相棒が出張研修ということでそれなら筆者はと、この27日に南蔵王に出かけることにしました。
南蔵王はまったくの久しぶり、19年ぶりのことです。あの時は、刈田岳口から入っての屏風岳(1,817メートル)、不忘山(1,705メートル)を越えて長老湖に達する縦走コースでした。不忘より先の下りが長くてつらかった記憶があります。
今回はのんびりと余裕のある山歩きを楽しみたいなと。山歩きのあとは、素朴な湯につかりたいなと。
山形側からの蔵王エコーラインの途中に咲いていたハンゴンソウ(反魂草)。今が盛りの様子。
若いものは山菜ということだけれど身近にあるものではないので筆者は食したことはありません。地元米沢ではこの山菜を“ヘビアカ”と呼んでいるようです。
自分の山行きのふりかえりにもこの記事を見てくださる方の参考とも考えて、順路を書き入れた山の地図を下に載せてみました。これなら、だいたいの位置関係や距離、行程の時間など様々な情報が読み取れますね。スタートが“0”で、数字が順路を示しています。
*地図は、「山と高原地図7 蔵王2015」昭文社より
こちらを朝5時に出発し、歩きはじめの起点である蔵王エコーライン上のピークを少し過ぎたあたりの大黒天駐車場に着いたのは7時頃、約2時間というところです。雨の心配はなさそうです。
写真は右に熊野岳(1,840メートル)、左は刈田岳に通ずる登山道の稜線。
駐車場に着くや否や、「おはようございます」の明るい声にふりむけば、美人さんでした。カップルでおいでのようで、これから熊野岳に向かうとのこと。
「秋田から来ました。今年は少ないと聞いているけど、アサギマダラが飛来しているか楽しみで」という。
それでは幸運を!
歩きはじめに、スパイク地下足袋をつけました。というのは登山口の聖山平から股窪までの間に4本もの渡渉があると情報にあったから。渡渉には何といってもこれなのです。
実はこれ、親しくしている伐採を生業とする方にプレゼントされたもの。朝日連峰の村上側からの奥の奥、奥三面のダム湖を簡易エンジン付きボートを使って渡り、そこからさらに山中に分け入ってのマイタケ採りに誘われてのこと。彼の経験から、渡渉が何度もあるところではスパイク地下足袋に勝るものはないということだったのです。実際にそうで、たとえ川をジャブジャブと漕いでも動きが妨げられることはなく、もうすっかり気に入ってしまいました。
川を渡るときはスパイク地下足袋で、渡渉ののちは登山靴に履き替えればすべてが快適な山歩き。我ながらグッドアイデア!(笑い)。
大黒天の標高は1,450メートル。そこから“蔵王観光道路”と称される山中の砂利道をどんどんと下って聖山平というところまで行くのですが、その道々はもう高山植物でいっぱいでした。
下は、ゴマナ(胡麻菜)。
これはルーザのような標高にして350メートルくらいのところにも普通にあるものだけれど、驚くべきは今回は1,600メートルぐらいの場所にまでこれがあったこと。この生命力豊かな適応能力。
なお、この若いものは山形県置賜地方で特に珍重される山菜、“サンゴクダチ”。“サンゴク”の名前の由来は諸説あるけれども確かなものは不明です。切り和えにしていただきます。
オヤマソバ(御山蕎麦)。白いものから淡紅色まであるよう。
シロバナトウウチソウ(白花唐打草)。花穂はタデ科タデ属のオオイヌタデ(大犬蓼)に似ているけれども、こちらはバラ科ワレモコウ属。名前が白花とつくのに淡紅色のものもあるようで。
もうすぐ聖山平というところから望む南蔵王。左が烏帽子山(1,681メートル)、右が登ろうとする屏風岳(1,817メートル)。
聖山平。登山道に入ってすぐはモミ(樅)の林だろうか、歩きやすい道が続きます。
渡渉があると予想してスパイク地下足袋を履いてきたものの、第1の沢は枯れていました(笑い)。
第2第3の沢はていねいに足場材や梯子がかけられ、この通り(笑い)。 最後の第4の沢にしてもこの程度、結局濡らすことなく沢を越えたわけです(笑い)。増水のときはこんなふうにはいかなかったんだろうけれども。
とはいえ山道に厚底にしてスパイクがつくこの地下足袋は履き心地抜群で、そのまま進むことに。その名の通りのイワオトギリ(岩弟切)。
山にはたくさんのセリ科植物があってたいへんややこしいけれど、これはトウキ(当帰)のよう。
トウキには薬効があるそうで栽培するひともあるそうな。そういえば伐採の師匠もそうしていたっけ。股窪を抜けたあたりで小さな湿地が見えてきました。状態からいって、中間湿原かもしれない(*湿原については、前回の記事「弥兵衛平湿原にて」を参照)。
ルーザにもあるアブラガヤ(油茅)。
ミズゴケ(水苔。正式にはムラサキミズゴケかもしれない)がたくさん。その中にモウセンゴケ(毛氈苔)も。 花から果実へと移り変わろうかというイワショウブ(岩菖蒲)。
