毎日のように天候はぐずつき、気温と湿気ともに高くしてムンムン、とにかくうっとうしいです。
例年だとここらへん(東北南部)は(7月)23日、24日頃の夕方に雷が鳴って驟雨(しゅうう)が来てヒグラシの合唱は最高潮、そうして翌日には真っ青な空が用意されるというのが普通なのだけれど、今年といったらいまだその気配さえ感じられません。
梅雨明けはいったいいつになるんだろう。
そんな中筆者とすれば、約10か月に及んだ工房の増築がようやく終わり、工房全体のレイアウトと用具道具の保管場所もほぼ決まって整理整頓もつき、いつでも誰に見にきてもらってもよい状態となっています。
その区切りをもって今後の仕事を見通せば、さしあたって数えられるのは薪作りと家庭菜園の縁(へり)作りです。
ここに住みはじめて27年、(広い土地がありながら)今まで家庭菜園を考えてこなかったのには理由があります。筆者も相棒のヨーコさんも長い間勤めを持っていてウィークデーの日中はまるきり不在になること、それは目が行き届かずに野生のサルやカモシカに作物が生る早々に食べられ持ちさられてしまうことを意味します。
かつて工房前のサークル花壇の中心には夏ともなればたわわに実をつけるハタンキョウ(巴旦杏=スモモの一種)の木があったのですが、実るが早いかサルの群れが押し寄せてまるで食い散らかして去っていく様は憎たらしいったらありゃしなく(ひと口かじっては捨てるという食い方には同じ霊長類ながら頭にきたものです。ハタンキョウはそのうちに枯れてしまった)。
よって、とても戯画みたいだけれど、このへんで作物をつくるというのは、畑の四隅に支柱を立てそこに網を張り巡らしてまるで動物園の檻に入っているごとくに作業にいそしむという、とても笑うに笑えぬ図なのです(今は電気柵がずいぶんと普及し始めている)。
けれども筆者は勤め人生活からは解放されて常の工房のひととなり、相棒も常勤から非常勤嘱託となって時間に余裕も出て、それならわずかなら、あこがれの菜園を作れるかもしれぬと思いはじめたわけです。
せっかくの森の中の菜園、絵のように美しいとまでは言わぬけれども、畑の縁(へり)は加工した石とレンガで作りたいと思っているのです。縁ができたらそこに土を入れ、トマトやネギやキュウリなどを育てて収穫を楽しみたい。ドイツのクラインガルデンのような、ロシアのダーチャのようなね(笑い)。
ただ、石の細工はとても大がかりになるので、まずは薪作りを優先させ、終わったら石工になることとしました。
薪小屋ふたつあわせて4つある区画のうち、残りひとつがまだスカスカなので、これを埋めるべく作業をはじめました。
下の大径木(“大径木”を厳密にいうと胸高70センチの位置で直径70センチ以上のものを指すようだが、ここでは単にØが大きな木の意味)は隣接の林の入り口にあったものを、電線の“支障木”として電力会社(から委託を受けた伐採の会社)が伐ったもの。
年輪を数えたら、52年の歴史がありました。ということは筆者が小学6年の頃にここに開拓に入り(ここは戦後の開拓部落なのです)、それ以来の伐採だったということです。
ラジオからは、両国国技館からの大相撲中継(声を出しての応援は自粛するようにとの協会からのお達しのようで、異様に拍手だけが響いて。こういう空気がバカな戦争へと突き進んだ天皇制国家への忠誠を生んだのでしたね。似て非なるものと思いたい向きもあろうけど、筆者にはどうもにおってしまうんだ)。
これで相撲というものも味があるもの。勝負の妙味が薪割りの作業にこころよく入り込んできます。
音声からの想像だけど、霧馬山というモンゴルからの力士、それから琴勝峰という20歳の若武者の相撲センスはいいね。このふたり、白鵬の引退後は朝乃山とともに角界をしょって立つのではあるまいか、どうだろう。にわか評論家ながら(笑い)。
筆者がかつて勤めを持っていた時、職場の同僚の先輩が何気に放った言葉が今も印象に残っています。
「米沢の春、夏、秋っつうのは、冬のためにあるんださな」。
これはどういう文脈で出たものだったかは忘れたけれども、同じ県南部の置賜(正式には“おきたま”だが、古い人間は“おいたま”と呼びならわす)地方ながら出身が米沢ではない筆者にとってそれは新鮮な響きでした。
