(市中よりここルーザの森に引っ越してきた翌年の)1994年の春、リビングでカモシカ(氈鹿、羚羊)をはじめて目にして(当時の)家族5人が勢ぞろいしての直立不動、そのすっくと立つ姿のカッコよさに一同興奮した記憶があります。
奥山深山に棲んでいるとばかり思っていたカモシカが、ひとの住む場所に現れるなんて! なんて素敵なことだろう!
息子がまだ高校の終わりだったか大学に行っていたかの2000年代初頭、帰り道で「イノシシ、見たよ」と言うではないですか。それは暗闇でのカモシカの見まちがい、てっきり冗談かと思いました。
イノシシ(猪)は短足にしてカモシカのように雪上を我が物顔で移動することは不可能です。ということは冬場に餌にありつくこと叶わず、したがって雪深い奥羽山系の西側に生息することはできない……、これがこれまでの通説であり納得できる説明だったものです。
けれども彼が目にしたと言ってからの10数年、今では(特に夜に)イノシシを見ることは特段珍しいことではなくなりました(相棒のヨーコさんはウリ坊を連れた親子や成獣の群れも1度ならず2度3度と見ているという)。
イノシシは生息域を確実に拡げて雪深い地域にも進出し、今やすっかり定着した感があります。定着したということは、短期間のうちに濃密な学習をし、雪に対応するすべを身につけたということでしょう。
冬を除く三季のイノシシは、土という土の見える野原や畑はまるで大型のトラクターででも耕したごとくのすさまじい掘り返しようです。そして土中のミミズ(蚯蚓)やケラ(螻蛄)などの動いて匂いのするものを好物として必死に探している風です(イノシシの嗅覚はヒトの1億倍という=青井俊樹岩手大名誉教授/野生動物管理学)。その他にも栽培もののイモ類やタケノコ、ドングリやクリの実を好むのだとか。
よって従来のサルやカモシカにイノシシが加わっての農業被害はたいへんなもので、それは年々深刻さを増しているのです。
と、暮れも押し迫った(2020年)12月26日のこと、何やら玄関口にお客様であるらし。
出てみると、猟友会のお二人がおいででした。
「この先でイノシシが獲れたので食べてもらうべど思って(もらおうと思って)。この道を使わせてもらっているお礼だっす。焼いたり、ジャガイモやニンジンと一緒に煮るのもうめがもしんねなっす(うまいかもしれないね)」ということでした。
道を使わせてもらっているなんてとんでもない、公道である林道をクルマはただスルーしているだけのこと。
要は、山からの恵みを射止め、撃った場所の近くの家へもおすそ分けということだったのでしょう。何とも律儀です。
わざわざのごあいさつ、しかもたいそうな量のイノシシ肉の手土産にはまったく恐縮してしまったものでした。
さてさて約2キロのイノシシ肉、どうしたものだろう。
あなたのお命、頂戴致しまする。合掌。
ナムナム、ナムカラタンノー、トラヤーヤー、だ(笑い)。
数年前にもこうしたお届けものがあって、その時は脂肪がたっぷりの部位で、豚の角煮ならぬ“猪の角煮”としてしっかりと味つけしていただいたのでした。
また大量の脂肪の部位は熱を加えて油を採り、それは調理用の油や傷の塗り薬として少しずつ使い(まだ十分に残っている)、油が出きった脂肪はカリカリのあられ(霰)のようで、それは酒のあてとして楽しませてもらったものです。
今回の肉はどこの部位かいざ知らず、脂肪はほとんどなく全体が赤身です。ならば、今さかんに試行錯誤中の燻製だな、ベーコンだなと思った次第。
とりあえずは大きなブロックを(先の利用を考えて)切り分けました。
そうしてまずは獣臭の臭み抜き。イノシシ肉が嫌われるのは、この臭みにあるよう。
切り分けた肉に塩を擦り込んでは水に浸して1時間、水を換えてまた塩を振って1時間、さらに水を換え塩をかけ…、それから沸騰させて粗熱をとって。
これで、野生動物特有の臭みが抜けます。水を換えるごとに染まった赤い色味は徐々に薄くなっていきました。
次は下味つけです。
今回の下味はソミュール液(塩をベースにスパイスやハーブを混ぜて酒や水で煮立てた液体)に浸すのではなく、“ふり塩法”で行うことにしました。擦り込みを経験しておきたかったのです。
塩とキビ砂糖、それにいただきもののローリエをたっぷり(ローリエはいろんなものに活用できるものです)と黒コショウ(胡椒)と、それから我が家の食生活を劇的に変えてくれたサンショウ(山椒)をたくさん挽いて。それらを混ぜ合わせて、ひとつひとつの塊にていねいに擦り込みました。
そして約1週間、外の冷蔵ケース(台所から続く屋根のかかった野外に属する場所。今この場所の温度は0~4℃ほどで、第2の冷蔵庫様)で寝かせました。
混合塩が内部まで沁みていくようにと、日に一度は揉んだり向きを変えたりして。
