季節は移ろい、今はもう10月も半ば。高い山では紅葉まっ盛りというところでしょうか。
筆者が秋分あたりに登った月山も、今はもうすっかり紅く染まっていることでしょう。
紅葉とくればそれはキノコの季節でもある。でも今年はまったくの不作のようです。
筆者の散歩コースの鑑山(松茸山)ですれちがったキノコ採りにハケゴ(腰かご)の中を見せてもらえば、お目当てのマツタケ(松茸)はおろか定番のシメジ(湿地)もイグチ(猪口。具体的にはアミタケ/網茸)もさっぱりで、サキアカ(先赤。=ホウキタケ/箒茸)がわずかあるきりでした。
キノコ採りは、「これからどうなるかだけど、まず今年は夏が異様に暑かったし、いまだあまり寒くないから(キノコは)出れないのかもな。歩いててもキノコの匂いがさっぱりしねし。今年は不作」と、半ばあきれ顔の様子でした。
と、我が家の隣接の林の入り口に、何とも貴重なセンボンシメジ(千本湿地。=シャカシメジ/釈迦湿地)が出ているではないですか。
いつもは出るはずのサクラシメジ(桜湿地)やニセアブラシメジ(偽油湿地)やナラタケ(楢茸)やタマゴタケ(卵茸)がさっぱりだというのに(いずれもすばらしい食菌です)どうしたというんだろう。菌というのは本当に不思議なものです。
もうかれこれ15年ぶりぐらいのご対面です(笑い)。
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さてここ3、4年のことだけど、心に引っかかりを覚えていたのは材料小屋の解体のことでした。
今回のsignalはこの小屋の解体に焦点を当てようと思います。題して「材料小屋を解体す」。
引っかかりを覚えていたというのは、今後のために材料を保管する必要があるのは変わりはないのだけれど、この小屋を雪から守るためにこれまでたいへんな思いをしてきており、それを考えるとここらで解体し、材料の保管は別の方法にしたいと思えてきていたのです。
そもそもなぜ、雪から材料小屋を守ることがたいへんなのか。
それは小屋の前をクルマが通れるほどの道幅を確保しようと斜面(実際は近くの天王川の河岸段丘)の際(きわ)ぎりぎりに建てたがために、雪の排出が非常にむずかしいからです。
屋根の裏側の雪をそのまま裏に放れば雪はすぐにも屋根より高くなるばかり。そこに除雪機は入ることはできません。したがって裏の雪は反対の通路側に持ってこなければなりません。
スコップ(石炭アルミスコップ)でつついて雪を小分けにし、それをスノーダンプでいちいち運んで通路に出す、そしてこれをくりかえす…、これは口で言うほど簡単なことではありません。
ここは豪雪地帯。
下は、雪で埋もれ、屋根のトップのわずかな三角だけが出ている材料小屋。
小屋の雪下ろし(もうこうなると、雪掘りの方が正しいですね)をするために除雪機で切ったアプローチ。
もう積雪の限界と見て、吹雪の中で作業をする相棒のヨーコさん。
お疲れ!
