山歩き

弥兵衛平湿原にて

この5月の末から木取りに着手し新作の製作をはじめたのですが、ここにきてようやく組み立て前の塗装まで辿りつきました。やれやれです。2種計24作(体)を作るのに、ここまで3か月もかかっています。ものすごい効率の悪さ(笑い)。遊びすぎ?(笑い)。
写真は、バンドソーで成形し、スピンドルサンダーで凹曲面を研磨し(と言っても何のことやらというひとは多いですよね。申し訳ない)、最終的な研磨を紙やすりで行っているときの様子。最後はやはり“手”なのです。この研磨、一日やって数体できるかどうか、クオリティーを上げるためならと徹底して行います。
新作? 表面板の接(は)ぎの際に、カリン(花梨)やコクタン(黒檀)などの銘木をはさみ込んだものです。こういう細い材を入れ込むというのもひと工夫ふた工夫がいるのです。その方法を探るだけで膨大な時間が過ぎてしまう。でももうすぐ完成品をお披露目できると思います。

ということもあって、仕事の大きな一区切りに乗じて、山に出かけてきました。いつの間に、ひとつの課題をクリアしては山、クリアしては山という暮らしのサイクルになってきました(笑い)。
めざすは西吾妻の人形石より東側に位置する広大な高層湿原、弥兵衛平(やへいだいら)湿原です。

ここで弥兵衛平湿原について少々説明しておきます。
俗にいう吾妻連峰というのは西吾妻山(2,035メートル)を盟主とする西吾妻火山群と一切経山(1,949メートル)を主とする東吾妻火山群とに分かれています。西吾妻火山群はとても古い火山群でまわりはオオシラビソ(大白檜曽)で覆われているのに対し、東吾妻火山群は今なお噴煙上げる新しい火山で(たびたびの噴火情報はここですね)一切経山は砂礫岩礫で覆われていて植物の侵入ままならないところです。おおざっぱに言って、弥兵衛平湿原はその中間地点にあります。
ここでちょっとややこしいけれども、同じ高層湿原ながら“弥兵衛平”と“弥兵衛平湿原”というのは場所が違います。ほぼ中間地点の広い尾根上が弥兵衛平、そこから東に進んで東大巓(ひがしだいてん1,928メートル)より北に広がる明星湖を抱く湿原を弥兵衛平湿原と言うのです。人によってはこれを区別するために、弥兵衛平湿原を“明星湖湿原”と呼ぶということです。
この弥兵衛平湿原は面積にしておよそ10ヘクタールの東日本有数の高層湿原です(有名なところでは、月山・弥陀ヶ原60ヘクタール、磐梯・雄国沼湿原45ヘクタール。尾瀬ヶ原は面積こそ232ヘクタールと広大ながらここは高層、中間、低層入り混じっている湿原とのこと)。

下は、藤十郎(1,860メートル)あたりより。大小さまざまな池塘が点在し、湿性植物が美しいところです。

ここまで何気に“高層湿原”という言葉を使ったけど、今回改めて資料に当たりながらふりかえってみました。それによれば、湿原の層というのは(高層、中間、低層というのは)標高についていうのではなく、層の盛り上がりを指すとのこと。
学術的に高層湿原とは、枯死した植物が腐らずに残って泥炭と化しそれが堆積し中央部が高くなっていく状態で、水の供給は地下水ではなく雨水などの通水による貧栄養状態の場所なのだそうです。枯死した植物が腐らずに残って泥炭が堆積するわけですから標高の高いところでなければそれはありえないことですね。しかも堆積は1年で1ミリに満たないもので、それがいったん切られたり崩されたりしたらそこから乾燥がはじまってどんどん浸食され取り返しのつかないことになる非常に繊細な環境ということです。
これに対して低層湿原とは、泥炭表面が低く、周囲の水域と同程度の高さの湿原をさすとのことです。
以上からして中間湿原とは、泥炭表面がすこしばかり盛り上がり、水の供給は直下の水域と雨水などの通水の両方と理解すればよいのでしょう。
高層湿原は氷河期の遺存種も含まれる可能性があるとのこと、知れば知るほど深い世界なんだろうなと思います。

藤十郎から少しずつ緩斜面を歩んでゆくとほどなく高層湿原の弥兵衛平に着きます。
尾根上ということで長い間登山者によって踏まれたところは植生が失われ、土砂が流失して無残な姿になっています。こういう現状に対して下の看板にあるよう、ボランティアによってその植生回復の地道な努力がなされているとのことです。