湿原を抜けてのち、湿った林床に続いたモミジハグマ(紅葉白熊)と思しき植物。オオカニコウモリ(大蟹蝙蝠)と思しき植物。
帰ってのちにかなり詳しい図鑑に頼って調べたのですが、このふたつについてはどうにも同定することができませんでした。悔しいです。誰か、知っている方があれば教えてください。 途中に巨大なダケカンバ(岳樺)。幹が割れたところからナナカマド(七竈)がすっくと育っていました。生き延びるためとはいえ、苗床のお構いなしの借用、利用ですね。この逞しさ。
この山域で有名なのがシロヤシオツツジ(白八汐躑躅)なのだそうで、こんな大木のものを見つけました。6月ころには韓紅(からくれない)のムラサキヤシオ(紫八汐)と共演するという。きっとすばらしい光景なんでしょう。
ろうづめ平に出て、少し進めば急登がはじまります。
そこで出会ったクロバナヒキオコシ(黒花引起)。黒というより深い紫、正式な色名では紫紺(しこん。英名でグレイプ)であるよう。飯豊連峰の地蔵岳でも会ったなつかしい花です。急登の斜面はどれも美しいお花畑。オニシモツケ(鬼下野)が一面にひろがっていました。
ふりかえって見た烏帽子岳。眺望があったのは、残念ながらこの時が最後だったような。
ここで歩きはじめから2時間、9時ちょっと過ぎです。
なじみの高山植物のハクサンシャジン(白山沙参)。
ルーザでは里型のツリガネニンジン(吊鐘人参)も今が盛りです。実はこれは優秀な山菜(トトキ)なのだそうだけど、花がきれいなので食べる気になれないでいます。
ようやく登りつめて尾根に着きました。
エゾオヤマリンドウ(蝦夷御山竜胆)に彩られる快適な道が続きます。
ほどなく南蔵王縦走コースに合流、その分岐まで来ました。
歩きはじめて2時間40分というもの誰にも会わなかったものですが、さすが主要縦走路、ここからはたくさんの登山者に会いました。
これより20分で、めざすは屏風岳山頂です。屏風岳(1,817メートル)山頂にて。登山者に撮っていただきました。
ここで横浜と東京からきたという7人のパーティーと会いました。平均して70歳をだいぶ超したくらいの方たちだったと思います。リーダーと思しきひとが筆者にさんざんこぼすのです。「だんだんとみんな年を取ってきて、平均年齢は上がるばかり。誰もリーダーを替わってくれないんですよ。たいへんなんですよ、リーダー。早く役を降りたいだけれど」(笑い)。
グループの平均年齢がどんどんと上がってゆくというのはどこも同じですね、筆者たちのサークルも同じこと(笑い)。でも、共通するのは40代50代の担い手がどこも本当に少ないということ。このことはその昔普通にあった異年齢集団が自然に形成されていた世代(年齢に関係なく誰彼なく子どもは一緒に遊んでいた)とそれが解体された世代(遊びの集団が同じ年齢、同じ学年、学級の仲間という集団に縮小していった)とのギャップにぴったり一致していると思います。
しょうがないです。気力体力が続く限り、やるしかないんです。これが時代というものですから。
ここでパーティーのおひとりの女性から、冷凍干し柿のご相伴にあずかり恐縮しました。とてもおいしかったです。
下って高層湿原の芝草平へ。
最近、弥兵衛平湿原を歩いてきたあとだけに、芝草平は見て歩くことができる範囲が狭く、いかにもちっぽけに感じてしまいます。でも本当は、総面積では25ヘクタールもあるということです。
キンコウカ(金光花)は枯れ色に変わっています。
ミネウスユキソウ(峰薄雪草)。
コケモモ(苔桃)の実が色づいてきました。
甘さといい酸っぱさといい数あるジャムの中で最高なのはこのコケモモと筆者は思っています。めったに口には入らない貴重品ですが。ウメバチソウ(梅鉢草)がそこかしこ。ゴゼンタチバナ(御前橘)がたくさんの実をつけて。
杉ケ峰(1,748メートル)で昼食をとったのちに、刈田岳をめざして足を進めると見えてきたのは異様な光景です。冬ともなれば樹氷原を作る、蔵王の山を代表する樹木のオオシラビソ(大白檜曽)が広範囲にわたって枯死しているのです。うわさには聞いていたけどこれほどまでとは思いませんでした。
被害が目立ってきたのは2016年ころからだそうで(わずか2、3年!)、原因はトドマツノキクイムシ(椴松木食虫)が樹木に入り込んで組織を食い荒らすのだとか。いったんキクイムシが入れば再生は難しいともいわれ、いまのところ有効な打つ手はないようです。一帯のオオシラビソ林が消滅し、キクイムシも消え、そこから若木が育つ……、それを気長に待つしかないのでしょうか。
それにしても、恒久の歴史を刻み、長きにわたって保たれてきた風景がここにきて失われようとしているのはいったいなぜ?
