森の生活

茨木のり子「六月」をめぐって

茨木のり子「六月」をめぐって……。

さて何からはじめようかと考えていたのだけれど、まずは4年前(2016年)の7月の北海道旅行から。
筆者は15年3月末をもって勤めの生活を終え新たなスタートを切ったのだけれど、その区切りにと北海道を歩いてきました。約1週間の日程で、相棒のヨーコさんとともに。

新潟より新千歳へ稚内へと飛行機で、さらに船でその日のうちに礼文島へ。礼文に2日滞在の後、稚内に戻ってレンタカーで南下、旭川へ札幌へ、帰りのフェリーの出発地の小樽への道のりでした。
梅雨のない北海道はどこもさわやかな空のもと、快適な旅でした。

下は、立ち寄った稚内公園にある、本郷新の見事な彫像の「氷雪の門(樺太島民慰霊碑)」。


北海道は学生時代以来もう何度も足を運んでいるところではあるけれども、今回の旅の友にしたのは『デザイントラベル北海道』(D&DEPARTMENT PROJECT 2009)というものです。一般の旅行書とは一線を画すデザイナー的視点が特徴的な内容です。
で今回、この本に紹介されていて実際に行って感激したところは多いのだけれど(例えば、旭川郊外東川町の山の奥の奥に家具工房とストアとカフェが忽然と現れる“北の住まい設計社”、美瑛の畑の中のペンション“薫風舎”、彫刻家の安田侃(かん)の作品が点在する“アルテピアッツア美唄”等)、札幌の“北海道知事公館”もそのひとつ。

知事公館は長い間役所勤めをした従兄と一緒に行ったのだけれど、彼曰く、「札幌市民にして(存在は知っていたが、一般に開放されているとは)知らなかった」という穴場中の穴場なのです。
広々とした庭園に瀟洒(しょうしゃ)な洋館(1936年築の旧三井別邸。登録有形文化財)はまるでイギリスの田舎の屋敷風情です。
公館内部は調度やしつらえも一見の価値ありの歴史が刻まれたものばかり。そして暖炉のある部屋の壁面を飾ってあったのが、茨木のり子の「六月」という詩の書でした。
いやあ、感激しました。ずっと心に留めていた詩人の、ずっと大切に蔵(しま)っていた詩だったので。こんなところで会えるなんて。

下は、知事公館の庭から。

下は、知事公館の暖炉の間に掲げてある書。揮毫(きごう)は札幌在住の書家・中野北溟( ほくめい)氏のものだとのこと(書に疎い筆者は友人から教えてもらった)。

かつて公立学校に職を得ていた筆者は、1981年から12年間にわたって学級通信を編んでいました。
筆者の場合、毎日あるいは頻繁な数の発行ではなく月に数度、1枚のペーパーではなく数ページにわたるパンフレット的な形式のもので、その表紙を日本の現代詩で飾っていました。
表紙を詩で飾るというスタイルは、教育評論家の故・村田栄一氏(1935-2012)の『学級通信ガリバー』(社会評論社1973)からの直截的な影響です。彼が小学1年生を担任した時の記録である「ガリバー」は読み物としても教育論としても特別なものでした。これは学校現場にあった筆者の、有力なテキストでもあったのです。
表紙を詩で飾ることにしたので、どんなものがよいか、どれが季節に合っているか、生活のテーマに添っているのはどれか、今自分が伝えたい思いを語ってくれそうなのは何かなど、筆者は生活の一部として毎日のように詩を気にして読みあさるようになりました。古本屋に出向いて安価なものを買い込み、時に思い入れの詩人の詩集を蒐集しました。そうして詩に親しみ、詩を読むよろこびを知りました。
そんな中で出会ったのが茨木のり子(1926-2006)であり、「六月」だったと思います。

下は、夫の三浦安信氏と(1953年)。

web;kurashijouzuより
週刊ポスト2010.12.17号より

「六月」

どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける

どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる

 

知事公館はどうしてこの詩の書を掲額したのかはいざ知らず、自分も書を飾るのであれば「六月」がいいなと思っていて、(先にも触れた)友人の書家、気仙沼在住の山内松吾君に依頼したのです。何度かの彼のエスキース(習作、彼の言葉で“草稿”)のやり取りがあった末に届いたのが下のものです。ずぶの素人評ながら、作風は自由闊達、躍々とした筆致とすればよいか、造形的にも美しい文字列で気に入っています。
書は今、手作りした額に収め、主屋の玄関口を飾っています。
(書の下の忍者風のマスクの“首”が気になる御仁もあろうかと思います。これは、庄内地方を中心とした女性の作業の時の日除け、ハンコタンナというものです)。

