山歩き

月山の秋を行く

冬を前にして、懸案であった薪づくりもようやくのこと終了しました。ずいぶんと時間を費やしました。
やれやれです、ひと息です。

下は、懇意にしている栗園から頼まれ、枯れてしまったクリを伐り倒して大まかに刻んだもの。
軽トラの荷台満載で立ち木1本分です。9月に入ってこれを2回運びました。
こんな価値あるものがタダでいただけるのですからありがたいことです。

上の薪材もあって、もうひとつの薪小屋と合わせリス小屋の下屋(げや)の薪スペースはほぼ満杯となりました。
もう少しだけ入るけど、大工仕事で出た端材などを刻んで収納すれば余裕はそのうちなくなるでしょう。
この、薪が積みあがる景色はいつもながら満ち足りた思いにさせてくれるものです。

ここで休暇です。
紅葉の山を歩きたいなあと思いました。月山がいいかなと。
それは、かねてより気になっていた月山山中の営業小屋である佛生池小屋(ぶっしょういけごや)に泊ってみたかったこと、その小屋はこの(9月)25日にも今期の営業を終えるのだけれど幸運にも22日の予約が取れたこと、紅葉は20日過ぎあたりからはじまるらしいこと、山登りとは別に月山に近い鶴岡での用事があること等々も考えてのことでした。
気になる天気予報も、山歩きの日は何とかもちそうで。
ということで今回のsignalは、月山の山行のこと、題して「月山の秋を行く」です。

事前に思い描いた行程は…、次の通り。
21日、月山道(国道112号)を経由、月山高原ライン(県道211号)にて月山8合目駐車場。(軽トラ)テント泊。
22日、早朝に山歩き開始、頂上より折り返して(9合目)佛生池小屋泊。
23日、早朝に下山して、鶴岡の知人宅へ。詩人の茨木のり子墓前ののち山北(さんぽく。現在は新潟県村上市)の海でテント泊または民宿泊。
24日、坂町経由で帰宅。

月山高原ラインに入り、6合目に美しく咲いていたヤマトリカブト(山鳥兜/キンポウゲ科トリカブト属)。
何とも美しいあざやかな青です。
とはいえトリカブトは保険金殺人事件(1986年)を思い出させるごとく、日本三大猛毒植物のひとつ。気をつけつたい植物です。
ちなみに他は、ドクゼリ(毒芹)とドクウツギ(毒空木)です。
ドクウツギは裏磐梯でよく見かけます。

ナナカマド(七竈/バラ科ナナカマド属)の実が赤く色づいていました。

月山高原ラインの通る月山北麓の植生の特徴は、裾野をブナ林がおおい、それは森林限界の8合目まで矮小(わいしょう)化しながら続いていることだと思います。
つまり、蔵王や吾妻などに見られるオオシラビソ(大白檜曽。別名アオモリトドマツ/青森椴松)やコメツガ(米栂)などの針葉樹林帯が省略されているのです。どうしてだかは分かりません。

沿道のブナ(山毛欅/ブナ科ブナ属)の実がたわわに実っていました。
この分だと今秋のクマは食べ物に不足はないのではないかと思います。

美しいブナ林を縫うようにして進む高原ライン。

終点の月山8合目駐車場に着きました。標高は1,390メートル。
米沢から昼食をはさんで4時間ほどはかかったでしょうか。
筆者のクルマは(月山八合目碑のある)レストハウスとトイレが近い西の端に停めました。

夕暮れまでにはまだ十分な時間があって、8合目からすぐ上に広がる弥陀ヶ原(みだがはら)湿原を散策することにしました。
湿原は木道が整備されていて、池塘(ちとう)をめぐる周回コースは所要時間にして約1時間あまりの気軽なハイキングという感じです。


筆者にとっては初めての弥陀ヶ原湿原、秋色に染まったヌマガヤ(沼茅/イネ科ヌマガヤ属)と点在する池塘の美しさに心奪われてしまいました。
実に美しい。この風景を見れただけでも来てよかったと思いました。

