森の生活

キミと過ごした日々

キミがワタシの家にやってきたのは(ちょっと定かではないのだけれど)2002年の春のことだったと思います。
それは日ごろから親しくさせていただいている栗園のオーナー(今90代半ばにしてかくしゃくとした現役の農婦)からクリの倒木を薪材としてありがたく頂戴していたときのこと、広大な園地の一角に見慣れない木があるのに気がついたのです。
まずそれはモミ(樅)のような、オオシラビソ(大白檜曽)のような葉で針のよう。立ち姿はドイツトウヒ(独逸唐檜)のようにも見える。
でもどうでもクリスマスツリーにぴったりの美しい姿であるのは確かでした。
そして樹下をよくよく観察してみると、ありました、ありました。15センチほどの実生(みしょう)の苗が3本、4本と。
そこで、オーナーにひと声かけてその苗をいただいたのです。
それがキミです。

最初は大きな植木鉢に移植したのだと思います。
冬分は屋根の下で4回ほども越したでしょうか。
そしてようやく落ち着き先が決まった、それが下の場所(右中央)です。
06年の5月のことでした。

ワタシの母親が亡くなったのが04年のことで、それを機に古レンガ(ここにはかつて陶芸をするひとが住んでいて、引き払うときに斜面の登り窯を崩して地中に埋めていった、それを知人に重機で掘り起してもらったもの)と枕木の切れ端を組み合わせて作ったのが円形花壇です。
花壇の中心にステンレスの大きな三角錐(いただきもの。変電所の碍子の覆いとのこと)が置いてありますが、その中には父親と母親の骨の一部が収められています。
つまりこれは、ささやかな、私的な追悼施設でもあるのです。

花壇の下には石でかこった均(なら)した土地がありますが、これが現在のヒュッテ(兼工房)の元の状態です。
そしてその右わきに赤いビールケースともうひとつのステンレス三角錐に守られているのがキミです。
50センチほどになっていたでしょうか。

下は、08年の様子。

05年よりはじめようとしたヒュッテ(兼工房)の建設の構想はそのうちに頓挫しました。
勤め仕事の忙しさがあって十分な時間が取れなかったことは確かで、そのうちに構想そのものがあいまいになってしまいました。

花壇の中に木が生えていますがこれはハタンキョウ(巴旦杏)で、おいしいスモモが毎年たくさん生ったものです。
でも、(母親が亡くなって)日中は誰もいなくなった我が家、サルがこの果実の木を見つけては30匹ほどの群れでやってきては食べ放題、ましてやあまりにひどい食い散らかし方にはムッときました。それが何度かありました。
ひと口食べては捨てている光景は見るに堪えないものでした。食べるなら、もっときれいに食べなさい!
コノヤロウ!💢

そしてどうしたわけでしょう、ハタンキョウはこの年に枯れてしまいました。
それでそのままにしておくわけにはいかず、未練はたくさんあったのですが、伐り倒しました。
それをまだ幼いキミは見ていた。

下は、2011年5月の様子。ということは、かのサンテンイチイチにそう遠くない景色です。
決して忘れることができないあの日はまだたくさんの積雪があって、ようやく消え去ったころの1枚かと思います。

ワタシは意を決してヒュッテと工房の建設に取りかかりました。
先に建設の構想を頓挫させたのはワタシに覚悟が足らなかっただけのこと、そこでもう後戻りできないところまで自分を追い込みました。
時間を追うごとに進捗(しんちょく)する様子を、成長がグンと早まったキミはつぶさに見ていたはず。

下は12年10月の1枚。
成長著しく、キミはずいぶん大きくなりました。
ヒュッテ(兼工房)の少しずつできてゆくのを来る日も来る日も、キミは見ていたと思います。
ワタシも休憩のたびに美しい立ち姿となってきたキミを見ていたよ。
日に日に大きくなるのは素敵なことでした。そしてキミにエネルギーをもらったように思って、ワタシはまたがんばろうと思ったものです。
美しい姿というのはひとに安らぎとともに勇気をも与えるものです。