下は、復元の現場。そしてチングルマ(稚児車)に覆われてきた作業地。こういう地道な努力によって環境が守られていることに感謝しなければなりませんね。
心せねば。

尾根上の湿原を歩いていると、よく目につくのがシラネニンジン(白根人参)。
ミヤマセンキュウ(深山川芎)などセリ科でよく似たものが多いけど、これは葉っぱの特徴(2~3羽状複葉、複雑な裂れ)からシラネニンジンだと思います。

ミヤマアキノキリンソウ(深山秋麒麟草)ですね。
もう今がピークという感じです。登山道にずっと寄り沿ってくれていました。

湿原といえば、キンコウカ(金光花)ですね。もう花期が過ぎ、葉はカーキ色に変わりはじめています。
山は確実に秋の準備に入っています。

道端に、ツルリンドウ(蔓竜胆)が咲いていました。
これは高山でなくても筆者の住むルーザにもありますけどね。秋には宝石のように美しいルビー様の実をつけます。

ツツジ科スノキ属のクロウスゴ(黒臼子)でしょうかね。
これもルーザにあります。さながら和製ブルーベリーで、おいしい果実です。

西吾妻を代表する花のひとつエゾオヤマリンドウ(蝦夷御山竜胆)が咲きはじめていました。ピークはまだまだ先という感じです。いいですよね、この深い青、心が沈潜していくような。
筆者には宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」にこの花がクロスするんだけど、どうしてなんだろう。賢治がイメージしていたリンドウというのはこれなんだろうか。

アカモノ(赤物。別名イワハゼ)の赤い実がそこかしこ。チングルマの群落に入り込んで。
この実も食べられるものですが、甘さはあるけれどもおいしいとは言えないです。

ネバリノギラン(粘芒蘭)も秋色になってきていました。

ルーザにもある里型のママコナ(飯子菜)に対してこちらはミヤマママコナ(深山飯子菜)。花弁に並んだ白い模様が飯粒のように見えることからの命名だけど、飯粒はミヤマママコナの方が曖昧です。そしてこちらには苞に鋸歯がありません。

リフト終点から歩き始めてちょうど2時間、ようやく三角点の東大巓(1,928メートル)に着きました。残念ながら展望はないです。
余談だけど、小雨ぱらつき上下モンベルのゴアテックスのレインスーツをつけています。まったく快適です。透湿防水の威力を実感します。

東大巓に進んだ道を500メートルほど戻り、分岐から弥兵衛平小屋までは25分ほど。ここからの木道は少々劣化が進み、雨に濡れて以前より滑りやすくなっていました。注意です。
小屋は姥湯温泉口から来たというソロの青年が休憩ののち出ようとするのと入れ替わりでした。
筆者はこの小屋を弥兵衛平小屋と呼んでいるけれども、“明月荘”とも呼ばれています。傍らに、池(池塘なんだろう)があって、明月湖と名づけられているのです。

弥兵衛平小屋にはじめて訪れたのは1999年のこと、ちょうど20年前の10月のことで、そのときは相棒とまだ小学生だった娘と3人での山旅でした。山小屋泊まりというのはこのときがはじめてだったかもしれない。空一面の夕焼け、やがて満天の星……、感動的な一夜だったことを覚えています。
それから友人と来たり、ソロで浄土平から縦走の中継基地にしたりとあれこれもう7回ほど世話になっています。
弥兵衛平小屋はボランティアによる定期的な清掃が入ることもあるようで、おかげでいつ来ても清潔で気持ちのよい山小屋です。

小屋わきの明月湖。

小屋に着いてコーヒータイムです。うまいんだよね、これが。

弥兵衛平湿原は10ヘクタールもの広大な場所、小屋から1キロ以上にも及ぶ木道が続き、その歩きといったら天上をさえ思わせる素晴らしい風景が連なっています。休憩して、まず歩いてきました。
下は、戻って(習慣になった)昼寝をしたのち(笑い)、夜の支度を整えたあたり。