一面を黄色で染め上げただろうキンコウカ(金光花/キンコウカ科キンコウカ属)も飴色の絨毯(じゅうたん)となって。

南方向の月山を背景として。

木道わきの、名残りのエゾオヤマリンドウ(蝦夷御山竜胆/リンドウ科リンドウ属)。
湿原をおおう飴色の風景にあって、エゾオヤマリンドウの青が美しく映えます。
花屋で売っているリンドウは、このエゾオヤマリンドウの母種のエゾリンドウ(蝦夷竜胆)を元にしてつくったものとか。
エゾリンドウは茎のあちこちに花がつきますが、エゾオヤマリンドウは写真のように頂上部にのみ花をつけます。
ただし天元台などの大群落では、そうとも言えない株がたくさん見受けられるのですが。
なお、この花の南限は吾妻連峰です。

池塘が夕暮れ前の青空を映して。

日が西に傾いて。

夏の名残りの黄色をかすかにとどめて、一面のキンコウカの原。
花の時期にはヒナザクラ(雛桜=西吾妻が南限)やトキソウ(朱鷺草)やミヤマリンドウ(深山竜胆)、それから希少なオゼコウホネ(尾瀬河骨)も咲くのだとか。
それはそれで楽しい湿原歩きを想像しました。

御田原参籠所(みだがはらさんろうじょ)の敷地に建つ、月山登山の本来の登り口である鳥居。
ここで行者たちが身なりを整えて白装束となり、出発していきます。
そしてここは、身体が思うように動かず山頂まで行くことができないひとのための、遥拝(ようはい)の場所でもあるらし。

クルマは最初は西側に停めましたがトイレやレストハウスのための(?)自家発電の音が耳障りで、これでは眠りに支障が出ると察して、逆の東側の端に移動しました。

ものの数分でテントの設営完了です。
本日はここで寝ます。

(自分で言うのもなんだけど)軽トラテントは駐車スペースがそのままテントサイトになるという画期的なものです。
ネットでは軽トラをキャンピングカーに仕立てる造作がもてはやされているようだけど、一旦設置してしまって、その造作物を下ろしてまた軽トラの機能を回復するというのは容易ではないことは明らか。その造作物の保管もたいへんそうです。
筆者の造作の基本は機能の充実と合理性なので、後先を考えないところには向かいません。

テントを設営し終え、さてと、レストハウスに水をもらいにいこうとしたのですが、これが大きな誤算でした。
なにがしかの買い物もしたのでこころよく分けてもらえるものと思いきや、店員は困ったという顔をするのです。
ここでは水は貴重なもの、食堂では水(雪解け水のしみ出たもの?ためた雨水?)を煮沸して使っている、わずかならあげられるけど、と言うのでした。それでヤカンから分けていただいたのが中央のボトルの700ミリリットルほどの量でした。
筆者はレストランを営業しているくらいだから、蛇口をひねれば水はいくらでもあると思っていたのです。
これから夕食や翌日の朝食と昼食のこともあるし、山登りでは飲み水は必携、700ミリほどではとても間に合いそうもありません。失敗です。
それで仕方なく自動販売機から500ミリリットルペットボトル(200円)の水を2本購入することにしたのでした。

月山は登り口も含め主要登山ルート上に使える水がない。これはよい勉強になりました。
それにしても池塘が点在する高層湿原を擁(よう)し、まれに見る豪雪の山域だというのに水がないとはどういうことなんだろう。不思議といえば不思議なことです。

8合目からの眺望は少々ガスがかかっていましたがすばらしかったです。
夕闇が迫ってきて美しい景色が広がりはじめました。うっとりする時間が過ぎていきます。
眼下には酒田の町と日本海、それに真北方向には雄々しき鳥海山がそびえていました。
実に感動的でした。

下は、翌朝の5時半頃。
早朝にしてクルマは20台以上はあったと思います。
こんなにクルマがあるけど3分の1は車中泊、3分の1は夜中に来て仮眠しつつ早朝登山に備える者、残りの3分の1は山中の小屋に泊っているひとだと思います。いろいろです。

夜分は満天の星、冴え冴えとした空にカシオペヤや北斗七星、それになじみの北極星がとても美しかったです。
それだから朝方はとても冷えて9℃ぐらい。
でもテントの中ではシュラフをふたつ使っての防寒対策をしていましたのですこぶる快適でした。