最初に「六月」を読んだとき、この詩は、かの樺美智子(若い日の筆者は、彼女にずいぶんと思慕を重ねました)が犠牲になったあの(戦後日本の針路を決定づけた)60年安保闘争、それを象徴的に言い表す“6.15(ロクテンイチゴオ)”をオーバーラップして作られたものではないか、よって題の「六月」は1960年を念頭にしたものではと思ったものでした。
それは当然にも、第3連の“美しい~力はないか”から“鋭い力となって たちあらわれる”という詩句と闘争を結びつけた連想でした。
茨木のり子は単に政治的な言葉で状況を撃つのではなく、抒情的小道具(労働のあとの癒しのビールや菫色の夕暮れなど)をかぶせて、詩的世界を作り上げたのだと。

それは違いましたね。
よくよく関連書籍(『花神ブックス1  茨木のり子』(花神社1985)など)を読み返してみると、この詩の初出は「1956年6月21日、朝日新聞」とあります(だいたい、所収の第2詩集『見えない配達夫』の発行が1958年なんだから)。
1956年6月21日?!、えっ、えっ?! そしたら、筆者のまさに生まれた日の前日、そうするとワタクシという一個はこの詩に祝福されながらこの世にやってきたということ?!(笑い)。これはすごいことになってきました(笑い)。
そんな重大なことが事実なのか、確かめたくて、息せき切って図書館に駆けだしました(笑い)。そうして、倉庫に眠る1956年6月の朝日新聞の束を出していただき、「六月」の詩を探しました。
ところが、どう探しても6月21日に「六月」の詩はないのです。どうしてだろう、どうしてだろうといぶかっていたら、ありました、ありました、それも1日遅れの、それこそドンピシャ6月22日の新聞に。何のことはない朝日新聞本社版が21日で、当時の東北版は1日遅れの掲載だったというわけです。
とするとワタクシという一個は、「六月」と機を一にして此の世に出てきたというわけです。因縁浅からぬ仲です。

下は、詩「六月」の初出の、実際の新聞のコピー。「学芸」という枠の中にあって、税金の話がスペースを埋め、その左下の片隅に小さく出ています(第3連が切れているのは、大枚の綴じのめくりのため)。
新聞を見るに、「六月」の最初は、第2連の4行すべてが3字下がりだったことが分かります。今に知られる“鍬”と“籠”が、初出ではひらがなですね。
どんな経緯で、ここに載ったものか、新進気鋭30歳の若き詩人に新聞社が依頼したものか、はたまた彼女自身が朝日に売り込んだものか。

どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける

一日の仕事の終わりに黒ビールだという、それも男も女もこぞってというのがいいです。筆者は作業現場の道具を片づけ、掃除を終えて即、“金麦”をグビグビです(笑い)。
鍬と籠は土を相手にした敬虔な労働の証し、そのあとのささやかな慰労とご褒美と祝福のさわやかさ。

 

どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

今でなら午後6時半頃のこと、“すみれいろした夕暮”がいいね。
“食べられる実をつけた街路樹”とは何ぞや。街路樹として成り立ち、それは食べられる実をつける、しかもそれは6月なんだろう。
6月に実をつける木ならサクランボ(セイヨウミザクラ=西洋実桜)の他はグミ(茱萸)やヤマモモ(山桃)ぐらいしか筆者には思いつかないのだけれど、サクランボにせよ、グミにせよヤマモモにしても、どこまでも続く街路樹のイメージからは遠い。実る時期をずらして、ヤマボウシ(山帽子)だとして、あまり食欲をそそるものではないし。

 

どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる

この3連目の4行はとりたてて立ち止まるところはありません。

こうして見てくると、この詩というのは、“どこかに美しい村はないか” “どこかに美しい街はないか” “どこかに美しい人と人との力はないか”として、今はないが望んでいる、ここにはないがどこかにあるかもしれないという夢想と希求を基調としていることが分かります。それは、彼女に生起した心象中のユートピアでしょうか。だから詩は、それがどういう場所なのか、どういう街路樹なのかも判然とせず、そんなあいまいなイメージゆえの美しい詩的世界なのだと思います。

少なくとも「六月」のイメージは日本ではない。
筆者は今までこの詩の情景を現実の世界に置き換えたことがあったのだけれど、そのひとつが“アーミシュ”。
アーミシュは、アメリカ合衆国のオハイオ州・ペンシルベニア州・中西部やカナダのオンタリオ州などに住むドイツ系移民の集団です。彼らは移民当時の生活様式を守るため電気を使用せず、現代の一般的な電話なども家庭内にはないとのこと。原則として現代の技術を生活に取り入れることを拒み、近代以前と同様の生活様式を基本に農耕や牧畜を行ない、自給自足の生活を営んでいるという。現代にあって、この厳格な美意識と戒律は異様ですが実際のことです。