筆者はこの下で除雪機を動かしてまわりをはきながら運ばれる雪を待ち受けています。
そもそも材料小屋を作ろうとしたのは、我が家の冬の暖房は薪ストーブを主とするために薪の確保が不可欠で、大量の薪を確保して保管する場所がこれまた不可欠、よって薪の保管のための薪小屋を作る必要がでてきたのです。
町場からこちらに引っ越したのは1993年11月のこと、3、4年もすれば地区に知り合いも増えてきて、中には(小屋を自分で作りたがっている)筆者に材料を提供してあげようという方も現れたのでした。
当時地区には産業廃棄物の焼却施設があって、そこにお勤めのふたりがまだ十分に使える材料が搬入されるとよく声をかけてくれたのです。とてもありがたいことでした。
そうして、(買えばとんでもない金額になるだろう)材料を欠くことなくストックできるようになりました。けれども今度は、それを保管する場所(材料小屋)が必要になったというわけです。
以上は、何かひとつを為すためには、付随してふたつ、みっつ、よっつのことも芋づる式に必要になってくるというよい例です。順序よく片づけてゆかなければ、目的達成には至りません。
何かひとつをあらたにつくって為す…、実はこれはたいへんなことですよね。
(以上は、ないところから何かをあらたにつくるという気持ちのないひとには関わりのないこと。それから、実現のためにすぐに金を用立てすることばかりを考えるひとには関わりのうすいことだと思います)。
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そうして、材料小屋の建設に取り組んだのは1998年の8月のことでした。
建築中の小屋に子どもたちも登ってきて、パチリ。
材料は古材には見えないと思うけど、これは古材を挽き割ったり化粧(カンナがけ)をしたりして材料の1本1本を吟味して整えたための映りです。
小屋が出来上がって、ストックした材料を収納したところ。
筆者にしたら、これは宝の山に相当します。うっとりする光景です。
以下は我が家の、4つの薪ストーブ。
主屋のリビングのもの。
ヒュッテ(ルーザ・ヒュッテ)のもの。
そして、工房のもの。
材料のストックがあってはじめてつくることができた薪小屋2棟。
1棟目は1998年の作、材料小屋をつくってひき続いての造作です。なおこれは、昨年に別の用途のために解体したものです。
通称はクマ小屋、クマの絵の金属プレート(北海道みやげの“熊出没注意”)をつけていたための呼び名でした。
薪小屋ができるまでの5年という歳月は、薪を軒下に積んだり、野外に積んでトタンやシートをかけて雨や雪から守ったりとそれはそれは苦労の連続でした。
下は、2棟目の薪小屋。1999年の作です。
通称はキツネ小屋、これも上と同様の理由です。
下は我が家の全体の様子。
息子の友人がドローンを飛ばして撮ってくれたもの。2016年夏のことです。
左上が材料小屋です。
左下がクマ小屋、主屋の妻側(棟に対して直角に面したところ)に重なっているように見えるのがキツネ小屋です。
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材料小屋を解体したいと思ってもなかなか踏ん切りがつかなかったのは、小屋に満載の材料をどうしたものかよいアイデアがなかなか浮かばなかったからです。
下は、小屋から引き出した材料の一部。シートの下にも大量にあります。
今後に必要なものと不要なものとを分け、不要なものは徹底して刻んで焚きつけ用の薪にしました。
そうしてあらたな収納先として準備したひとつが、主屋の下屋(げや)の棚に仕切りを入れて従来の4段から6段としたこと。
ここにはドアリラを主とした工芸の仕事となるナラ(楢)やサクラ(桜)やクリ(栗)などの広葉樹の材料を整理して仕舞いました。
ここに元あった不要と思われるもの(結構ここにもつまらない材料がたくさん突っ込んであった)は、徹底して刻んで薪としてくくりました。
準備したもうひとつは、昨年新築したリス小屋、その左部分です。
ここは建物など大がかりな造作のための材料を保管していますが、この余分なスペースに材料小屋の(建築用の)残すべき材を収納しました。