奥の正面の主屋は軒下換気口のメンテナンスのために足場が掛けられたもの。ワタシはそれをよしとして(せっかくの足場のあること)外壁の、2度目の全面的な塗装を行いました。
それは、職人に頼めば100万円ほどの仕事ではなかったでしょうか。

ヒュッテ(兼工房)は一部を除いてほぼ完成していますが、玄関口のドアはまだ製作中で合板でふさいでいたと思います。
ドアはとても大切なもの、どうせなら本格的な組みの技法を使い、重厚で正確なものを作りたく(そのために本格的な作業台を作ったほどです)、最後の仕事として残しておいたのです。


12年12月、雪が降りました。
雪囲いのためには必須の “男結び” というロープワークを覚え、細木丸太を組み、板を縄で結わえつけて雪囲いをしていた頃のことです。
キミはまだ十分には大きくはなく、まだひ弱、自分を雪から守るすべを身につけてはいませんでした。

13年12月の主屋の玄関口。
だいぶ大きくなったキミから枝を1本頂戴してクリスマス飾りをつくりました。
玄関はもう、クリスマスムードでいっぱいです。
このころ、玄関の外灯の下には現在の “ルーザの森クラフト” の前身の、“笊籬の森空工房” の看板がかけられていました。

下は、14年6月。
キミは均整の取れた美しい三角錐に見えているけれども、じつはこの裏側は大きな枝が折れてしまってかなりな不格好になったのでした。雪からキミを守り切れなかったのです。
とても申し訳ないことをしたものです。
それは長くワタシに(のどに刺さったトゲのような)引っかかりを残しました。

15年の1枚。
樹の幹をかこむようにビールケースを置いたのは、雪による枝折れを防ぐためでした。
というのは、雪がおおいかぶさって枝が地面に着き、やがて雪が消え去るときに尋常ではない引っ張りの力が働いて太い枝を幹から引き離す(枝が幹からもぎ取られる)、これが原因と分かったからです。
もうこのころになると、キミの背丈は3メートルを優に超え、雪囲いをするどころではなくなっていました。

16年5月のこと。
近くの山から採ってきたゼンマイを(茹で上げたのちに)干している背景にキミがいるけど、実はこの角度がもっとも不格好、こちら側の正面の大きな枝が雪にやられてしまっています。
背景のステンレス三角錐が透けているのはそのためです。

17年の1月のこと。
毎年のことながら、積雪がどんどんと増える時期のキミの姿。
キミを守るには周囲の雪を取り除く以外にはなくなって、これはもう何度か除雪したあとの姿です。

それにしても不思議なのは、この地は厳冬期にはマイナス10℃にもなるけど、キミも含めて針葉樹はどのようにして寒さから身を守っているのだろうということ。
広葉樹なら、本格的な冬が来る前に葉を落とすことによって体温を保つのはよく理解できるのだけれども。

17年の3月。
ようやくのこと厳しかった雪もおさまって、とにかくにもキミを雪から救出したところ。
もう幹自体が天を指してまっすぐというのじゃなく歪んでしまっています。
なんとか少しでも傾きを修正したく思ってつっかえ棒を渡したのでしたが…。

大雨が降り大量の水が道路を川に変えたのは19年の10月13日のことでした。
キミはそれをしかと見ていた。
ワタシたちにしたらそれは引っ越してきてから(1993年以来)最もひどい雨で、怖さをともなうような光景が続きました。
けれどもここは町場よりはグンと標高が高く(町場が230、ここは350メートル)、しかも深き切れ込んだ溪谷が走っている最上川の最上流域のこと、これが中流域、下流域ならどんなことにつながるかは想像にやさしいことでした。
今年8月4日の大雨のときは家を離れていたのですが、想像ではこのあたりは19年のときよりはだいぶましだったのではと思われます。
(19年のときのようには)道路の敷石が持っていかれて流れ下るようなことはありませんでしたし。
このときの大水の急流で、(ここらの川はすべてそうなのだけれど)一枚岩の川底にあったわずかなコケ類などもきれいにこそぎ取られ、それはそれは美しくなったのが今も目にあります。それは、タワシでゴシゴシとこすって洗い流したかのようでした。