小屋に水場はありません。でも20分も歩けば、小さな湿原の中に金明水という水場があります。水量は少ないながら、枯れていることはまずないです。冷たくておいしい水です。夜と朝の食事などのため、1リットルを汲みました。
ここで、西吾妻ではお目にかかれない(筆者が確認できていないだけかもしれない)イワショウブ(岩菖蒲)に出会いました。感激です。

同じ湿地に、イワイチョウ(岩銀杏)の名残り。もうおしまいですね。

そして、湿原を彩る重要な花、ウメバチソウ(梅鉢草)です。
今回会った登山者が言っていたことだけど、「ウメバチソウをたくさん見ると、ああ秋が近いんだなあと」とのこと。そうなんだ、ウメバチソウって、秋を告げる花なんだ。

湿地にモウセンゴケ(毛氈苔)が。まわりは何て言う植物なんだろう。

湿原には大小さまざまな池塘が点在しています。9月の下旬ともなれば、すっかり枯れ色に覆われ、それはそれで美しい風景であり。

役目は終えたんだろうか、力尽きたトンボの溺死体。これはこれで尊い姿。

白いのはハナゴケ(花苔)ですね。別名、トナカイゴケともいうのだそうな。よくよく見ると、苔のひとつひとつの枝先がトナカイの角の形になっています。
余談だけど、“トナカイ”って、アイヌ語だと知ってました? 筆者が知ったのはつい最近です。世界の共通語とずっと思ってました。世界的にはカリブーcaribouの方が通じるようで。

湿原に多い、ヤチスゲ(谷地菅)ですかね。

湿原を形成しているのは草本だけにあらず。
わずかにハイネズ(這杜松)や、矮小化したコメツガ(米栂)やヒノキアスナロ(檜翌檜)があります。

筆者はヒノキ(檜)とヒノキアスナロ(=ヒバ)との区別はよくはつきませんが(葉の先端がヒノキアスナロの方が鋭いみたい)西吾妻一帯のヒノキ属はこう称されているので、これもヒノキではないと思われ。
下は、葉の部分。

それから、ハクサンシャクナゲ(白山石楠花)ですかね。葉の裏に毛がないようで。

アカミノイヌツゲ(赤実犬黄楊)。

この、どこまでも伸びる木道がいい。まるでカッサンドルの鉄道ポスター(「エトワール・デュ・ノール」)のような遠近法が実に絵画的で、幻想を誘うのです。霧立ち込める朝に撮影したもの。

下には湿原の風景の数々を。

明星湖。

それにしても弥兵衛平湿原。米沢市民でありながら、この名前さえ知らないひとがほとんどだろうと思います。天元台からの登山にしても人形石を取って返すのがほぼ定番で、それより東の先に行くなんてひとはまずいない。したがってこの湿原を実際に見たり歩いたりした市民というのは本当に限られるのでは。もったいない、とはこのことです。

以下は、かつての写真から。下へ、99年10月、06年8月、08年7月。

小屋で青年とすれ違って、4時を過ぎても誰とも会わないのでこれはひとりの夜かと思いきや、福島側の高湯温泉から縦走してきたという筆者よりも少し年配と思しき方が飛び込んできました。何と、12時間の歩きだったとか。もうへとへとに疲れ切っている様子でした。本当にお疲れ様です。
「藪漕ぎがひどくてねえ。倒木もたくさんあった」とのこと。

夜は、信州は木曾からいらしたというその彼と、筆者がリュックに忍ばせてきたワインを半分コして(笑い)ああだこうだと山の話を。彼曰く……。

体力が落ちてきているのが分かるんだよね。だからそれをカバーしようと山を歩くんだけれど、如何ともしがたい。それが悔しくてね。
でもいい山ですね、吾妻連峰は。こんないい山で、もう何時間も何時間もひとに会わない。誰ともすれ違わない。もったいないと思う。もっと知られていい山だと思うけどなあ。
現役時代は森林に携わる仕事をしていてね。それで山に興味を持っちゃった。
私の場合は山はいつもひとりでね。気を使わないのがいい。仲間と一緒だと、いろいろと心配しなくちゃならない。行動が自由にならない。
でも一方、ひとりは金がかかるね。このあいだ北海道の知床の山を歩いてきて(いやあ、ヒグマを見たよ。でかいね)、4人のパーティーと一緒になったんだけど、そのパーティー、下山後は4人でタクシーに乗って登山口に置いた車まで戻るっていうわけ。こういうのって、4人だからできるけど、ひとりではまったく不経済。泊まるんだってそうだよね。割増料金を取られてしまう。まあ、良し悪しだわな。