下の写真は1982年6月下旬のこと、今からちょうど40年前のワタクシです。
職場で3日ほどの連続した休暇があって、それならと山に行こうと思ったのです。
山登りの記念すべき第1歩が実はこの月山、やはり同じ8合目から歩いたときのものです。実になつかしいです。
でも、ベートーベンや宮澤賢治ばりのカッコつけたこの写真はなんだろう(笑い)。
こんなものをひとに頼んで撮ってもらうわけはないので、きっとセルフかと思います。

これを見ると、リュックは学生時代に北海道をめぐっていたときのもの、ミズノ製の背負子式アルミフレームパックです。
学生時分は当然貧乏旅行、そのためにはテントとシュラフが必須でその他さまざまな荷物を入れるにはこの背負子式リュックが機能的であり最適だったのです。
バイト代をためて買ったと思うけど、(当時の金額で1万円ほどだったろうか)高価だったと思います。
今の山登りからしたらこの大きさはもはや不都合ですが、このリュックには大切な思い出がつまっており、今も我がヒュッテ(私設の山小屋=ルーザヒュッテ)にディスプレーしてあります。

実はこの時はまだ、恐ろしいことには登山靴ではなくスニーカー、服装も何の気なしの綿製品ばかり。要するに気持ちばかりが先走って、まったく装備不十分な山デビューでした。
頂上を越えて姥沢方面に下りたのはいいもののそこは濃いガスの中の雪野原で、道に迷ってふと気がついた時には目の前にクレバスがあったのでした。今思えば恐怖です。
そのうちスキー場のリフトの音がして胸をなでおろして下山したのでした。

下は、2006年8月の月山。
相棒とふたりで行ったときのもの。このときは西川町の姥沢側からのコースでした。
このときです、月山というのは全山が花の山なんだと思い知らされたのは。

ということで今回の月山は、16年ぶりの3回目ということになります。

徐々に高度を上げてふりかえれば、いつも鳥海山が目の前なのです。

月山と鳥海山のピークを直線距離で結べばちょうど60キロ。
この距離なら、すぐそこという感じです。

一の岳(1,670メートル)から望む鳥海山。
あたりには遠い昔の、爆発していた火山の大きな噴石がゴロゴロです。

オモワシ山(1,828メートル)あたりからふりかえって見る佛生池小屋。

ふりかえればここにも鳥海山。

池塘群が眼下に。 向かうは月山頂上。
ここらは大峰というあたりで、身を隠す場所のないところにして台風かと思われるようなものすごい風が吹いていました。
足元おぼつかなく、不覚にもよろけること2回(笑い)。
強風がため、オモワシ山あたりで引き返す登山者も何人かいたみたいでした。

例年と比べて紅葉の進行はずいぶんと遅いようだけど、部分部分でははじまっていました。
月山の紅葉の主役のミネカエデ(峰楓/ムクロジ科カエデ属)です。
このみどりと赤が混じる美しい色合いはまるでセザンヌばりです。

 

名残りのハクサンイチゲ(白山一華/キンポウゲ科イチリンソウ属)が咲いていました。

ハクサンフウロ(白山風露/フウロソウ科フウロソウ属)の葉が色づいていました。
チングルマ(稚児車)同様、葉の色はこれからどんどんと変化ししまいには得(え)も言われぬ臙脂(えんじ)味の入る深い赤に変わっていくようです。

頂上近くで行者たちに出会いました。
修験道の世界は分からないけれども、山と一体になって己を見つめるというのが基本なのでしょうか。

月山頂上(1,979メートル)近くに建つ月山神社。

佛生池小屋に至る手前だったでしょうか、見慣れた顔だと思ったら何とまあ、アリョーナさんではないですか。
少々、ビックリしました。
普段、youtubeで山登りレポートをアップしている彼女が急に目の前に現れたのですから。
ロシア出身の彼女は日本語が(ともすれば平均的な日本人以上に)堪能(たんのう)。
昨夜は月山山頂小屋に宿泊しての下山とのことでした。
「また、山のレポートを楽しみにしています」。
「バーイ!」。
もう会うことはないだろうな。

