旅の空、飛ぶ声

山の湯宿

今回のsignalは最近の印象的なことから、秋田の山奥の温泉宿の滞在記です。
題して「山の湯宿」。

筆者たちはここ何年かは夏に遠出をして山に登ってきました。
今年のそれは早くから、秋田県北秋田市にある森吉山(もりよしざん/1,454メートル)と決めていました。
それは2014年に登った飯豊連峰の山小屋でご一緒した秋田出身の(登山経験豊かな)女性と話していた折り、「秋田なら森吉山がおすすめ。山は低いけど花がとてもきれいですよ」と言われ、そのことをずっと忘れずにいたのです。
花咲きほこる山なら行かなくちゃ。
秋田駒ヶ岳から乳頭山を越えて孫六温泉まで縦走した2009年以来の久しぶりの秋田の山、まだまだなじみも薄いし。

日取りは(天候の安定した時期と思われる)8月2~4日と決めて、心待ちにしました。
しかし2週間前から天気をさぐるも予報はほとんど雨でしかもどんどんと悪くなる一方、当日は予報通りの本降りの雨となりました。
ついてないなあ。
小降りならともかく、大雨では選択の余地はありません。
これでは山登りは無理、当然2日の日の山小屋泊のあてもなくなりました。

それなら、予約していた温泉宿に入るまでのまる1日をどうしよう。
まずは角館の市中になんとか宿を確保しての街並み散策、翌日は田沢湖をめぐってから阿仁(あに)、森吉へと北上することとしました。

下は角館、石黒家。

それにしても角館は情緒豊か。
角館は何度か来ているものの、今回一番の印象は間違いなく安藤醸造です。
店舗そのものが文化財に指定されているという(レンガ造りが目を引く)本店は味噌醤油の品ぞろえもさることながら、旧家の面影そのままを残した座敷や造り、当時の暮らしぶりを見ることができてすばらしかったです。
訪問の記念に味噌を買いました。

翌日3日、横なぐりの雨でしたが田沢湖畔にたたずむクニマス未来館に立ち寄りました。
農業用水確保の末に田沢湖にのみ生息したクニマス(国鱒)を絶滅させてしまった負の歴史、そして2010年の(人工孵化の実験のため1935年に稚魚を移送して放流していた)山梨県西湖での発見に至るまでの関係者の努力にあらためて敬服しました。
この発見にはさかなクンこと宮沢政之さんが大いに関係したのでしたね。発見したときには当然、ぎょぎょ!」と言ったんだろうね(笑い)。そのトピックスの興奮の記憶が筆者にも戻ってきました。
はたして佐渡のトキ(朱鷺)のように、pH濃度が上がってしまった湖水を元に戻し、今後田沢湖にクニマスは復活できるのか、その壮大なストーリーを思いました。

午後には空はすっかり晴れて、山への未練はたっぷり。
せめて安直にもゴンドラでと思ったものの(阿仁ゴンドラを運行する)スキー場への道は土砂崩れのため通行止め、ならばと計画していた登山口の山荘まで山中を走らせたり、予備の予定に入れていた遊覧船の周航があるというダム湖の太平湖まで行ったり…。

登山口に建つこめつが山荘。中には薪ストーブも設置してありました。
ここからのロングコースを登る予定でした。
そうそう、ここで顔を黒くしたイタチ(鼬)君に会いました。
太平湖に行く途中(クルマで走行中に)には、何とクマにも会ったのですよ。体調は80センチくらいの。
相棒のヨーコさんはそこで何度「カワイイ!」を連発しただろう(笑い)。
実際に小熊というのはかわいいもの、一方の小熊はクルマというのをはじめて見たものか目をクルクル丸くしていたようでした。
「めんご~い!」(笑い)。


小熊に会って興奮がまだ尾をひいているうちに、山の湯宿、杣(そま)温泉旅館に着きました。

秘湯というものが好きな筆者にとって、この杣温泉は長い間の憧れでもありました。
杣温泉はずっと前から頭の隅にあった秘湯の名にふさわしい温泉です。
(山登りができなかった口惜しさがあるとはいえ)憧れの宿に来れたのはとてもうれしかったです。
出迎えてくれたご主人にそのことを告げると、冗談ぽい目で、「憧れ? ここが?」(笑い)と自虐して返すではないですか(笑い)。