*以上については、山形県森林管理署および山形県森林研究研修センターの報告がある。
前山(1,684メートル)を過ぎたあたりの岩石、頁岩(けつがん。シェール)。あたりは、屋根でも葺けそうな薄いスレートだらけです。特殊な造山運動を垣間見るひとときです。
ガンコウラン(岩高蘭)が。この実はとてもジューシーです。屏風岳からの道々、何羽も目にしたのはクジャクチョウ(孔雀蝶)でした。名をそう聞けば、クジャクの羽模様にそっくりです。
写真のものはヨツバヒヨドリ(四葉鵯)にとまっていますが、アザミ(ナンブタカネアザミ=南部高嶺薊)にも、エゾオヤマリンドウにもいました。アサギマダラ(浅葱斑)とは違い、蜜なら何でもよいということ?
エコーラインに到達し、ふりかえって南蔵王を一望したところ。奥が屏風岳、手前に杉ケ峰でしょうか。
こうしてみると、ひとの一歩一歩というのはたいしたものですね。
エコーラインから刈田岳への直登の登山道に、エゾシオガマ(蝦夷塩竃)が咲いていました。
シオガマという名は宮城県のかの塩竃だと思うけど(海辺の塩を作る竈の風景という説もある)、「浜で美しい」が「葉まで美しい」の掛け詞から。特に、ヨツバシオガマ(四葉塩竃)にはこれが言えますね。
ようやくにして、蔵王の象徴ともいうべきお釜(の見えるところ)まで辿りつきました。刈田岳山頂(1,788メートル)にて、訪問者にお願いして撮ってもらいました。 しかしそれにしても1,788メートルというこの高さにして、人がわんさといる風景の異様さ。サンダルをつっかけるひともいれば、軽装にしてカップルは手をつないで……。エコーラインは車の不健康な音を響かせているし……。こんなに簡単にこんな崇高な風景を目にするというのはどういうことなんだろう……。
蔵王は確かに魅力的な山ではあるけれども、こんなにひとの手によって商売の対象にされ傷めつけられている山もあまりないのかもしれない。蔵王は泣いているのかもしれない、とも思うのです。
刈田岳よりいよいよ最後の行程です。大黒天までを下りはじめました。
すぐ目につくのが刈田岳避難小屋です。内部に入ってみたけど、これなら冬季の避難にも耐えられる頑丈なコンクリート造り。山の風景にすっぽりとおさまっています。
感動したのは、この風景、ヨツバヒヨドリが両脇から迫る登山道です。
当然ながら、いました、いました、たくさんのアサギマダラが。
朝に会った秋田の彼女が期待を込めて言っていたのは、このことだったのですね。
何羽も何羽も、アサギマダラの見事な乱舞です。
花はちょうど満開という時期だし、飛来も今がピークなのかもしれない。
筆者も、このような光景を見れて感激です。 今年はじめて目にしたシラタマノキ(白玉木)。
この実、甘くてさらにはサロメチールの香りが広がるんだよね。ひつ粒いただきました。元気が出ます。
大黒天に通じる道は砂礫岩礫のガレ場。(目にすることはなかったけれども)蔵王の名花コマクサ(駒草)がこういうところに自分の居場所を見つけたというのは知恵なんだろう。誰も競争相手がいない場所をひとり選んだ。
終点直前のケルン。絵になる風景です。
駐車場への到着はちょうど14時30分でした。まあ、休憩も十分にはさんでの、7時間半の山旅でした。
今回は全行程をスパイク地下足袋で通したわけだけれど、ふりかえってみれば4時間ぐらいまでは快適、それ以降は石敷きの道だったりして少々足裏に疲労が来ていたのは事実。まあ、途中に履き替えれば済んだことですが、これもひとつの勉強にはなりました。
*
下山後の楽しみは温泉、今回は青根温泉に素朴な湯宿を見つけて向かいました。