山頂付近での記念のスナップ。
途中地元酒田のTさんとご一緒したのですが、その彼に撮ってもらいました。
Tさんは、今年になってもう8度目の月山登頂とのこと。時間が取れれば登っているようです。
「このあたりにクロユリ(黒百合)が咲くのです」。
まだ見ぬ実際のクロユリをいつか是非この目で見てみたいものです。

オモワシ山を前景に置いて、鳥海山を撮るTさん。
Tさんは月山が好きというよりも、月山から見る鳥海山の姿に魅せられているとのことです。

いろいろとガイドしてくださいました。
「今年の紅葉はものすごく遅いです。本当はこの時期、佛生池小屋から上というのは真っ赤になるのです」。
「あれが最上川の河口です。立谷沢川と合流しているのがよく分かります」。

「鳥海山の左奥に見えるのが男鹿半島。島影は粟島、その左が佐渡です。夏は霧がかかってほとんで見えないですが、今日はラッキーですよ」。
月山からの眺望はもう何をかいわんやです。佐渡から男鹿までが箱庭になってしまうのですから。

八日、月山にのぼる。木綿(ゆう)しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力(ごうりき)と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関(うんかん)に入かとあやしまれ、息絶身こごえて頂上に到れば、日没て月顕る。笹を鋪(しき)、篠(しの)を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。
松尾芭蕉『奥の細道』より
※木綿しめ:修験袈裟、月山への入山装束
※日月行道の雲関に入かとあやしまれ:太陽や月への途中の雲の中に入っていくのではないかと危ぶみ

時は元禄2年6月6日(西暦1689年太陽暦7月22日)、芭蕉は曽良をともない装束を整えて羽黒山を出発、7合目の高清水までは馬の助けを借り(途中、掛け茶屋に泊ったのだろう)、その後は強力に(荷物を背負ってもらって)導かれて頂上をめざしたといいます。そしていったん湯殿山までおり、また月山山頂まで引き返して羽黒に戻ったということです。
「氷雪を踏てのぼる事八里」とはまだ残る雪渓を踏みしめて約32キロを歩いたということでしょう。何という健脚だろう。
50歳でこの世を去った芭蕉はこのとき45歳。
当時の月山行は今では考えられないほどの不十分な装備と難儀な行程であったはず、何がそんなに芭蕉を月山に駆り立てたというのでしょう。
そうして詠んだのが次の句です。詠むというのはある意味、格闘のような気がしてきます。

雲の峯いくつ崩れて月の山

芭蕉の句は下の風景に通じているかもしれない。
下山後、6合目から見上げた月山。

頂上より折り返して、佛生池小屋に着きました。
東北の高山の山中にあって食事を出す営業小屋というのはとてもめずらしく(鳥海山の山小屋も同様)、そういうことでの興味があったのは事実。
東北を中心に登っている筆者は営業小屋というものをあまり知らないのです。

通された2階の3畳間ぐらいの部屋。左のカーテンの仕切りを外せば8畳ほどにもなるのでしょうか。
筆者がよく利用するガイドブックに『東北の避難小屋150』高橋信一著、随想舎2005というのがあります。そこには50人の収容と記されているけれど、現在は10人の受け入れとなっています。
これはCOVID-19の感染状況を反映してのことなのでしょうか。それとも十分なもてなしをするには人数をしぼった方がよいと考えたものなのか。
22日当日は、筆者を含めて6名の宿泊のようでした。

時間に余裕があって、ありがたいことに昼寝ができました。 

供された食事は地物の山菜を使った精進料理とのこと。
これがとにかくおいしかったです。
抜群の味つけ、腕に覚えありと見ました。

筆者は山菜採りのひとりなのでここに出された料理の食材が何かはすべてわかりましたが、ひとつだけ久しぶりに口にしたのがイタドリ(虎杖。写真中央)でした。
イタドリは山菜としては有名なものですが、どうも地元米沢・置賜ではあまりにありふれているからか採取しないし食べないのです。したがって、その処理や調理法も伝わっていない。
小屋番の工藤さんにお聞きすると、これだけは自分で採ったものではなく、塩漬けしたものを購入しているとのこと。
曰く、イタドリは漬け方がむずかしい食材で、下手するととけてしまうこともある。ひとによってはわざとワラビと一緒に漬け込む、ということです。
筆者はこういうことに興味津々、来春にでも挑戦してみようと思います。