またクリスマスが近づいて、雪が降って…。

トウヒの(と思われる)キミはたくさんの球果(松ぼっくり)をつけるほどに成長しました。
うれしかったです。
この球果をつける頃からですかね、ワタシがキミの本当の姿(種/しゅ。名前)が気になり、同時にわからなくなってきたのは。

ドイツトウヒ(独逸唐檜)ならこの球果はもっともっと大きい。しかも球果の鱗片はまるでコイ(鯉)の肌のようにしっかりしているのに対して、こちらの球果の肌は薄いです。
それではトドマツ(椴松)なのか、エゾアカマツ(蝦夷赤松)なのか、はたまた当初のめぼしどおりトウヒ(唐檜)なのか。
トドマツやエゾアカマツにしては樹形のイメージが違い(少なくともこのふたつは美しい円錐形を作らない)、トウヒというには球果に丸みが足りません。
それにトウヒというには針葉の1本1本がしっかりとしていて、しかも葉の繁みの具合は明らかに密です。
でも、くわしい樹木図鑑をめくっても本当のところはよくわかりませんでした。
この頃、オーソリティにも見てもらう機会もあったのですが、首をかしげるばかりで。
だからその後も、仮の名としてキミを、トウヒと呼んでいたまでのことなのです。

本当はキミは何なの、なんて言うの?

2020年の2月のこと。
ヒュッテの出入りのドアから。
外に出られない吹雪の日などには、こうしてキミをながめては安心していました。
雪をかぶる姿も美しかった。
キミは春夏秋冬、朝昼晩とも、いつもいつも絵のように美しかったです。

20年は手狭になった工房の増築に励んでいた時期です。
増築分の屋根を職人に葺いてもらっていた様子を、キミはすぐ隣で見上げていたものです。

ワタシは1枚もののトタン板を買ってきて何枚かの帯に切り、それをたたいて曲げて、外壁と基礎との間の役物である “水切り” を作っていました。

基礎の上に這わせた赤でペイントした水切りもキミは見ていただろう。
水切りをつけると雨水が土台にしみこんでゆかない…、家屋の歴史のひとつはこの(柱が立つところの)土台を水からいかに守るかだったということも言えるわけで。

キミをメインにすえて、できつつある工房の増築分を見るのがワタシは好きでした。
キミはシンボルツリーにふさわしいほどに成長を遂げました。
うれしかったです。

20年の冬はことのほか早くやってきました。
ワタシはまだクリスマスも来ない時期だというのに除雪に動き回る日々となりました。
キミのまわりも毎回毎回きちんとはきました。
周囲の雪を取り除くことが唯一、キミを守る方法でした。これを怠ると、木は簡単に死んでしまいます。

と、クリスマスイヴの夜になんとサンタクロースがやってきたではないですか。
重そうな袋までを背負って、どうしたの?
家(うち)に今は子どもはいませんよ、なのにどうして?

サンタはなんか、カメラ目線でポーズ? あきれたものです(笑い)。
でもきっとサンタも、美しいキミの姿に会いに来たんだと思うね。
キミは神にも選ばれしツリーだ。

ある日キミはシロクマ(ホッキョクグマ)で、ある日はまるでピエタだ!
(※ピエタは、キリストの遺体を膝の上で抱きかかえる聖母マリア)。

21年の春3月。
これが雪国の春の甘い空気です。いっせいに靄がかかってすべてをつつみ込みます。
これがどんなにか希望を象徴する景色であることか。
キミはそこにじっとして立って、けれどもきっとニヤニヤしているはず。
もうすぐ春の日差しをあびることができる…、それがわかってうれしいのです、きっと。

新しい小屋を作ろうとした21年の5月のこと。
ようやくのこと、古い薪小屋を解体しました。キミはそれをどんな思いで見ていたのだろう。
この薪小屋も精魂込めて作ったのだけれど、新しいものをこさえるのにはこわすことも大事なことだしね。
こわすときも、ていねいにていねいに。

古い薪小屋が解体され、べた基礎の上に基礎がつくられ、ほどなくして上棟まできました。
刻々とかわる建築の様子を、かたわらのキミはじっと見ていた。

もう小屋の建築も佳境を迎えて、それを祝福するかのように虹がかかりました。
21年11月5日の夕暮れのことでした。
きっとキミも虹を見て、工房とヒュッテを見て、そして新しい小屋を見て、胸のすく思いをいだいたんじゃないか。
自分も美しいものたちにかこまれてきたのはうれしいことだと。

