旅の空、飛ぶ声

春の周遊

4月9日の夕方だったか、相棒のヨーコさんが言うのです。
「きのうの真夜中、ふと目が覚めたらゴオーーーというものすごい音が外から聴こえてきて眠れなくなった。ひどい耳鳴りのような、何か戦争のような(物騒な)連続音がいつまでも消えない……。ちょっと怖くなった」、と。
そう言われてみると今も、確かに北東の方角から強烈なゴオーーーという音が聞こえてきます。
まさに戦闘機でも通り過ぎて空中を劈(つんざ)くような、けれどもそれがいつまでも途切れない不思議で不気味な轟音…。
30年もここに暮らしているけど、こんな異様な音に覚えはありません。いったい何だろう。

そうしてめぐらしめぐらしようやく思い至ったのが、笊籬沼(ざるぬま)から天王川(=笊籬溪/ざるだに)に流れ落ちる滝の音でした。
実際、こんな大音量の笊籬溪の滝の音なんて聴き覚えはないのです。それほどにすさまじい今年の雪解けの勢いです。

アメダスデータで4月の米沢の最高気温を確かめると、8日まではだいたいが11℃、上がってもせいぜい15℃ぐらいだったのに、9日には一気に上昇して22.5℃、10日以降は25℃を超えてきたのでした。
この高温によって山や野原の雪が急激に解けだして窪地である笊籬沼に一斉に集まり、ひっきりなしに入り込む大量の雪解け水に沼は耐えられずこちらもひっきりなしに放水し続けた…、これが異様な轟音の正体でした。
安心しました。

笊籬沼から滝となって笊籬溪の天王川に落下する大量の雪解け水。

雪に覆われていた白い風景は加速度的に変化して、黒い地面がどんどんと面積を広げていっています。

山の木々の根元に広がる根回り輪。
これが春のうれしい証明のひとつ、春のシグナルです。

穏やかに見える7日現在の笊籬沼。
雪解け水を一斉に集めています。

家のすぐわきの樹木は雪をめくり上げて立ちはじめました。この生命力!
雪の重さに圧されて身動きができず、じっと耐えつつ立ち上がる機会を今か今かとうかがっていたというわけです。

7日現在の我が家。
雪の計測地点では今も40センチほどの雪で覆われています。でも消え去るのも時間の問題です。

ヒュッテの前のブナ(山毛欅)の根元にフクジュソウ(福寿草/キンポウゲ科フクジュソウ属)が咲きました。
黄金色のいくつものパラボラアンテナを太陽に向けて。

あたりにフキノトウ(フキ/蕗の花茎)が出てきたので、器に水を張って浮かべてテーブルのしつらえに。

器の中のフキノトウをよくよく見ると2種があることが分かります。
黄色く大きい集合花をつけるのが雄株、そして白く小さい花がつく雌株です。
雄株は大きく育つことなくそのうちに枯れてしまいます。
一方の雌株はどんどんと大きく育ってタンポポの綿毛に似たタネをつけます。大きくなるのは、風を受けやすい高さになるということでしょう。
フキも風と友だちなのです。

この器は骨董屋で求めた白釉薬の平清水焼(山形市)。
100年は時間を刻んだと思われる美しい片口です。

相棒がポツリというのです。「滝桜を見てみたいもんだな」と。「まだ一度も見てないし」と。
そして筆者も聞き及んでつとに有名な福島県三春町の滝桜をまだ見たことはありません。

筆者にすれば、冬分は除雪と工房の仕事に明け暮れ、雪が解けはじめてからは(昨年の冬口に一応の完成を見たリス小屋だけれども)南に張り出す薪スペース(下屋)の木取りをしはじめ、働きづめは変わりなしでした。
それで、この辺で休暇もいいかと思ったのです。

滝桜を調べれば、13日が満開予想だそうで。
確か9日のNHKラジオ第1の「山カフェ」(この番組は落ち着きますね)ででも滝桜の紹介があって、それにも押されて、それで。
さあ、行こう!