下は、寝かせて味がしみ込んだもの。その表面の塩や香辛料をきれいに洗い落としました。
それから流水で1時間ほど、そののちは8時間ほど冷水につけて塩抜きをしました。
ガイドブックにしたがって、ここでちょっと肉の端を切って熱を通して塩加減をみました。少々薄いかなと思うぐらいがちょうどよいということです。
塩加減はばっちり。
次は表面の乾燥が肝要なのだそうで、寒風吹きすさぶ2階のベランダに晒すこと24時間。
風乾燥を終えたのが下のもの。
今回のイノシシ肉は赤身がほとんどだし、ブタのバラ肉ベーコンのようにすべてを同じようにしてしまうのはどうしたものか。
ではと、3分の1ほどはビーフジャーキーのように細く薄く切って乾燥させて“ボアジャーキー”にしようと思いました(イノシシは英語でboarまたはwild boarなのだそうで)。
そうしてようやくのこと燻製器にたどり着くのですが、ここでもまずは燻すことなく電熱器による乾燥を1時間しています。
要するに燻製の大きなポイントは表面の乾燥状態だということが少しずつ分かってきました。乾燥が不十分であるとせっかくの燻しの煙がつきにくいのです。
燻製器の下段にブロック肉を吊り下げたところ。
その上に、吊り下げに適さないコロコロとしたものを網に。さらに上にジャーキー用の肉片を載せました。
せっかくの機会、さらにその上に(ソミュール液で下味をつけた鶏の)ササミを、そして最上段には大きなバーブロックのチーズを短冊に切って上げました。
今回の燻煙材は、大工仕事で出たナラ(楢)のカンナくずと短寸のナラを鉈で割ってスティックにしたものが主です。
それからほのかに柑橘系の香りがつくものか、乾燥させたミカンの皮も載せています。
雪が降りかからぬよう、そして煙が工房に充満せぬようシャッターの真下にて。
火番の筆者はモコモコに着込んで寒さ対策です。かたわらに“金麦”をおいて(笑い)。
雪は小降りに小止みして、雪景色を見ながらビールをのどに通す燻製の時間はいいもの。これこそ至福というものです。
燻煙材が燃え尽きる頃でもあり、燻し1時間でいったん電熱器を止めてカンナくずを再投入します。
ここで(網にくっつかないようにクッキングシートを使っている)ササミやチーズの裏返しを。
そうしてさらに1時間燻して(ここでチーズは引き上げ、)(その他は燻しを行わない)熱乾燥をさらに1時間続けて終了したのでした。
本格的な燻製とは、何と手間と時間がかかることだろう。
でも、こうした手間暇が燻製の虜(とりこ)にしていくんだろうね。
もう自分も燻製の“沼”にはまり込んでいます(笑い)。
熱乾燥を1時間加えてさえもササミ(ジャーキー)はまだ生っぽいし、ボアジャーキーも柔らかそうで完成のイメージとは違います。
それで鶏のササミもボアもさらに乾燥が必要と思い、場所を移して今度はヒュッテの薪ストーブの上で朝まで乾燥を続けた(火は弱火を心がけた)という次第です。
そうしてようやくにできたのが、こちら。
ササミもボアジャーキーも、んーん、イメージ通り(笑い)。
とりあえずここで、ササミジャーキーを試しに食べました。
その感想を率直に言うと、まずこんなにうまいものがあったのかというほどの感動でした(それは上質な“鮭とば”に似ていた)。
これぞ燻製の魔法、これぞ燻製の威力というものです。
ボアのベーコンとジャーキーは1日寝かせていただきました。
ベーコンは知らずに食べたらやはりブタのよう、塩味が程よく効いておいしかった。
ジャーキーは歯ごたえ十分で噛んでいるうちに味が口の中に広がっていきます。これは、おかずというよりも酒のあて、ビールの友だね。
あなたのお命、頂戴致しまする。合掌。
ナムナム、ナムカラタンノー、トラヤーヤー、だ(笑い)。
上は、ボアベーコンを薄く切って、ただ火を通したもの。
下は、油をひいて焼いたもの。こっちが断然おいしい。
マーケットでの肉はスチレンのトレーに行儀よく収まり、いかにもおいしく食欲をそそるように並んでいるけど、本当は生きていた命が背景にあって、ひとが食らうために息の根を止め、そしていくらかの手を経て加工されて店頭に並び、それを買って食らった者がひと日の命を長らえられる…、食事というのはこういうこと、肉を食らうというのは。
筆者の一連のイノシシ肉の加工でこのことを身をもって感じたのは事実。食べるというのは決してきれいごとではありません。だから感謝なのだと思います。
下は、3年ほど前に山菜のコゴミ(クサソテツ/草蘇鉄)採りに行った際に谷間で見つけたイノシシの頭骨。
(発見した時はちょっとした怖れがあったけど)貴重なものと思って持ち帰り、約半年のあいだ土に埋めて(微生物によって残っている有機質を分解してもらい)、掘り出して洗ってきれいに仕上げました。
現在はオブジェのひとつとしてギャラリーの棚に飾ってあります。