また雪がきて、

ワタシは除雪が一段落して、キミとの記念撮影。

満月が、雪をかぶったキミの上にやってきて。
これは今年22年の2月16日の深夜です。

雪が解けて、ポカポカの日差しをあびて。
こういう幸せな日々もたくさんありました。

下は、今年5月24日の景色。
この頃からです、マイマイガ(舞舞蛾)が異常発生し、みどりという緑を食い尽くしはじめたのは。

キミとすぐ近くのヤマモミジ(山紅葉)もこんなふうになり(-_-;)。

シンボルツリーのひとつ、イタヤカエデ(板屋楓)は1枚の葉さえ残さず(-_-;)。

シンボルツリーのひとつ、ブナ(山毛欅)も丸裸(-_-;)。

まさか針葉樹のトウヒたる(?)キミにまで食いつこうとは(-_-;)。

でも、ワタシはただただ見ているしかなかったのです。
異様な繁殖と猛然たる食欲の前にワタシはすべなく無力でした。ただただあきれ返るばかりでした(-_-;)。

ヤマモミジとイタヤカエデ、そしてブナはその後生命力を盛りかえし、まるで季節がもどったかのように新芽をふき出し、ほどなく時ならぬ新緑の季節となったのです。
けれどもキミはそうはいきませんでした。
枝先にぽちょとわずかな新葉が見えたけれども、それは一向にひろがることはありませんでした。

そうこうしていた8月9日、ワタシがキミの近くで薪づくりをし、一輪車に薪を積んでキミのすぐわきを通り過ぎようとしたときに、ハチがワタシの左腕を刺してきました。痛かったです。
普通、ハチはこちらから刺激しない限り(思わぬしぐさがハチに誤解されることがある。これが注意)向かってくることはないもの。
はて?と思ってキミの辺りを観察すると、何と葉が食い尽くされたキミの身体の色に溶けこむようにして、キイロスズメバチ(黄色雀蜂)が大きな巣を作っているではありませんか。
ギョ!、です。
形はラグビーボールのようにタテ長にして楕円、横の径(φ)で20センチほどの巨大なものになっていました。
キミもたいへんな者たちに好かれたものです。

山の中のワタシの家とてたまにだけど来客はあるし、宅配とか新聞や郵便の配達もあるし、このまま放っておくわけにもいきません。
それでワタシは(これがワタシらしさだと思うけど…、笑い)意を決してハチたちが寝静まった深夜に、車で1メートルまで近づいて撃退スプレーを噴射したのですが、ダメでした。仕留めるには巣はあまりに大きくなりすぎていました。
それでもう自分としては打つ手なく、仕方なく業者に依頼し取り除いてもらうことにしました。
巣は6層ほどにもなっていたようでした。
ヤレヤレです。

ちょっと話はそれるけれど、木といえば…、
かつて外に勤めを持っていたとき、スコットランドから来ていたALT(英語指導助手)を出向の職場(病院内教室)に招くこととなって、ワタシが送り迎えを担当していました。
その彼女が町中の街路樹をさして、「すごく不自然、違和感を感じる」とつぶやいたことを思い出します。
それは、街路樹の多くが電線に引っかかるという理由で寸止めにされていたからです。
そうなのです、ワタシも同様に思っていたのでそれには強く共感したものでした。

枝を伸ばすこと叶わず、高く伸びること叶わず…、これは木としたらまったく不自由な姿、まったく痛々しい姿です。
こんなふうにただ葉っぱが茂ればそれでいいという木への勝手な解釈と接し方に、ワタシはニンゲンの傲慢さを見る思いがして嫌気がさすのです。
こんなのまったく美しくない! こんななら、木のプライドのためにも伐ってしまった方がいい。

そんなこともあってのことです。
キミは来春に復活するという見通しは立たず、このままの姿でずっといてもらうのもつらいこと。それで、思い切ってキミを伐り倒すことにしました。
キミにはいろんな思い出があるだけに、胸の痛みを覚えたのは事実だけれども、それを振り払って。