道は、エコーライン(県道12号)を遠刈田経由で国道457号に入るのではなく、意図して途中で峩々温泉方面に折れ県道256号の山道を通ったのですが、これが危険を感じるほどのものすごい濃霧でした。
目的地が近くなって目にしたのは作曲家・古賀政男の碑。名曲「影を慕いて」はここ青根温泉で着想したのだそうで、町(川崎町)をあげて顕彰しているようです。
上の「影を慕いて」(1932年)をはじめ、「丘を越えて」(31年)、「酒は涙か溜息か」(31年)、「人生の並木道」(37年)、「湯の町エレジー」(48年)、「柔」(64年)、「悲しい酒」(66年)……、古賀政男って筆者にとっては決して同時代のひとではないけれど、それにしても世に知れわたった曲の数々。
古賀政男はやはり、日本人の感性に根差した世界を作りあげたひとりに違いなく。
古賀政男に関する資料が美しい建物の“青根洋館”に展示されています。1階がカフェ、2階が資料展示室です。
この素敵な建物は、明治の末期に仙台市に建てられた東北学院および仙台教会の宣教師の邸宅だったものを1959年に現在地に解体移築したものとのこと。照明器具、ドアノブ、窓の造りなど、どれひとつとっても一見の価値あるものばかりです。
そして今回の山旅の楽しみの最後は温泉旅館・名号館(みょうごうかん)に泊まること。銘は、蔵王連峰のひとつ、名号峰(1,491メートル)からのよう。
登山の後のよい宿はないかと山形側も含めいろいろと探していたのだけれど、フィットする場所というのはそうはないもの。そこでようやく見つけたのがこの旅館だったのです。
聞けば、創業は1875(明治8)年とのこと。建物の骨格は往時をしのばせるものです。建築用語でいう“渡り腮(あご)”の材木が外に突き出ていて、そのひとつひとつの先端には雲形の彫刻が施されています。なお渡り腮とは、一つの材木を他の材木に乗せるときの仕口で、上の木の下端に溝を作り、下の木の上端の中ほどを残した形に作り、それを互いに組み合わせたものを指します。この仕口は家の構造上きわめて強固な造りとするのです。もうこれだけで見ごたえ十分。
何と、こういう宿にこの日は筆者がひとり!
素朴な湯船。
湯温は52度ととても熱く、水でうめて(薄めて)しか入れないほどでした(笑い)。
でも、いい湯でした。疲れがスーッと抜けていく感じでした。
建物は古いのに、汚れやほこりというものがどこにも見当たらない。ご主人と奥様おふたりでていねいにていねいにいつくしんでこの湯宿を守ってきたのかがよく伝わってくるのです。
歴史を感じさせる長い縁側の廊下。
夕食時に、ご主人と奥様と一緒に記念に写真に納まりました。
というのは、この夕食のときに、とても意外で悲しい話をご主人から聞かされたから。実はこの9月末をもって宿を閉めることにした、というのです。唐突でした。もうふたりは年だし、これ以上続かない、続けられないと。その後は仙台で暮らす息子と暮らす、ということです。
時代を感じさせる趣あるお宿なのに閉めるのは正直もったいないと思うのですが、長い間考え抜いた末の決断なはず、一介の宿泊者が何言うものぞ。
料理は筆者にはもったいないほどの豪勢さ。筆者は食事の量はあまり入らない質(たち)だけれど、ゆっくりゆっくりとすべてをかみしめながらいただきました。心をこめて作ってくださっていることがよく分かったから。どれも、とてもおいしかったです。
どうぞ丹野様ご夫妻、仙台に移ってもいつまでもお元気でお過ごしくださいますように。よいことがたくさんありますように。
今回の南蔵王の山旅の最後、こういう場に遭遇できた幸福を一生忘れずにいようと思います。
めぐり合わせに心からの感謝です。