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この材料小屋は、建築の経験も知識も何もなかった筆者が一生懸命に考えて取り組んだ記念すべき第1号の建築物でした。当然愛着があります。
そしてそれは同時に今では建築のセオリーから外れていることもずいぶんあったことが分かるもので、なつかしい思いにさせてもくれました。
建築のセオリーから外れている…、
まずその第1は、先ほども触れた設置場所。
小屋は、除雪のことを考えると斜面の際(きわ)に建ててはいけないのですが、これは思いっきり際ぎりぎりです。すくなくとも除雪機が周囲を回れる程度の余裕が必要でした。
筆者は当時、(様々な情報を組み合わせて)先のことを見通すことができなかったのです。
第2に、屋根の形状。
屋根の形状というのはその土地の様々な環境や条件によって決まってくるものですが、片側が道で片側がスペースに余裕がない場合は、山型屋根ではなくてせめて片屋根(片流れ屋根)にしなければなりませんでした。
第3に、屋根の勾配(こうばい)。
今回、解体する段になってあらためて気づいたのは、屋根で作業をするには勾配が急すぎました。
建築用語でいえば、この小屋の角度は“4寸勾配”(21.8度)くらいでしょうか。
屋根の上での作業を考えるなら、せめて“3寸勾配”(16.7度)ぐらいにすべきでした。
今回屋根に上ってトタンをはがしたり野地板に丸ノコの刃を入れたのですが、急勾配のために足場が不安定で怖く、命綱を握っての作業となりました。
どっと疲れました。
第4に、“尺”(しゃく)という日本古来の、しかも現在でも実際に使われる単位を無視したこと。
筆者は余裕をもって材料を保管したく思って、単位を通常の3尺(約91センチ)ではなく100センチにしたのです。
ところが古材で木取りと刻みをはじめると、余分なものがたくさん出るとともに必要な長さがなかなか取れないことがそのうちに分かりました。実に不経済なのです。当然ながら、古材はすべて尺を基準に成り立っていたのです。
第5に、継手・仕口の仕方が分からないままつくったこと。
材料と材料の接続やつなぎにホゾ穴をこしらえホゾを切って差し込むぐらいは知っていましたが、“大入れ”とか“アリ継ぎ”などは後に徐々に学んでいったことです。
したがって当時は、ホゾを組む以外はほとんどが“相欠き”(合わせる材料の半分ずつを欠いて組む)をしたのでした。棟(むね)や軒桁(のきげた)などの大物の継ぎも相欠きで済ませていました。
これでは構造に響きます。
第6に、柱と桁と束(つか。梁と母屋をつなぐ脚)の関係が分かっていなかったこと。
筆者は当時、和小屋建築のそれぞれの部位の役目と基本の構造が分かってはいませんでした。
束を省略する形で柱を梁と相欠きして組んで伸ばして、棟を支えていました。
第7に、“火打ち”や“頬杖”などの斜め材の取りつけ。
火打ちや頬杖はいくらかでも構造を頑丈にしようとした結果ですが、今見るとひとつひとつがとてもチャチで、接続も“芋継ぎ”(面と面を合わせて、ただ釘打ちで固定)で、入れた箇所も適切ではありませんでした。
解体して分かったことですが、以上のひとつひとつの組みや継ぎに接着剤を入れていたのです。
組みや継ぎのために接着剤に頼るなんて、邪道です(笑い)。
ひとつひとつを見ていくと当時のことが思い出され、その発想の幼さや甘さが目につくことが多いのですが、それゆえに逆にいとおしささえ感じたのも確かなことでした。
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さて、いよいよ解体の段になりました。
まずは手はじめに、屋根の波トタン板をはがしました。
棟(トップ)には本当は下地の木材にトタンをかぶせた笠木(かさぎ)という山型状のものを載せるものですが、当時はそんなことは知りませんでした。
それでどうしたのかといえば…、
波トタンの切れ端をハンマーで叩いてある程度の凹凸を取り、約200メートル先のアスファルトの道路まで出てクルマを前後させてタイヤで何度も伸(の)してようやく平らなトタンに仕上げ、それを山に折って棟にかぶせていました。
この努力、涙ぐましいです(笑い)。
はがしたトタンを1カ所に集めました。
トタン釘が散乱してはたいへんと、自作の磁石棒を使ってできるだけ回収しました。これは結構重宝します。
