大学時代からの友人(気仙沼在住の)Y君と落ち合って、山形県庄内は鶴岡への小旅行に出かけたのは9月8日のことでした。
ふたりとも(それぞれに訪ねびとがあるなど)いろんなことが重なっての小旅行、今回のsignalはその足跡の一部を記したいと思います。
題して、“鶴岡行路”。
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今回の旅行の楽しみのひとつは食堂と民宿を兼ねる知憩軒(ちけいけん)というところに泊まること。
筆者が還暦を迎えた2016年に子どもたちが企画してくれた庄内旅行で、まず食事をとったのがこの知憩軒だったのですが、滋味豊かな味が忘れられずの再訪。
今回はそこに流れる空気をまるごと味わいたくての投宿でした。
この場所を知ったのは『デザイントラベル山形』(D&DEPARTMENT PROJECT刊2014)という独特なガイドブックからでしたが、この本はまったく期待を裏切らない。
2015年の北海道も昨年2020年の岩手・盛岡への旅行もこのシリーズによって大いに助けられたものです。
このガイドブックの何がそんなにいいかというと、それは、この本の編集方針にあります。
・必ず自費でまず利用すること。実際に泊まり、食事し、買って、確かめること。
・感動しないものは取り上げないこと。本音で、自分の言葉で書くこと。
・問題があっても、素晴らしければ、問題を指摘しながら薦めること。
・ロングライフデザインの視点で、長く続くものだけを取り上げること。等々。
これは信用に値する文言だと思います。
この矜持(きょうじ)、花森安治と大橋鎮子が興した『暮らしの手帖』にも通じてますよね。
宿の間(ま)の、牛引きの図を眺めるY君。
この油絵はご主人の長南光(ちょうなん みつ)さんの筆になるもの。
この部屋は、ご自分の作品を飾るギャラリーとして作られ、「朝から晩まで働く農家の婦人の休憩場所にしたかった」のだそうで、その転用とのこと
下は、筆者が寝起きした一室のしつらえ。
ミズヒキ(水引/タデ科イヌタデ属)をさした何気ない花飾りに掛け軸。
花飾りも掛け軸も光さんの手になるもの。
下は、朝食の一部。
料理は素朴にして多彩な夕食も含めて、一品一品が身体を素直に喜ばせる味わいでした。
ここは、作物の栽培と収穫も含め、料理やらもてなしやらの一切をご主人の光さんひとりが担う空間です。こんなに美意識が高く、ホスピタリティにあふれる食堂と宿というのは日本広しといえどそうはないのでは。
筆者の数少ない経験から言うと、ここは盛岡の熊ケ井旅館(食堂部)と 双璧だと思います。
あの時も感激したなあ。※熊ケ井旅館(食堂部)についてはsignal「盛岡ぶらりぶらり 前篇」(2020年8月)にくわしい。
下は2016年の家族旅行で供された昼食。
使用している器は益子焼が多いということです。
帰りしなの知憩軒の玄関口で。 光さんと。
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下は、庄内藩士が開墾に勤しんだ松ヶ岡開墾場。
筆者にしたら何度も行っている庄内にして、ここははじめての場所。まったく素晴らしい景観でした。
建物は往時10棟あったという大蚕室のうちのひとつで、現在は開墾記念館として活用されているものです。
5棟が残されている開墾場は、国指定史跡(1989)であるとともに近代化産業遺産群(2010)にも登録されているとのこと。
この養蚕の伝統はいま、“鶴岡シルク”として受け継がれているということです。
せっかくの鶴岡、市の中心部の鶴岡公園の一角にたたずむ藤沢周平記念館を訪ねました。
鶴岡出身の藤沢周平(本名は小菅留治/こすげとめじ。1929-97)の小説はどれも読むたびに心に平安が訪れるというか、この、時代を超越して安らかな世界を届け続ける筆の力には恐れ入るばかりです。
藤沢は鶴岡の誇りともいうべき存在なのだと思います。
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で、今回の小旅行の最も大きなキーワードは、“茨木のり子”。
日本現代詩に大きな足跡を残し“戦後詩の長女”と称された茨木のり子(1926-2006)は、庄内鶴岡にゆかりのある詩人です。
茨木の母親は鶴岡近隣の三川町の出、医師であった夫の安信さんは鶴岡出身、当然にして鶴岡には親戚縁者は大勢、そして夫ともども眠っている地が鶴岡の加茂なのです。
筆者の若い日は日本の現代詩によく親しんでいて、特に茨木のり子と吉野弘(酒田市出身)には大いに感化されたものでした。ふたりの詩には平易な言葉の裏に深い世界が潜んでいました。
詩というのは心のビタミン、時に精神を保つ力であったり方向性を指し示してくれるものであったり…、今に響く深いワードのなんと多いことか。
下は、生前の茨木からいただいていたたよりの一葉。筆者が茨木に宛てて書いていたファンレターのその返事であるのだけれど。
文面にあるよう、温海(あつみ)の海は茨木の幼少時に刻まれている風景でもあるらし。彼女は筆者の父親が旧温海町山五十川(やまいらがわ)出身であることに目を留めてくださったのでした。
茨木を知るひとならパッと見それとわかる彼女の筆跡は、今となっては高貴なアートのようです。
2015年の北海道旅行で札幌の知事公館を訪ねて巡り合ったのが、茨木の代表的な詩「六月」の、中野北溟(ほくめい)による揮毫(きごう)でした。
当時の横路孝弘知事がこの詩を気に入っていたみたいで、札幌在住の著名な書家に依頼しての掲額のようです。リベラルな横路が好んだというのはよく分かるなあ。