このご主人は熊撃ちマタギのひとりでもある。
マタギということは山に依拠して、山に寄り添い、山を敬って生活しているということでもあります。筆者にはこのこと自体が魅力です。
以後、ご主人の時間の空いているのを見計らっては、ずいぶんとお話を聞くこととなりました。

1970年代初頭、JRの前身である国鉄(日本国有鉄道)が “DISCOVER  JAPAN  美しい日本と私” というキャンペーンを打ち、それと軌を一にして“秘湯”という言葉が生まれました。
その生みの親である岩木一二三(1928-2001)の曰(いわ)く。

それはたしか昭和44、5年頃だったと思う。
せめて自分だけでもいい。どんな山の中でもいい、静かになれるところで自分に人間を問いつめてみたいと思って杖をひいたのが奥鬼怒の溪谷の温泉宿だった。
ランプの明りを頼りにいろり端で主人と語りあかしたあの日が今でも忘れられない。
(略)蓮華温泉の星空はきれいだった。人間と宇宙がこれ以上近づいてはならない限界のようにさえ思われたのである。
細々と山小屋を守る老夫婦の姿には頭が下がった。人間としてのせいいっぱいのがんばりと生き甲斐が山の宿に光っていた。
『日本の秘湯』日本秘湯を守る会1975より

そう、豊かさの名のもとに突き進んだ高度経済成長も1970年の大阪万国博覧会を以(も)ってひと段落、冷静にして心ある者はその直進するスピードの隙間に、人間性の疎外を感じ取っていたのです。
けれどもそれも遠い昔の50余年前。
今は、便利と快適の度合いは極に達したかに見え(ひとはずいぶんと怠惰になりました)、管理と拘束を嫌って個別化が進むと同時にコミュニティが崩壊しはじめ(ひとは寄辺を失いつつあります)、情報の洪水、急加速する少子高齢化、空き家の大量発生、廃村のどこかしこ…。
これらがもたらす疎外の程はもはや岩木の時代の比ではありますまい。

ということで、かつての筆者の宿選びは岩木への思いもあって『日本の秘湯』を参照することが多かったものです。
この守る会に名を連ねる宿は人里離れたり、一軒宿だったり、交通の便が悪い場所にあったり、ともかくも昔ながらの湯宿をほそぼそと受け継いでいるというイメージがあったものです。
そう、別な言い方をすると、つげ義春がマンガに描いたような宿!(笑い)
そして筆者は、よい湯で宿の古い構えと風景に情緒があればまず満足、それから食膳は家庭の夕食にひと品ふた品ぐらいの華が添えられている程度でよく、宿代は適正にて安価という基準を持っていたように思います。基本、それは今も変わっていません。

宿代は、90年代初頭頃の感覚でいうなら8,000円程度、今なら、せめて12,000円程度まで。
ちなみに筆者のこの値段の根拠というのは、ひとがいち日せいいっぱい働いたその労賃で十分にまかなえる額というものです。
それが労賃2日分なら苦悩の色を濃くし(笑い)、3日分とか4日分とかなら筆者にとっては冗談の域になってしまいます。でも、こういうのが多くなりました。

下は、杣温泉の露天風呂(左の小屋)。

守る会の会員になっている宿でも、今では、なぜこんな情緒のない宿が?とか、なぜこんな高い料金?と思われるようなところが増えてきました。
逆に、こんな素朴で情緒があって適正な宿賃の温泉宿がなぜ会員でない?と思うこともしばしば。秘湯にふさわしい宿の退会も相次いでいるよう。
つまり、この日本秘湯を守る会自体が主体会社(朝日旅行会→朝日旅行)の倒産や価値観の変遷もあって形骸化してしまっているのが実情なのです。
ちなみにですが、この杣温泉旅館は今も“守る会”の会員です。