それからてんぷらに出たガッサンダケ(月山筍=ネマガリダケ/根曲竹。標準和名はチシマザサ/千島笹)もとてもおいしかったのだけれど、筍は6月末で収穫を終えるもの。
この時期までに鮮度をどうやって保つのか、聞き忘れたなあ。
我が家は水を張った袋に入れて冷凍しているけれども(これが試行錯誤した中での現在のベスト)、ネマガリダケの保存は本当にむずかしいのです。

ごちそうさまでした。

札幌からおいでのKさんとご一緒しました。御年79歳ということです。
“79歳”を何度か口にしましたので年齢の割に健康、健脚が自慢ということだったのだと思います。
若いころから山歩きをしているそうで、時間があれば全国の山を訪ねているよう。
筆者などは憧れますね、こういう方に。

筆者は(胃を手術しているために)ご飯のお代わりはできないのに、彼は3杯です(笑い)。
よく食べ、よく歩く、これが健康の秘訣のようです。

おもしろかったのはクマの話。
最近は札幌の都市部にもクマ(ヒグマ)が出没するようになって困る。ヒグマは声を発したりしないが、こちらのクマ(ツキノワグマ)はググッと唸ると指摘していました。確かに。
これ、よく分かります。
最近も我が家の近くで、唸りを聴いてゾゾッとして、そおっとそおっと這(ほ)う這うの体(てい)で急いで離れましたし(笑い)。

それでは、ごきげんよう。
どうぞ、お元気で。

出羽三山のすばらしいデザインの手ぬぐいがあって、記念に即ゲットです(笑い)。
小屋では額に入れて飾っていましたが、そうしたくなるような秀逸なデザインだと思います。

甲斐甲斐しく動き回っていた小屋番の工藤ご夫妻。
お世話になりました。また、来ます! 

ひさしぶりの月山、本当によい山旅でした。
思いっきりリフレッシュできました。

鶴岡の町に下りて、知人宅で昼食をごちそうになり、午後にはご一緒して加茂の浄禅寺にある詩人・茨木のり子の墓に参りました。
茨木のり子は夫の郷里である鶴岡の、ここに眠っています。
彼女に遺言でもあったものか、それを指し示す説明も表示も一切ない、実に素朴なこじんまりとしたお墓です。

※茨木のり子については、以下のsignal「茨木のり子「六月」をめぐって」に詳しい。https://doorlira.com/2020/06/06/%e8%8c%a8%e6%9c%a8%e3%81%ae%e3%82%8a%e5%ad%90%e3%80%8c%e5%85%ad%e6%9c%88%e3%80%8d%e3%82%92%e3%82%81%e3%81%90%e3%81%a3%e3%81%a6/
または、アーカイブ2020年6月から入って4番目。

この日はちょうど秋分。
ひと知れぬ先客がすでに、美しい花を手向けておいででした。
ノコンギク(野紺菊)だと思うけど、売り花と共に野に摘んだ花が添えられていたのも印象的なことでした。

この日は、加茂よりどんどんと南下して山北の名勝・笹川流れに落ち着きました。
そこは道路からは遠く(ということは通行するクルマの音も気にならず)、目の前にははっきりとした粟島の島影がある絶好の場所です。
笹川流れは美しい磯浜が連なり、海水がまるでガラスででもできているかのように澄んでいて、筆者はこの上なく好きです。家族でキャンプをした思い出の場所でもあり。

夜分には雨が降り出し、やがて大雨にもなったのでしたが平気平気、なんだかウキウキして眠ることがもったいないくらいうれしい…、最後にそんな夜を過ごしたのです。

月山行がメインの、小さな旅が終わりました。
家に戻って思い出をふりかえりつつ、ぐしょぬれのテントを干しました。

本日はこのへんで。
それじゃあ、また。
バイバイ!

 

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