この「六月」は、何度読んでもいいです。
無国籍的風景を背景にして「どこかに ~はないか」が発せられる各連の最初の一行の希求性が、茨木の、新しい時代へのあこがれと若々しい精神の在りようを映すようで心地よいのです。
この「六月」の出自を調べると、この詩が世に出た(朝日新聞に初出)のはなんと筆者の誕生にドンピシャリの1956年6月22日(東京版は1日前)、彼女が30歳の誕生日を迎えてすぐのことだったよう。もうそれだけで大いに縁(えにし)を感じたものでした。
そんなこともあって、書をたしなむY君に願って筆を揮(ふる)ってもらったのが下です。
これは現在、我が家の玄関口に飾ってあります。
なお、下の“首”は新潟県山北地方から隣接の庄内地方独特の女性の日徐けのための被り物のハンコタンナ(あるいはヤマボシ=山帽子)。筆者が簡易に彫ったクビに実際の藍染のものをかぶせています。
このY君の「六月」の揮毫に合わせて、もう一度「六月」を読み込んで書いたのがこのsignalの記事「茨木のり子「六月」をめぐって」(2020.6)で、これを届けたかった相手が鶴岡在住の戸村雅子さんでした。
戸村さんは茨木が亡くなった2006年には山形新聞に追悼文を寄せていましたし、茨木の顕彰の会ともいうべき「六月の会」を組織されていることも存じ上げていたことでした。
また、庄内における茨木のり子を追った渾身のルポルタージュである著書『茨木のり子への恋文』(「茨木のり子への恋文」刊行事務局2016)を物(もの)している方でもあります。
それでsignalの記事を送り届けたのですが、それが直接の縁となり手紙やメールでの情報交換がはじまり、昨年の晩秋にはなんとも娘さんともども米沢の拙宅においでくださったのでした。
今回の旅は、その返礼の意味合いもあったのです。
Y君にしても「六月」の揮毫から茨木のり子、そして戸村さんとはまた別の(反戦平和記録集を通しての)交流を経ての今回の同道となったわけで。
下は戸村さんのご自宅での記念の一枚。夫君と娘さんともご一緒して。
お言葉に甘えていただいた昼食、心づくしのちらし寿司に庄内芋煮などはたいへんおいしかったです。
特に山形県民にとって“芋煮”というのは格別なソウルフードで(物ごころつく頃には仲間を誘って芋煮会をしていたほど、芋煮会は遊びのひとつに組み込まれていたのです。小中高の学校行事には欠かせないものだったし)、芋はともにサトイモで共通だけど、内陸置賜(おきたま)の場合は牛肉を醤油味で、庄内の場合は豚肉をみそ味でという明確な違いがあります。これはお互い、一歩も引かないこだわりなのです(笑い)。
筆者にしたら本格的な庄内の芋煮は今回がはじめてのことで、実に滋味深いものでした。
午後には戸村宅をおいとまし、戸村さんにご一緒願って向かった先は茨木のり子が眠る加茂の浄禅寺(浄土真宗本願寺派西栄山浄禅寺)。
浄禅寺では住職ご夫妻があたたかく迎えてくださいました。
夫の安信さんと一緒に眠る茨木のり子のお墓は何の飾り気のないまったく地味なもの。
茨木の遺言(言い伝え)にしたがって、墓には指示標も案内板も作られてはいません。ゆえに慕うファンは全国から訪ねては来るもののお墓がどれか分からずにウロウロしていることが多いのだとか。
そういう時にはこちらから出て行って案内するようにしている、とは住職の弁です。
茨木が眠る三浦家の墓の前で。
ありがたくも住職はお経を唱えてくださいました。
人柄をしのばせる素朴な茨木のり子のお墓。
どなたが植栽されたものか、墓の前には左右が対の白い花が匂いやかに咲き誇っていました。
実は2016年にも訪ねてこの花がすごく気になったのですが、調べればこれはノシラン(熨斗蘭/ユリ科ジャノヒゲ属)というものでした(同定するまでには時間がかかりました)。
ノシランは海に近い林に生える多年草で、日本では紀伊半島以西から沖縄まで、韓国の済州島にも自生があるとのこと。
よってここにあるのは自生種の移植なのか、園芸種として出回るものの植栽なのかはいざ知らず。きっと三浦家の、墓の建立者の案であったものかと思います。
やがてこの花にはルビーのように美しい小さな青い実がたわわにつくのだとか。その頃にもお墓の前でたたずんでいたいものです。
山門の前で。西方信夫住職とともに。
下は、1953年5月、愛知県西尾市吉田海岸にて。のり子26歳、夫安信氏と。
筆者の若い日の茨木のり子の印象というのは、ひとり戦争犯罪人を向こうに回して「私の貴重な青春を返せ!」と訴えるかの詩シーンに代表されるような強靭な精神の持ち主、外に向かって声を放つ独立した個人というイメージがあったものでした。けれども詩を通してしてきた対話やエピソードなどを少しずつ知るにつけて近年それは変わってきました。
基本、彼女は無垢な少女のように清楚。
人前に出るのさえ億劫な、目立つことが苦手でまるで顕示欲のない控えめなひと。そしてひとの心をていねいに汲むことができる深い湖をたたえているような、と。
そう、語彙を自由に操って創り上げていた詩の世界というのはおのれのストレートな体現とは別の、ひとつのあらまほしき姿でもあったのではないか、と。違うかなあ。
これからも印象は変わっていくのだろうか。
浄禅寺は小高い場所にあり、そこからは加茂の海が見えます。いい風情なのです。
いいですね、海の見えるお寺というものは。
終の棲家としてこんな場所をチョイスするなんて、のり子さんのセンスは最後まで冴えていましたね。
のり子さんは愛する夫のそばで、きっと安らかだ。
のり子さん、また会いに来ます!