下は、東京の友人が贈ってくれた写真集『“シンプル”という贈り物~アーミシュの暮らしから』(ビル=コールマン著フレックス・ファーム2002)より。写真から伝わってくるのはとても信じがたい世界です。
ここには本当の労働がある気がする。

そしてもうひとつは、ルーマニアの北部、チェコやウクライナと境界を接する“マラムレシュ”。筆者の愛読書であった『羊と樅ノ木の歌 ルーマニア農牧民の生活誌』(みやこうせい著、朝日新聞社1988)からのイメージです。
写真はいずれもweb上に公開されているみやこうせい氏によるもの。
マラムレシュの人びとは、現代人が疾(と)うの昔に置いてきぼりにしてきた自然にひれ伏しつつ素朴な労働が日々を支えている、そんなイメージを抱かせるのです。
(現在のマラムレシュは、ルーマニア正教会の木造聖堂が世界遺産に登録されており、俗化、観光地化が進んでいる現実は否めない)。

「六月」創出の1956年、茨木のり子30歳。
1956年は、日本がバカな戦争に敗れてからたった11年の時です。彼女の青春は戦争の真っ只中、“わたしが一番きれいだったとき”は“男たちは挙手の礼しか知らなくて” “きれいな眼差だけを残し皆発っていった”という(詩「わたしが一番きれいだったとき」)。
青春を戦争に奪われた茨木のり子が強く希求したコミューンのイメージ、それが「六月」だったのでは。そしてこのイメージは彼女の生涯を貫いていたのだと思います。

とここまで記してきて、はっと気づきました。
題名を伏せて、詩の本文だけを読んでイメージした時に、この「六月」という題は出てくるか、導きだせるか、結びつくのかと。否、です。これは題が先にあって、そのあとに詩句を連ねたのではないかと。
なぜ? それは、彼女の誕生日が6月12日、6月には誕生月として特別な思いがあるから。人一倍己の人生を恋い慕い充実したものにと願った彼女ならではの題名だと。コミューンの希求をもって、自分を祝福したのだと。
上は、筆者の直感による新説だけど(笑い)、もしかして的を射ているかもしれない。

茨木のり子の詩集、ことに第1第2第3の詩集である「対話」「見えない配達夫」「鎮魂歌」を収録した『現代詩文庫20  茨木のり子詩集』(思潮社1969)は、ページを折ったり線を引いたりして読み込んで、触って撫でてもう薄汚れています。

筆者が感銘を受けた茨木のり子の詩をちょっと紹介すると(きりがないのだけれど)……、
“もっともっと貪婪(どんらん)にならないかぎり/なにごとも始りはしないのだ”が印象的な「もっと強く」。

焼け跡で、“若かったわたくしは/ひとつの眼球をひろった/遠近法の測定たしかな(略)//たったひとつの獲得品/日とともに悟るこの武器はすばらしく高価についた武器”の「いちど視たもの」。彼女をしてこの決意を終生変わることなく持ち続けた。

“短い生涯/とてもとても短い生涯/六十年か七十年の”を冒頭に掲げて、死ぬときになって、“本当に生きた日”の少なさに嘆くだろうと予測する、己の生を後悔せぬようとしたためた「ぎらりと光るダイヤのような日」。

“わたしが一番きれいだったとき”国は戦争で負けた、“とてもふしあわせ”で“めっぽうさびしかった”として、“だから決めた できれば長生きすることに/年とってから凄く美しい絵を描いた/フランスのルオー爺さんのように/ね”(“ね”は、“ように”の“に”の隣り)とした「わたしが一番きれいだったとき」。

“ささやかな邂逅を逃さないために”、“いつもちゃらちゃらさせていよう”、“銀貨の三枚や四枚”が印象的な「せめて銀貨の三枚や四枚」。

早春の海に出て鯛を見る。餌付けされた鯛は外洋に出ない。それを“鍛えられた美しさを見せぬ/怠惰な鯛の ぶざまな大きさ”と指弾し、最終に“愛もまたゆうに奴隷への罠たりえる”と結句する「鯛」。これは、自由よりも餌付けされた身を愛するかっこ悪いヒト属への揶揄ですね。

戦争責任を問われた天皇ヒロヒトが“そういう言葉のアヤについて/文学方面はあまり研究していないので/お答えできかねます”と言ったことを受けて矢を放ち、と同時にそれに何らの反応を示さないジャーナリズムおよび民衆総体を痛烈に批判した「四海波静」。

そして「準備する」、「汲む」、「りゅうりぇんれんの物語」、「みずうみ」等々、等々。

そして何より、ずっしりと筆者の心に響いたのは「花の名」という詩です。
父親の葬儀を終えて乗り込んだ列車に同席した客との会話の風景が映像のように流れていきます。客は、“千住に住む甥ッ子が女と同棲しちまって/しかたないから結婚式をあげてやりにゆく”という。どこまでも陽気な客と、父親を見送って、静かにいたい、沈み込み塞ぎ込んでいたい〈私〉がその他愛のない会話の故にかえって父親の生前の面影が想起され、娘としての思慕が深まっていくのに気づくのです。
花の名を聞かれて辛夷の花と泰山木を間違えて客に伝えたことが表面上の詩の貌を取り繕っていた「花の名」。これは、彼女の傑作中の傑作だと思います。