国道13号線で栗子の峠を越えて、4号線に入って福島市街を抜けると吾妻連峰の美しい山並が見えてきました。雪をかぶって輝いています。
あれが東吾妻山(たおやかないい山です)、吾妻小富士、あれが一切経山(眼下に、五色沼“魔女の瞳”が美しく)…、また吾妻の山に行けると思うとワクワクします。
(以下2点の写真はいいものが手元になく、ネットからの拝借です)。

monoda2012

そしてさらに南下すれば見えてくる安達太良連山。
あれが安達太良山、そして鉄山に箕輪山…。

確か2006年の秋だったと思うけど、登った日のことがよみがえります。
温泉つきの山小屋であるくろがね小屋に泊ったのだっけ。夕食のカレーがことのほかおいしかった記憶があります。
ああ、山はいいです。眺めているだけで清々します。

気象庁

本宮に入ってからだったと思うけど、阿武隈川にはキンクロハジロ(金黒羽白/カモ科ハジロ属)がのんびりと群れで泳いでいました。
このカモの名前は調べてはじめてわかったことだけれど、金色の目に黒い身体、そして羽は白いことからの命名のようです。
野鳥に疎い筆者のこと、カモ類はいくつか見ているけれどもこの白黒のコントラストくっきりのものは記憶にないなあ。初めての出会いかもしれない。

と、川向こうに目をやれば、たくさんのサギではないですか。
筆者の地方にはこういう光景はないので、興味を引きました。
よくよく見ると、大きな真っ白いものはダイサギ(大鷺/サギ科アオサギ属)のようだけど、中にアオサギ(青鷺/サギ科アオサギ属)も混じっているよう。
このふたつは同じ属のきわめて近い兄弟のようで。同じ場所に営巣するほどに仲がいい?

本宮より入って(場所が非常に分かりにくかったです。ナビも頼りなく)高柴デコ屋敷に行きました。
福島の県央部はどこもかしこもサクラが満開、デコ屋敷一帯もサクラで美しく彩られていました。

我が家の(いただきものの)お雛様はデコ屋敷で作られた張り子であり、これはとても気に入っている作。
その製作の現場を見たかったのと、ここは子どもたちがまだ小さかった頃に訪ねたなつかしい場所ということもあっての訪問でした。

2軒の工房を覗きました。
でも、ちょっとがっかりしました。店頭に並ぶ作品の数々の、客におもねた筆遣いに魅力は失われていました。
約300年の歴史があるというには、その伝統のすばらしさが感じられない、職人の心意気が伝わってこないのです。
我が家の雛人形は何年しても飽きが来ずに魅力的なのに、置いてある似たようなものは確かにあったのだけれど、面相筆による目や鼻の入れ方はかなり安易に変わってきている。描く人が変わったということはあるのでしょうが(あるいは別の工房の作なのか)、こういうのは耐えられない。

下はデコ屋敷の入り口の茶屋の風景。ここのサクラも見事です。
ここで花見がてらソフトクリームをペロペロと(笑い)。

・・・

三春滝桜はデコ屋敷からは約10キロの道のりだったでしょうか。
今回の遠出の目的のメインは何といってもこのサクラです。

三春滝桜はやはり、聞きしに勝る美しさ、豪華さでした。
その幽玄な姿は、感興して思いあふれて踊っているようであり、形容のごとく一斉に流れ落ちる幅広の滝のようであり(“滝桜”の名称は滝のような花ぶりとともに、ここが滝という土地の名に由来しているという)。
やはり、来てよかったです。
掛け値なしの感動ものです。

樹齢1,000年とも言われる滝桜はサクラの木として全国でも初めての国の天然記念物指定とのこと。
今年は、指定1922(大11)年からちょうど100年目の記念すべき年のようでした。