なお、この磁石は不要のスピーカーから取り出したものです。
不完全で不十分な躯体(くたい)のこと、屋根に上がってみるとただそれだけでゆらゆらするのでした。
それで、妻側に筋かいを入れて構造を強固にしてから作業を進めました。
大きな三角形をつくると、躯体は見ちがえるように強くなります。
トタンをはがすと、本来はあるべきルーフィング(防水アスファルト紙)がありませんでした。これも知らなかったことです。
屋根の野地板を一枚一枚はがすには屋根が急で危険であることと、今後のために板を取っておく必要性も感じられず、さらには作業の効率化を考えて、タルキ(垂木)ごとに丸ノコの刃を入れて切り落としました。
野地板は普通4分板(12ミリ厚)を使うものですが、ここに使っていたのは18ミリほどもあってもったいない気はしましたが能率を優先して切りました。
棟と一方の桁はチェンソーで切り落としました。
これも能率を優先したためです。
屋根部分のタルキを取り除けば、あとはどうってことはないです。
さらに倒しやすいように、すべての金物(カスガイ)を抜きました。
カスガイを抜いたので、あとは柱をカケヤ(掛矢。大きな木槌)で思いきりぶっ叩たけばバタリと倒れます。
柱や桁などの長材を集め、1本1本ていねいに釘を抜きました。
材料として残しておくものと、刻んで薪にするものを仕分けました。
場所があまり日の当たらない湿っぽいところであったため材料の質は落ちており、今後に使える材料はごくわずかと判断しました(右側のもの)。
不要な角材を刻んで、薪にしました。
切り落とした野地板をくくったものは、主屋西の妻側に積み上げました。
角材の切り落としを、ベランダの手すりの高さいっぱいに積み上げました。
下は、ベランダの、積み上げた角材の端の部分。
積み上げた角材の端だけは傾斜をつけながら一部直角に交差しているのが分かるでしょうか。
同じ長さのものを高く積む場合は、筆者は端に何か棒とか支えがなければ崩れてしまうと考えていました。けれどもこの端のように一部を傾斜をつけて直交させるだけで止まることを学んだのは、樹木の伐り出し現場の木材の積み方を見てのことでした。
ハッとしました。すばらしい知恵だと思いました。
この積み方は、その応用です。
はがしたトタンは今後何かと使えるもの、一時的に建物のすき間にスッポリと収納しました。
解体で出た釘がズブズブのタルキは隣接の林の中の炉にく(焼)べました。
焚火のかたわら、ビールを片手にずーっと炎を眺めていました(笑い)。
炎は何かしらを語りかけてくるもので、見ていて飽きないものです。
炉が冷えてから、釘を磁石で回収しました。
これはまとめて廃品業者に鉄くずとして出すことにします。
基礎にしていたコンクリート板と基本ブロックを土の中から掘り出しました。
思い出したけれども、この土地に小屋を建てようとして、まずは“振動ランマー”の代わりにクルマで何度も切り返して前後して地固めをしたものでした。
そんなところに基本ブロックふたつずつを8カ所に置いて(その上にコンクリート板を載せて)基礎としたのですが、築24年して建物に歪みが起きていなかったことを考えても、この下準備は誤りではなかったと思います。
今なら、セメント使いでコンクリートを打って基礎をつくるところではありますが。
掘り起こした基本ブロック。
ブロックの穴に木の根やササ(笹)の地下茎が入り込んでいて、ブロックの掘り起こしは意外にしぶとく疲れました。
ブロックをきれいに洗って1カ所にまとめて収納しました。
こうすると、次回の何らかの機会にもすぐに使うことができます。
*
さあて、大きな仕事が終わりました。
これでようやく、ルーザの森クラフト本来の製作ができる日がきました。
この秋から冬、冬から雪が解けるまでの約6カ月という日々は、工芸の製作に没頭できそうです。とてもうれしいです。
そして、来年2023年秋こそは5年ぶりとなる展示会(ルーザの森クラフト展、現地にて)を開催したいと思っています。
その前に、6月には会津三島の全国的なクラフトフェアである“工人祭り”でデビューをしたいと望んでいます。
筆者の今後の目標は明確、ワクワクします。
本日はこのへんで。
それじゃあ、また。
バイバイ!
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