下は、旅館の前を流れる川。濁っているのは雨のせいで、本来は美しく澄んだ流れだと思います。
イワナとヤマメが釣れるそうです。

杣温泉は(全長90㌔あまりの角館と鷹巣を結ぶ)秋田内陸縦貫鉄道の阿仁前田駅から県道309号をクルマで約20分(筆者らは角館からレンタカーで)、森吉山の北麓を流れる小又川の上流、うっそうとした原生林にたたずむ秘湯です。

ご主人(杣正則さん。そう、杣は苗字なのです)の話によれば、宿は上流にできたダム湖の太平湖に沈んだ集落で庄屋をしていた先代が65年ほど前に創業したものとのこと。
かつてここには4軒の家があったが、皆ダム建設の補償金を得て山を下りたのだという。
そういえば、県道わきの入り口には湯の岱小中学校跡という記念碑があったっけ。

筆者は杣温泉の(苗字にもなっている)“杣(そま)”とは今まで、木を伐るひと、つまりは樵(きこり)と思っていたのですが、ご主人に言わせれば、ブナ(山毛欅)だのイタヤカエデ(板屋楓)だのミズナラ(水楢)だの、山に生える様々の木の総称とのこと、それから山自体も指すようでした。
ひとつ、勉強になりました。

館内は落ち着いた雰囲気、ひと昔前の面影を今につたえています。

紙の切れ端にマーカーで書いて画鋲で刺した宿泊者の表示。素朴なもんです(笑い)。
部屋の名の“もろび”は木の名前、オオシラビソ(大白檜曽/マツ科モミ属。別名にアオモリトドマツ/青森椴松)のことです。
森吉山はもろびの山、つまりは冬には樹氷でおおわれる山ということになります。

沢の水だろう、清冽な水を出しっぱなしにする素朴な洗面所。

食膳に並ぶのは、裏山の水で育てたコイ(鯉)、釣ったイワナ(岩魚)などの川魚、それに季節の山菜やキノコと、山の恵みそのままとのこと。これがいいです。

同じく山の恵みに支えられている筆者たちはこの食材が何かを言い当てることができます。

奥中央の鯉の旨煮(甘露煮)を起点にして時計回りで…、
鯉のアラ入りのネギの味噌汁、
左わきに、オリミキ(ナラタケ)と思しきキノコと油揚げの煮物、
鯉のアライ、そのつけダレとして酢味噌、
ご飯に、
ゼンマイとネマガリダケの炒め煮、
フキの煮物、
ジュンサイの生姜添え、
ミズ(ウワバミソウ)の茎と実のおひたし、
その左下に、キュウリの浅漬け、
ナメコのおろし、
その上に、タラノメの胡麻和え…。
左上に、メインのマイタケやブナシメジに名産の比内地鶏の入ったきりたんぽ鍋です。
さらにのちには、イワナの唐揚げがサービスでついたのでした(これは、新幹線の不通で到着できないお客さん4人がキャンセル、そのひとたちに用意していたものと思われる)。
いやあ、もう十分、十分。

食材の山菜などは今収穫できるものはミズぐらいしかなく、あとは乾燥と塩蔵を主として保存していたものということになります。
この保存の知恵が山の民の証明です。

小ぶりな日本酒1本をつけて。


ここで難癖もなんだけど(まあ許せよ、正則さん)、鯉の旨煮は米沢が本場にして全国に名をはす名産品、こっちのものは少し醤油がききすぎだと思います。もう少し、まろやかな味つけにした方がいい。
それにせっかくのゼンマイ、戻したときに堅い部分をしっかり取り除く必要がありますよ。食べるのに忍びないのが3本ほど混じってました。まあ、愛嬌の部類だけどね。
ここで正則さんの、内なる、冗談ぽい声がするのです。
「なんだと、われらの料理にケチをつけようってのか?!」(笑い)。

でも、とても満足しました。
ごちそうさまでした。
でもどうでも、宝塚のべっぴんさんもこちらにおいでだったようで、これらの料理をたいらげたものですかね? 都会の華やかな世界にいるひとたちの口に合うんですかね? むしろ、追加で熊鍋でも特注した?(笑い)
なんか想像できないんだなあ(笑い)。