滝桜のそばにいたネーチャーガイド(?)の方にお聞きすれば、樹種は基本野生種のひとつのエドヒガン(江戸彼岸)、そのベニシダレ系とのことです。
その昔に、野生種に対して人工交配があったやも知れぬとのこと。
根回り11メートル、幹回り9.5メートル、樹高12メートル、枝張りが東西で22メートル、南北で18メートルという威容です。

ものの情報によれば、半径10キロ以内にベニシダレ系エドヒガンは根回り100センチ以上のものが420本以上確認されているのだそうで、滝桜から離れれば離れるほどに根回りは細くなることから、これらは滝桜の子孫樹と考えられるとのこと。
その昔。この美しさに魅せられたひとびとは滝桜の実(さくらんぼ)から、実生(みしょう)から、 蘖(ひこばえ)の取り木からと様々な方法を工夫して増やしていったんだろうと思います。
なお、野生種には実がつきます。栽培種でありクローン増殖のソメイヨシノ(染井吉野)に実はつきません。

いやあ、見事だ。実に見事だ。

サクラで天然記念物と言えば、米沢の近隣では長井市伊佐沢の“久保桜”がすぐに思い浮かびます。

下は、1895(明28)年撮影という写真をあしらった美しいポスターです(伊佐沢においしい蕎麦の店があって、そこに飾ってあったポスターを撮影しただいぶ前のもの)。
樹齢約1,200年。
名主と思しき村の有力者や学童や住民たちが一堂に会した記念写真のよう。
いかにこのサクラが尊崇の対象であり住民に愛され大切にされていたかが分かろうというものです。
その愛着ぶりは滝桜も同様だったのではないか。

下は、滝桜の花つきの様子…、

そして、武骨で勇壮な幹の姿。

滝桜のすぐ上の公園の様子。

筆者たちが出かけたのは(相棒は休暇を取っての)平日の12日、明日が満開かと予想された日でした。
滝桜には非常に満足しましたが、(サクラの写真には意図して写さなかったものの)平日にもかかわらずものすごい人出でした。信じられないくらいの。
筆者にしたら、20年分ぐらいのひとを一瞬で見てしまったような気持ちの悪さ(笑い)。
ここはもしかして上野のアメヤ横丁? 浅草の参道?とも見まごうほどのひとの波、ひとの波でした。

手にした入場券(観桜料として300円が必要)には入場10:38時点で4,120という数字が印字されていたのですから(この数字はこの日のそれまでの入場者数だと思う)、その混雑ぶりが分かろうというものです。

現地は緩やかな坂の連続で、老いたひとはヨッコラショ、ドッコイショと一歩一歩気合を入れながらの歩みであり。高齢者ならず若いひとも多かったし(勤め人は年休でも取ってきたのだろうか)、社会科見学なのか小学生の団体もありました(児童ひとりひとりがタブレットを持って撮影したり検索したりしていたのですが、時代は変わったものです)。

小一時間ほどして筆者たちが会場を出るころには、これから入場するひとは100メートルほどの行列になっていたでしょうか。
きっとこの日だけで10万人近くが訪れたのではないかと思われます。尋常じゃないです。
相棒の一言「滝桜は女王様!」(笑い)。然(しか)り!(笑い)

三春はまるでサクラの町、町のあちこちにサクラがあって、どこもかしこも見事な咲きぶりなのです。
本当に、三春の春は美しい。

もうここは(ルーザの森の早春とはちがって)春爛漫、春真っ盛りのポカポカ陽気…、どこをみても一片の雪もありません。
春は少しずつ歩んで静かにやってくるもの。にもかかわらず、クルマという便利な道具を使って春の風景を簡単に手に入れたことに、筆者には何かちょっとズルして近道をしたような後ろめたさが湧いたのも事実。

・・・

それから、三春から郡山を国道49号で西に抜けて、猪苗代湖に出ました。ここははじめての道のり、いいです、実にいい風景です。
近くの浜(上戸浜?)に見覚えがあると思ったら、大学時代にサークルで合宿した場所でした。
もう45年前、そこで近所の小学生と一緒に泳いだのだっけ。