米沢は豪雪の地、米沢の春、夏、秋は、冬のためにある……、今にすれば、生粋の米沢人であった先輩にとっては自虐的な響きを含んでいたことに気づくのですが……、つまり、春になれば結構な時間をかけて雪囲いをほどき、その材料(支柱として長いもので4メートルもの杉丸太を何本も。側板=そっぺ板=皮板を何枚も)は専用の保管場所に大切にしまわれ、夏になれば支柱の材料を原木の皮をはいで作って(または買って)更新し、腐って用をなさないものは細かく刻んで芋煮会用の薪にし、冬を見越しての食糧の保存を気にかけ、秋深くなれば除雪機が雪の上を動き回る道すじを想定しては石ころなどの障害物を取り除き(浮いた石ころを除雪機がかんでしまうと鉄砲のようにガラスを直撃したりするのです。筆者はこれで、クルマのフロントガラスをやっちまったことがありました、涙でした)、通行目印の竹の棒を立て、そして最も肝心な、雪で倒れたりつぶれたりしないようにと庭木にていねいに木組みして囲み、家屋や小屋のガラス窓が割れないように保護板を取りつけ、先祖代々の墓をも気にし……、そうしてそれ相当の時間を割いて準備をして(緊張感をもって)冬を迎えるのです。
米沢に住む者にとって冬を越すというのは何よりの生命線で、冬以外の季節にも冬のことを気にかけていなければならない、それが宿命なのだというわけです。ましてや冬場の雪との格闘のつらさは言うに及ばずです(こと高齢者にとって雪は、恐怖感をともなって襲いかかる忌まわしいもの)。
雪国、みんなそうですね。
米沢の春、夏、秋は、冬のためにある……、正解です。
で、町場でさえそんな意識があるのですが、ここ郊外のルーザの森の積雪といったらアメダスデータの約1.5倍ほどになります。
普段の年の最高積雪深は150センチほど、今まで経験した中では265センチというのがありましたかね。こうなるとやはり尋常ではないです。
そして我が家では4つの薪ストーブ(他に補助暖房として対流式の石油ストーブがひとつ、石油温風ヒーターがひとつ)が暖房の主役ときています。
薪なくして、冬はとうてい越せないのです。だから、薪つくりこそは欠くべからざる作業なのです。
客人があってお茶飲み話をしていると言ってきます。
いやあ美しい環境だ、花々が美しいし緑はみずみずしい、紅葉は見事だ、水がきれいだ、この静けさと言ったら、この緑に触れていると120歳まで生きられるような気がしてくるよ(笑い)……、と。そして中には、お金を出してでもこの空間とこの時間を買いたいほどだ、などとひとしきり感動してはほめたり憧れをにじませたりもするのです。が、ほぼ十中八九、言葉を継いでこう言います。
「ところで、冬はたいへんでしょう、雪はどれぐらい降るの?」と。
「奥さんて、理解のある方なんですね!」、と(笑い)。
(でもこのひと言、いったい何を言いたいんだろう!?)。
つまり客人は、たまに訪れて自然の美しさに触れるのはいいけれど、雪のことを考えると住むなんてとんでもない、まっぴらだ、と言いたいわけです。
町場暮らしに慣れたひとのステレオタイプ、壊れたレコードのようなくりかえしはいつもの情景です。
そこで筆者は軽くあしらって、「ここに暮らしていて、いやだと思ったことは一度だってないですよ」と返すのです。
筆者の発想は、美しい場所に住みたい、薪ストーブのある暮らしがしたい、手をかけてていねいに暮らしたい、生活の実感をたえず持っていたいということ。それを享受できるなら、その目的の達成のためなら、そのための時間や労働はいとわないということなのです。
(どうして希望とあこがれに対抗させるかのように不便と苦労を天秤にかけたりするんだろう)。
米沢には雪が降る、だから冬以外の季節も冬のことを気にかけなければならない、冬を迎えるために準備を怠ってはいけない……。
この、準備を怠ってはいけないというのがいいと思うのです。
ひとはとかく思い上がる動物だけれど、先を見越して準備が必要なところに住む(あるいはそういう場所に自らを置く)ということは思い上がりから少しでも離れることができるように思うのです。
だから、今日もチェンソーを唸らせます(冬のさなかの、薪ストーブのあたたかさが思われ)。
だから、今日も斧を振り下ろします(外は吹雪でも、薪ストーブの上ではクツクツと鍋が煮えており)。
だから、今日も割った薪を運んで小屋に積み上げます(朝の、薪ストーブの上のやかんがシューシュー)。
少しでも動けば汗が吹き出し、日に2度3度と衣服一式を洗濯機に放り込んで、その都度水風呂を浴びて。
あと少し、あと1列、ガンバレ!