(芸能人やらがこぞって絶賛し、大ベストセラーになった詩集『自分の感受性くらい』1977とか詩集『倚りかからず』1999に、ごく一部を除いて筆者が魅かれないのはどうしてだろう)。

筆者は茨木のり子とちょうど30歳ちがい。筆者の母親が彼女のふたつ上で、筆者と茨木のり子はほぼ親子ほどの年の差なのだけれど、(勝手な物言いだけど)思いは年の近い姉のようでありました。筆者は素敵な姉にいろいろと教わりながら、ここまで歩いてきたようにも思うのです。
「詩一篇1億円!」(それほど価値があるものだ)などと彼女はどこかの著作でおどけて語っていたと思うけど、詩というものは、それほどひとの精神を支えることもあるのです。

実は筆者は何度かそうした彼女に手紙を書き送っています。
送った最初は1985年、筆者が結婚する時で、結婚に際して記念の小冊子を作り、その巻末に詩篇を収めたのですが(宮澤賢治、吉野弘、殿岡辰雄、ルイ=アラゴンの詩)、彼女の詩からも是非ひとつと思ったのです。それは「ぎらりと光るダイヤのような日」でした。
手紙と共に送付した小冊子についての彼女の返信が下のものです。
書中の「日本にも、まだこういうすがすがしい若者がいる」は、彼女から放られた宝石のような言葉であり。

「よい句集ですね。表紙のご一家の寫眞もよく、聖家族を感じました。お父君は温海の方だったのですね。子供の頃、温海にはよく行き、とてもなつかしい気分で御尊顔を拝しました」とは、筆者が父親の句をまとめた『本間金声川柳句集  飯場の窓』(私家版1990)を送ったことへの返信です。とりわけ、この「聖家族」の言葉がうれしかった。

茨木のり子は今、山形県庄内は鶴岡市加茂の浄禅寺に、夫の三浦安信さんと一緒に眠っています(茨木のり子にとって庄内は、夫の安信さんの出身が鶴岡、母親の生地が三川町という深い縁にある)。
そこを家族旅行で訪れたのは2016年の9月のこと。浄禅寺はクラゲの展示で有名な加茂水族館のすぐ近くの小高い丘にあります。
事前にお参りしたい旨を連絡していたとはいえ、当寺の西方信夫住職がわざわざ門に出て筆者家族を迎え入れてくださり、さらには彼女のお墓の前でお経を唱えてくださるご厚意にあずかったのでした。思わぬことで恐縮しました。
お墓は人柄を表すようシンプルそのもの、そこは海の見えるところ、春には枝垂桜が美しいという。茨木のり子はよい永遠の棲家を選ばれた。
お墓の左右に植栽されていたのは、(あとで調べて分かったことですが)ノシラン(熨斗蘭。キジカクシ科ジャノヒゲ属)というもののよう。鶴岡の三浦家が植えたものか、あるいは夫のお弔いにと茨木のり子自身が添えたものか。

今、鶴岡を本拠に、顕彰の会である「茨木のり子 六月の会」が組織されています。連絡先は事務局(戸村雅子)、鶴岡市本町3-8-48/電話0235-22-7297。

人生は朗らかに、潔く。向日的で、ひとっところにとどまらずに開放的に。深く悲しむことはあって時にはしっとりと、でもいつまでも下を向いていてはいけない。筋を通しなさい。注意深く敵を警戒しつつも、与えられた時間を思う存分に!
そんなことを言っていたと思うなあ、のり子さん。違うかなあ。
のり子さん、今まで本当にお世話になりました。これからも、さらにもっとお世話になっていくことと思います、よろしくお願いします。

もう6月。
ルーザの森には、カジカガエル(河鹿蛙。アオガエル科カジカガエル属)が鳴きはじめました。
今年もヒメサユリ(姫小百合。ユリ科ユリ属)が咲きました。


花壇にはオオアマナ(大甘菜=ウンベラーツム。キジカクシ科オオアマナ属)。この花はイエスの生誕地として知られる“ベツレヘムの星”とも呼ばれているとか。

ダイオウグミ(大王茱萸。グミ科グミ属)の実が赤くなるのももうすぐ。

林の中の広場は今、こんな感じ。

6月のいつぞやの朝食。
ワラビ(蕨)にフキ(蕗)にシオデ(牛尾菜)の山菜三昧。

どれ、工房の増築の続きにかからなくちゃ。
それでは、バイバイ!