何も知らなかった筆者はこれをしばらくはツキノワグマ(月輪熊)のものと思っていたのですが、たまたま家においでになった(筆者が勝手に師匠と呼んでいる)地区の猟師のSさんがこれを見て言うには、「これはクマでない、イノシシの頭」と笑ったのでした(のちにSさんからは自分で射止めたツキノワグマの頭骨をありがたく頂戴し、それは今、ヒュッテの棚に大切に祀ってあります。何せツキノワグマは山の神様ですから)。
そのSさんとこの年明けに話したところ、こういう雪深い時にイノシシは河原にいるということです。
あたりが雪で覆われ餌を探せなくなるとイノシシは流れる川の端にわずかに生えている緑の草を食べて日々をつなぐのだという。したがって猟師は雪の上に足跡を見つけたら、それを追えば川で草を食むイノシシに会える、それを狙って撃つのだと。
そういえば、猟友会の方が肉を持っておいでになった2日前、近くの川で銃声音がしていたことを思い出したのでした。
Sさんがさらに続けるには…、今の猟師は昔と違ってクマやイノシシなどの山の恵みを授けてくれるよう山の神にお神酒をあげて拝むようなこともなくなってきたとも語っていました。
山に対する敬虔な気持ちを失くして獣と対峙するようになってきたのは時代の流れとはいえ少々寂しくもあり、如何ともしがたいことでもあり……。
時に相棒と自分らの幼いころ(ふたりが生まれ育った1950年代後半から60年代)の話をするのだけれど、相棒も筆者も幼いころに(豚にしろ牛にしろそして鶏にせよ)肉というものを買って食べたという記憶がほとんどないのです。
“ライスカレー”に入っているのはせいぜい魚肉ソーセージの半月だったものです(“ライスカレー”はいつから“カレーライス”になったのだろう)。
肉は当時、裕福とは言えない家庭には買うことかなわぬ遠い存在だったのだと思います。
ということで筆者の家では、年に1度か2度、近くの養鶏場で卵を生さなくなった鶏をもらってきては父親が屠殺しさばいて料理をしました(真白い雪の上で、首をスポンと切れば鮮血が噴出してあたりが赤く染まった光景! 首を落とされてさえ鶏は雪の上を動いていたことの衝撃的な光景!)。
さばいた腹の中には、卵になれなかった候補の黄身の小さな玉がいつくも連なっているのでした。
その黄色い、鈍い光!
その煮物は確かにいい味がした。
筆者の家ではまた、兎(ウサギ)を飼っていたものです。
萱屋根葺きだった父は仕事で汚くした身体で帰ってきては周りの草を刈って兎に与えていました。愛玩でも観賞用でもないのです、大きく育てて屠殺して食うためです。
冬場に兎鍋を食べたけれども、兎の肉はしなっこく、とにかくしなっこく、その食感の記憶だけは今でも消えることはありません。
そうして当時の家族は肉を欲し、ようやくありついて肉を食べて身体をつないできた側面もあったと思うけど、このようなことはけっして特殊な例ではなかったと思います。戦中戦後の食糧の乏しい時代を生き抜いた世代では、当たり前であったはず。
でも、それから筆者は少年期を過ごすうち動物の肉という肉がとても苦手になり、小学校の後半には給食に入っている肉はひとつずつ箸でつまんで隣りや友人にあげていたものです。
肉を粗末に扱ってはならない、肉はありがたく頂戴するものと思わせてくれたのは、ここで森暮らしをしてからかもしれません。
ともかくもいただいたイノシシの命、決して無駄にいたしません。
イノシシを食らう…、そうして筆者たちの記念すべき2021年の幕は開いたのです。
*
さて、言うに及ばず世の中は新型コロナウイルス騒動で四方八方が塞がっているような、暗い年明けです。
みんな、「希望を持とう」とか「元気を出していこう」なんて言っていてもその裏返しの現実は“暗い”わけです(紅白歌合戦をほんの少しだけ見たけど―あいみょん見たさに―笑い!、実に暗かった。司会者が盛り立てようと笑えば笑うほどに、明るくすれば明るくしただけ)。
これは、1億総気鬱と言ってもいいのでは。
こんな状態は、いったいいつまで続くんだろう?
地区のさいど焼き(左義長、どんと祭…小正月の火祭りの行事)も、途切れることなく続いてきた新年会も中止になってしまったし。今年もいろんな行事やイベントが行えないのではないのか。
出口の見えない中でどう生き延びるか。その上でどう乗り越えていくか。
で、
♪ そんな時代もあったねと/いつか話せる日が来るわ/あんな時代もあったねと/きっと笑って話せるわ
だから今日はくよくよしないで/今日の風に吹かれましょう♪
……「時代」 w&m 中島みゆき
なんか今、みゆきのこの歌がこころに沁みるんだなあ。
それじゃ、バイバイ。
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