*
と、天気予報を眺めていると、(7月)23日だけがぽっかりとした梅雨の晴れ間ではないですか。
夜空は満天の星。
こうなるとモゾモゾソワソワ、ワクワクとして薪作りのことなどどこへやら(笑い)、薪作りなどどうでもいいから後回し後回し(笑い)、思いは山に飛ぶのです。
翌朝の晴れ上がった美しい空。
晴天に(海の日という)休日と、さらにはお上(かみ)がはじめたGoToキャンペーンの開始(第2次の感染拡大期に観光業の経済対策というのはどうしたもんだろう。ブレーキとアクセルを一緒に踏むような愚かしさ)が重なってか、西吾妻の玄関口の天元台高原のロープウェイの駐車場の混みようと言ったら。
下は、ロープウェイからの駐車場の様子だけど、もう超常連の筆者にしてこんな光景ははじめてです。これは、第1と第2駐車場のものだけど、第3も第4もすべて埋まっているのですから驚きです。
ロープウェイ内では、乗客は定員(40人)の半分以下に、マスク着用の義務、会話の禁止と感染防止策の徹底ぶりです。
いやあ久しぶりです、飯豊連峰の雄姿。青い山並みが本当に美しく。
ワタスゲ(綿菅/カヤツリグサ科ワタスゲ属)は綿を風になびかせて。
西吾妻の最大のお花畑の大凹(おおくぼ)の水場は冷たい水をめぐみ。
たぶん西吾妻に精通している者以外は知らない秘密の場所で。
キヌガサソウ(衣笠草/シュロソウ科キヌガサソウ属)は放射線状に開く葉の周囲の直径が40センチほどもあるもの、そこに清楚な白い花が1輪咲くのです。今がちょうど見ごろです(心無い者による盗掘などなければいいな)。
西吾妻山への道は、こんな岩がゴロゴロしています。
登山に不慣れなひとはこんな場所でもトレッキングポール(杖)を突いてくるけれども、当然ながらこれは危険です。安全にはふたつの手を自由にして周りの樹木や岩をつかむことが大切。
梵天岩(2,005メートル)から東方を見ています。
遠景中央に今も轟音とともに水蒸気噴き上げる活火山の一切経山、それに東吾妻山が見えます。
7月半ばに弥兵衛平湿原に行った時と同じく、西吾妻は今一面にハクサンシャクナゲ(白山石楠花/ツツジ科ツツジ属シャクナゲ亜属)が咲き誇っています。すばらしい彩りです。
道々にミヤマリンドウ(深山竜胆/リンドウ科リンドウ属)の青い星。
西吾妻山山頂(2,035メートル)にて。通りがかりの登山者にシャッターを切ってもらいました。
と、山頂から西吾妻小屋(避難小屋)に向かう途中の景色に目を奪われました。
何と、檜原湖の上方にこの前歩いてきた雄国沼が浮いているではありませんか。登山口であった八方台から猫魔岳、沼に下りる登山道そのままがパノラマのごとくに現れたのにはびっくりです。今までは、何気に湖があるなぐらいにしか思っていなかった眺望にいたく感激した次第で。
ツルコケモモ(蔓苔桃/ツツジ科スノキ属ツルコケモモ亜属)が小屋近くの湿原に。実はクランベリー。
ほれぼれするほどに美しい天狗岩の岩海。
登山道わきに、ハイマツ(這松/マツ科マツ属)の青い果実を食べた跡が。
生物はこんなものまで食べて命をつないでいるということだね。鳥だろうか(確かにここにはカッコウやウグイスはいるけれども)、獣だろうか(だとして何だろう)。
初々しいスギゴケ(杉苔/スギゴケ科スギゴケ属)の中に、すっくとしてギンリョウソウ(銀竜草/ツツジ科ギンリョウソウ属)が。
8月の初旬には北東北の高峰に行く予定にしているけれども、今回の西吾妻山行きはよい足慣らしでもありました。
今回の山行きはサブの話題ということで、このへんで。
*
梅雨時の今のルーザの森には、クマヤナギ(熊柳/クロウメモドキ科クマヤナギ属)の実が。
実が黒熟すると食べられます。少々渋みは残るけど甘くておいしいです。この実の果実酒もおいしいです。
強靭でしなる枝はかつては輪かんじき(雪の上を歩くために靴の下につけるもの)を作る際の括りの紐にもしたということです。
あちこちにヤブカンゾウ(藪萱草/ススキノキ科ワスレグサ属)が咲いています。
ヤブカンゾウの花は中華料理の食材“金針”として珍重されるのだとか。
近くを歩くと、ネジバナ(捩花/ラン科ネジバナ属。別名にモジズリ)が。
野生の花の美しさ。
そして今年も咲きました。それにしても清楚にして優美なカワラナデシコ(河原撫子/ナデシコ科ナデシコ属)。
女性の美称“大和撫子”の撫子も、“なでしこジャパン”のなでしこも、このカワラナデシコですよね。
「この花の花束をもらってうれしかった」と言って、臨時の花壇にヨーコさんが植えたヒャクニチソウ(百日草/キク科ヒャクニチソウ属)も咲いて。
この彩り、あっ、節子ちゃんが好きだったサクマのドロップス!(アニメーション『火垂るの墓』より)。
花壇に、ヒメヒオウギズイセン(姫檜扇水仙/アヤメ科ヒオウギズイセン属)。
今年は例年にないたくさんの花です。
そしてこの時期にひときわ目立つのはヤマユリ(山百合/ユリ科ユリ属)です。今、家の敷地内に8株ほどが咲いています。
白い百合では園芸種のカサブランカが有名だけれど、ヤマユリはそれをしのいで豪華。
カサブランカに対抗にして、名をつけてみました。ブラサガランカナ・ゴージャスってね(笑い)
さあ挽回挽回、あしたは最後の薪作りをします。
そいじゃあ、バイバイ。
※写真にはいずれも拡大機能がついています。クリックすると拡大します。また、スライドショーもできます。