そしてこの8月18日の午後に、すっぱりと伐りました。
正直のところ、ウルウルとしました。

キミを伐ってしまえば、広い空間ができました。
そしてワタシに、とても埋めがたい空疎な思いが広がりました。

また話はそれるけれども、木といえば…、
ワタシはフレデリック=バックというアニメーション作家の出世作「CRAC!(クラック)」という作品がとても好きでした。
木を伐って(“crac!”とは木を伐り倒すときの音)、挽いて切って、けずってたたいて色を塗って椅子を作り、それが歳月を経て用なしとなって捨てられ、しまいには拾われて美術館に置かれるようになるというストーリー。
シャガールばりの美しい映像は、あたたかな人々の集いや赤ちゃんの誕生も家族の変遷(へんせん)もあって人生そのものをファンタジックに俯瞰(ふかん)しているよう。そうしながらバックは都市文明の危うさを描いたのでした。
木はこれくらいのストーリーに満ち、人々に大切にされると幸せだと思ったものです。

公開画像より

キミを伐った枝は焚火の材料にしようと思います。
燃やして供養します。

残っていたわずかの針葉の枝で玄関口を飾りました。
最後の最後の、キミの生かしようです。

それから、キミの子孫がいつでも復活できるようにと、球果(松ぼっくり)つまりはタネを保存することにしました。
これらはいずれもワタシの、せめてもの罪滅ぼしです。

そのあとのこと、キミが生まれた場所、あの栗園の一角のキミの親御さんは今どうしているだろうと気になって久しぶりに出かけてみました。
そしたら、直近の冬というわけではないのだろうけれど、雪によってすでに倒れていました。
15メートルくらいの大木になっていた様子、自然の厳しさを思いました。

伐ってからのことでした。ほどなくです、キミの本当の名を知ったのは。
キミは正確には、マツ科トウヒ属バラモミ節のイラモミ(刺樅)という名でした。
名にモミ(樅)とはつくけれどもモミではなくトウヒの仲間、トウヒの仲間でも葉の断面が平たいのがトウヒ節でひし形なのがバラモミ節、キミの葉の断面はひし形、よってその中のイラモミということになりました。
同定にはこれが決定的でした。

刺すような鋭い葉を持ち、モミに似ているからというのが命名の言われのようだけど、ワタシから言わせるとこの命名者は文学的センスなしですね。別名にマツハダ(松肌)とあるけど、これも同様です。
たぶん命名者はこの木に美を認めていない。

イラモミは日本の特産種で、岐阜県から福島県南部(栃木県という説もある)に自生するものがあるとのこと。
ここは福島県南部からにしても緯度がグンと高いところですし、ワタシが手にした実生の苗の親木は植栽されたものと推測されます。
でもこれで、すっきりしました。もやっとしたこころの霧が晴れました。

話はまたまたそれて、木といえば…、
下は、ルーザの森にある草木塔という供養塔です。
米沢を中心に置賜地方に約60基あるもののひとつで碑身高が214センチにして最大、「嘉永七年十月二日」と刻まれていますので西暦でいえば1855年、今から167年前の建立ということになります。
草木塔はいずれも伐採地や木流しの現場にあり、草木に感謝し、草木の成長を願って建立されたもののようです。
いにしえ人は木を必要不可欠な材料として暮らしに取り込んだけれど、感謝することも忘れなかったということでしょう。
すばらしい文化だと思います。

ワタシは草木塔に込められたいにしえ人の思いにも通じてキミに心から感謝しています。
と同時に、反省もするのです。
ワタシのキミへの接し方はこれでよかったものでしたかね、思い上がった態度ではなかったかどうか。
どうだったんだろう。
20年という長い長い歳月、キミといっしょに過ごした日々でした。
いっしょに語り合ってきたようにも思う、そんな20年でした。
さようなら、さようなら、キミ。
今まで本当に、どうもありがとう。ありがとう。

 

それでは、本日はこのへんで。
じゃあ、また。
バイバイ!

 

※本文に割り込んでいる写真はサムネイル判で表示されています。これは本来のタテヨコの比から左右または上下が切られている状態です。写真はクリックすると拡大し、本来の比の画像が得られます。