちはかまわないんだから」と。そして、「大丈夫だ。心配するな。そら、樺の花が流れて来た。ごらん、きれいだろう」と。

ここの樺はシラカンバ(白樺)などのカバノキ属ではなくて(角館で有名な樺細工の)山桜のこと、それはたくさんな流れくる白い山桜の花びらです(賢治があえて花の色に純白を求めていたのなら、その山桜はミヤマザクラ/深山桜だろう)。

怖れや脅えから救うために美しいという価値の対置は重要で、そこでばかり人は安らかになれる、と賢治は言うのです。

そしてこの場面は昆虫などの生き物を魚が捕えて食べて殺し、その魚をかわせみが啄んで食べてしまったこと、つまりは、生まれる-食う-生きる-食われる―腹を満たす―生きる―死ぬという、生命の一連の循環の中の、食われ殺され死んでいった者の一切の葬送の象徴が山桜の白い花びらだったということになるわけです。

そういう意味で、この「花の名」は「やまなし」にかぶります。

悲しみに大いに対置されるべく清く美しいものとしての白い花、そして葬送と別れを象徴するところの白、この圧倒的な白を演出するためにのり子は、まずは泰山木と辛夷を主役として選び、重要な登場者の登山帽の男性をアンカー(進行役)に据え、父の数々の患者たちと葬儀への魅力的な参列者たち、そして赤い桜も青い海も、東海道本線の準急列車東海2号をも小道具として総動員してつくりあげた、それが「花の名」でした。

詩の最後は、登山帽に伝えた「泰山木は六月の花」、「もう咲いていたというのなら辛夷の花」として自分の誤りに気づく場面です。そしてここにも去来する父を登場させています。
それは、もう叶わないことが分かっていつつも、「間違ったことをひとに教えちゃならん。物事はもっと慎重に伝えなきゃならん」と、自分は少女にかえって甘えながらも父に叱ってほしかったという未練でした。

少しの未練を最後に置いて「花の名」をしめくくり、のり子は先に進んだのです。

これが私の「花の名」の解題です。

浄禅寺山門
三浦家の墓

ところで茨木ならぬ三浦のり子さん、「虎のように泣い」(「はたちが敗戦」)て悲しんだ夫の安信さんの死去、その安信さんが入ったお墓…、そして続いてあなたが入った山形県鶴岡は加茂の浄禅寺の三浦家の素朴な墓を私は何度か訪ねています。
そしてその両脇に、(どなたが植栽されたものか)ふさふさの剣様のみどりの葉の中に垂れ下がる純白の花が美しく咲いているのですが、それは調べるとノシラン(熨斗蘭/キジカクシ科ジャノヒゲ属)というものでした。
あなたは気に留めていたでしょうか、その花の名、知っていましたか。

それからノシランは、春の匂いのする3月には宝石のように美しい青い実をつけます。その実はまるであなたの人生を思わせるかのよう、これはきっと、見てはいませんよね。

この稿を書き進めるにあたっては、「茨木のり子六月の会」の事務局長の戸村雅子さん、それから三浦家菩提寺の浄禅寺ご住職夫人の西方祥子さんに多くのお話を頂戴した。ここに感謝の意を表します。

〈了〉

 

以上は、「茨木のり子 六月の会」(代表;黒羽根洋司)会報第93号(2023年2月)から96号(同年8月)にわたって連載したものです。
signal版にあたり、新たな写真を多く挿入しました。本篇に修正を加えたところもあります。

最後に、筆者が茨木のり子さんから生前に頂戴していたたよりを紹介しておきます。

それでは、本日はこのへんで。
じゃあまた、バイバイ!

 

※写真のクレジットの“web”があるものは、web上からの借用です。それ以外は筆者の撮影もしくは友人知人から提供を受けたものです。

※本文に割り込んでいる写真はサムネイル判で表示されています。これは本来のタテヨコの比から左右または上下が切られている状態です。写真はクリックすると拡大し、本来の比の画像が得られます。