志田浜から望む磐梯山。いやあ、何ともいい景色です。

相棒が作った句で筆者がとても気に入っているものがあります。
それは…、

褌の父輝いて猪苗代

幼いころに猪苗代湖に来て、父と一緒に遊んだ思い出を詠んだ句。その父は白い褌(ふんどし)を締めていた。
働きづめの父がつきあってくれた大切な時間と幸せな光景が猪苗代湖の風景と共に永遠になった。

国道49号から115号へ、それから459号に移って、磐梯山の東端を通ってなじみの裏磐梯に出ました。
下は、五色沼周遊の東の基点の毘沙門沼からの眺め、奥に磐梯山。

早春の五色沼の、湖水の美しさ。

氷わずかに残る檜原湖の、南端からの眺め。遠くに我がフィールドの西吾妻の山並も見えて。
いいです、実にいい。

今回の小さな春の周遊でよく分かりました。
私は季節のなかでも、冬の厳しさから解放され、雪が斑雪(はだれ)となってまだそちこちに残る早春が一番好きなのだと。
風はまだ冷たく、でもこれから確実にあたたかな春に向かうことが約束される早春、芽吹く前の、心騒ぐ早春が。

檜原湖から喜多方に抜ける山中で出会ったミズバショウ(水芭蕉/サトイモ科ミズバショウ科)。
いい風景です。

クヌギ(椚/ブナ科コナラ属)と思しき木に作られたヤドリギ(宿木/ビャクダン科ヤドリギ属)の玉の数々。
早春の青空に映えています。

喜多方より121号の旧道を通って、かつての国鉄日中線の熱塩駅に立ち寄りました。変わらずに保存されていてうれしかったです。
日中線は本当は栃木県今市市と米沢市を結び、会津と羽前をつなぐ交通の要衝となるはずだったのです。けれども支那事変の激化と太平洋戦争の開始にともなって事業は自然消滅したということです。
もし、全線が開通していたなら、現在のひととひととの交流や物流なども大きく変わっていたことでしょう。

何とも言えぬ、この木製の改札口。

構内に当時のラッセル車がけん引する形の車両が置いてあって、座ってみました。

このスプリングのきいた青いシート、茶色の木製の壁や背もたれ、列車の室内というのはこうでした、そうでした。
なつかしさが込みあげました。

駅構内にひっそりと咲いていたアズマイチゲ(東一華/キンポウゲ科イチリンソウ属)。
この白が春の訪れの証しなのです

そうして約200キロ近く走ってホームに戻れば(ああ、楽しかった)、早くおいでおいでと山が呼んでいます。

下は栗子連山のひとつ杭甲山(1,202メートル)。

西吾妻山(2,035メートル)と西大巓(1,982メートル)。
西吾妻は我がフィールド。グリーンシーズンの開業にはじまって、春に夏に秋にと今年もたくさん行くだろうな。
今は天元台スキー場のコースがしっかりと白く雪に覆われていて、雪形“白馬の騎士”を作っています。

あこがれの飯豊連峰。もう一度でいいから、行ってみたいなあ。
あの稜線のお花畑の素晴らしいことと言ったら。

遠くで今日も理不尽な攻撃が続いていると思うと、どうも気持ちが重たくなっていけない。
戦争は早く終わってほしい、これ以上犠牲は出ないでほしいと切に願うのだけれど…。

郷土の誇りでもある劇作家の井上ひさしがイギリスの歴史学者エドワード=トムソンとともに作ったという核廃絶のためのスローガン、「記憶せよ、抗議せよ、そして生き延びよ」が響いてきます。
とにかく素朴でも、声なき声でも、少なくとも反戦と平和への意思表示をしないといけないと思う。
戦争は絶対にイヤです、ひとを殺すのをやめなさい、早く兵を引きなさい、と。
そういう思いが地球上に満ちないといけない。

それじゃあ、また。バイバイ!

 

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