そう、この素朴さと野趣を求めてか上のべっぴんさんも含め多くの有名人もこの宿を訪ねていて、その写真が飾ってありました。
その中で筆者の目を引いたのが小説家の立松和平(1947-2010)でした。
ご主人によれば和平さんは、自分が温泉宿の主人にして熊撃ちと聞きつけて訪ねてくれたのだとか。
熊を仕留める話を一升瓶をはさんで大広間で聞いてくれたのは忘れられないひと時、亡くなったのはその1年後くらいだったかということでした。
なんかあの独特な和平さんの語り口がなつかしいんだなあ、聴こえるんだなあ。

温泉は内湯と露天風呂の2箇所あり、いずれも源泉かけ流しです。
源泉は熱いので、注ぐ量を減らして温度調整をしているとのこと。
泉質はナトリウム・カルシウム・塩化物硫酸泉、ほぼ無色透明のきれいな湯でした。

露天風呂は清流のすぐそば。
夜中につかってからまた朝方にも入ろうとしたのですが、もうアブがうるさくつきまとってダメでした。
5秒で引き上げました(笑い)。
夏場の清流わきの露天風呂って、往々にしてこうなりますよね。

お客さんはわれわれの他は40代と思しき夫婦と30代後半くらいの釣り人がひとりの計5人でした。
自然災害による急なキャンセルがあったようで、こういう場合の旅館の対応のたいへんさが少々分かったような。

静かです。

宿のわきを清流がはしっているせいか、朝の空気はひんやりです。
たかだか標高は300メートルに過ぎぬというのにこの冷涼感は奥山深山のなせる業というものでしょうか。

朝には、山で淹れるつもりにしていたコーヒーを。
うまい!(笑い)

帰り際、サービスなのだろう、お土産に(たぶん)名産の稲庭うどんを持たせてくれました。
ありがたいことです。

筆者はと言えば、記念にと、本物のクマの爪のストラップを買ったのです(笑い)。1,000円也。 

下は、別れ際の正則さんとの記念写真です。
最後に彼は、今までこらえていた本音?を吐き出すように口がすべらか。
「いやあ、本間さん。こんなにヒゲの似合うひとってのは初めてだわあ。カッコいいなあ、うらやましいなあ。これ、冗談ではないんだ。また来てな。オレ、こういうお客さん、好きなんだなあ」と(笑い)。
カメラを持つ相棒がゲラゲラしていたのは言うまでもありません(笑い)。

ということで、ゆったりとした至福の時間が過ぎたのです。実に、よい湯宿でした。
また来ます。次回は森吉山のお花畑を歩いたあとの湯として。

ふくよかな時間たゆとう、麗しきかな杣温泉。

その日角館に戻って、調子よく(秋田、東北)新幹線で乗り換えの福島に戻ってびっくりしました。
山形新幹線のつばさの行き先が山形ではなく、何と仙台となっているではないですか!

表示板の不具合? 表示のしまちがい?
それで駅員に確認すれば、何と、大雨による土砂崩れのため福島―米沢間の奥羽本線在来線と山形新幹線は不通、国道13号線も通行止め、高速道路の東北中央道だけがかろうじて開通したということでした。
大雨でこちらにも被害が出ているなんて、それまでまったく知らなかったです。泡を食ってしまいました(-_-;)。

こんな時は冷静さを保つのが肝要、そしてなんとか知恵をしぼって考えて、相棒の実家(福島県伊達市)に連絡を取って送ってもらうことにしました。いやあ、助かりました。
それで、夜遅くにようやく米沢の家にたどりついたという今回の遠出の結末です。

ホンマに電話しても、メールを送っても一向に連絡がつかないということで、友人知人のずいぶんな方にご心配をいただき恐縮しました。
ということで、われらはただ家を離れていたというだけだったのです。申し訳ないことです。
それに我が家の建つところは町場より標高があって(350メートル。町場は230メートルほど)しかも深い溪谷が走り、川が増水してあふれて家屋が水浸しになるという心配はまずなし、とても安全な場所に住んでいるのです。

翌日の新聞で、被害の大きさに驚き入った次第。
そんな2022年の8月はじめのことです。

本日はこのへんで。
それじゃあ、また。
バイバイ!

 

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