そうそう、この山旅のはじめは、名古屋からいらしたという、これも筆者よりはやや年配と思しき女性とリフトのはじめから人形石分岐までをご一緒しました。地元山岳会に所属しているという、彼女曰く……。

あと何年山を歩けるんだろうって、最近よく思うんです。5年とか3年とかそういう単位ではなく、今年、来年という感覚。残念だけど、それが現実ですね。体力は確実に落ちてきている。
それで今回、憧れの飯豊に登ろうとやってきたんです。飯豊はいい山ですよね。もう一度どこに登りたいっていったら私は真っ先に飯豊なんです。あの稜線歩きはいいですよね。
(飯豊町中津川の奥の)大日杉小屋口から登ろうと向かったら土砂崩れがあってか通行止め、それじゃあと福島会津側の川入口から登ろうと回ったもののどうにも天候がよくない、それでしかたなく(笑い)、西吾妻にでも登って帰ろうと来たわけです。本当はまずは切合小屋に泊まって、飯豊本山や大日岳を目指したかったんだけどなあ(笑い)。でも、また次回ですね。

ふたりの話を聞いていて思ったのは、ある意味、まっとうな人生だなってことでした。なぜなら、自分の足で経験しつつ、現在の体力なり身体の状態を自覚して把握しているから。こういうひとって、身体がいうことを利かなくなる最後の最後までしたいこと好きなことをし続けるのだと思います。これは筆者の理想でもあるなあ。
でも多くはそうではないのかもしれない。無目的ではないにしても、日々に流され、気がついたらいつの間にか老いぼれて身体が動かなくなっていたと。そしていつの間にか死を迎えるときが近づいていたと。そのときになって、あのとき一歩踏み出して挑戦しておけばよかった、もっとやっておけばよかった、なんて思ったところですでに遅し、後悔多し……。そんなのはイヤだなあ。

そして筆者はH・D・ソロー(1817-62)の箴言(しんげん)を思い出すのです。
ソローはアメリカ合州(衆)国マサチューセッツ州コンコードの森の中、ウォールデン湖畔に自ら小屋を建て2年2か月のあいだそこで暮らしたひと、博物詩人。その生活の様子は「森の生活」として、今日世界中で読み継がれています。筆者も強い影響を受けたひとり。

私が森に行ったのは、思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものを自分が学び取れるかどうか確かめてみたかったからであり、死ぬときになって、自分が生きてはいなかったことを発見するようなはめにおちいりたくなかったからである。人生とはいえないような人生は生きたくなかった。(「森の生活」飯田実訳、岩波文庫)

人生を確かめるために森に行ったというのは単純な理解では済まないと思うけど(自分ひとりと真剣に向き合いたかったということだろうか)、ソローって本当に純粋だったのだと思います。
それにしても、“人生とはいえないような人生は生きたくなかった”は、ズンときますね。

夜はものすごい雨。早く寝すぎて夜半に目覚めてしまい(笑い)、ラジオにイヤホンをつけて“ラジオ深夜便”を聴いていました。ベラ=チャフラフスカ(なつかしい!笑い)を語るひとがいて。

翌朝は6時に起きだして、3度目の湿原散策。その後思い残しなく、弥兵衛平湿原を後にしました。

ところどころに背の高い標柱が。ツアーコースと記してあります。ここは積雪期のコースでもあるのです。


道々、すごい数で覆っていたのはクロマメノキ(黒豆木)。信州ではアサマブドウというのだそうな。
これこそまさにブルーベリーの野生種です。とにかくおいしいのです。ひと粒ふた粒をいただいて精気をつけて。

めずらしい苔があって、のちに調べれば、アカミゴケ(赤実苔)とのこと。
硫黄色の身体の先端に、ごくわずかな赤い実のようなものがついています。

 

藤十郎を過ぎたあたりから見た南西方向の梵天岩と、左は西吾妻山。

人形石に戻って、あとは北回りコースを辿ってリフト乗り場まで。
昨夜来の雨で、道という道は川でした(笑い)。
帰り道にひっそりとカニコウモリ(蟹蝙蝠)。

それでは、またです。

参考;「南とうほく花の湿原」日野東、葛西英明著、無明舎出版2002。web「ネイチャーフロント米沢」