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浄禅寺のすぐ近くの(クラゲの水族館として有名な)加茂水族館にも立ち寄りました。
現在は60種のクラゲの展示があるそうで(展示種の数でギネス認定を受けているのだとか)、クラゲたちの漂いのなんと優雅で麗しいこと。大水槽のクラゲは満天の群星(むりぶし)のよう、圧巻の美しさでした。
加茂水族館は筆者にとっては幼いころからなじんできてその衰退期もその驚異的な復活の歴史もわかるのですが、初めて目にしたY君は大いに心揺さぶられ圧倒されていたようでした。
Y君によれば、水族館としての復活劇は高校の英語の教科書にも載っていたのだとか。
戸村さんとは水族館でお別れし(たいへんお世話になりました。またの再会を期して)、2日目の宿の温海温泉に移動しました。
※この温泉の正式な表記は、読みが難しいという理由で1977年より“あつみ温泉”としたのだそうな。けれども筆者がしっくりくるのは旧来の“温海温泉”で、今回はこっちの表記を使うことにします。
温泉街が近くなり、ちょうど高速道路が交差するあたりでクルマを止めて、後続のY君に説明しようと思ったのです。帰路は(鶴岡市街には)ここに乗ればいいよ、と。
ところがY君、クルマを止めるやいなやサイドやリアのドアの開け閉めをバタバタしはじめて顔は真っ青、どうしたんだと問えば、「財布の入ったバッグを忘れてきた!」と言うではありませんか。
バッハの「トッカータとフーガ」の冒頭、ティラリ~~ンです(笑い)。
即、「水族館だと思う」というので連絡を取ると、ありましたありました。危うくセーフでした。よかった。
そんなことで、彼は25キロほど先の水族館にとって返し、筆者は先に宿に入ったのです。
彼が戻るまでのあいだは、湯につかり(ああ、いい湯だ)、着流しを着て下駄をはき、片手には(今日は特別)エビスビールときたもんだ(笑い)。
そうしてカランコロンと清流、温海川沿いの夕暮れの散歩を決め込んだのでした。
いい風情でした。悪いね、Y君(笑い)。
無事戻ってY君言うには、「オレって自慢じゃないが、今回も含め財布を4回、忘れたことがあるんだ。でもいずれも返ってきた。これって、すごいことだっちゃ!?」(笑い)。
こういうのを自慢というんだろうか(笑い)。すごいことにはちがいないけど(笑い)。
このコロナ禍にあって(そればかりとは言えないと思うけど)、全国各地の温泉場の寂しくなっていることと言ったら。温海温泉とて例外ではありませんでした。
ここは山形県の有数の温泉場なのに、ひとは本当にまばらでした。
取った宿も貸し切り状態だったし、実は道向かいの宿は家族旅行で泊まったところにして偶然にも筆者の父母の(1947年の)新婚旅行の宿でもあったのですが、つい近年のことご主人が急逝して(数百年と続いた)宿そのものが廃業していたのでした。
温海温泉は戦後の隆盛期においては22もの宿屋が軒を連ねたそうだけれども、現在は7軒にまで減ってきているとのこと。その廃(すた)れようは目を覆うばかり、これが現実なのです。
温海温泉の名物は朝市。
朝市はものの情報によれば260年前から続いているのだそうで、焼き畑で作られる温海名産の赤かぶの漬物などの農産品から水産物や水産加工品、特産のしな織りなど様々なものが並ぶのだそうで。
で、せっかくのこと、早起きして(宿すぐ近くの)朝市に行ってみました。
行政によって立派に整備された朝市広場には22区画の出店スペースがあるものの、現在はたったの3軒のみがほそぼそと営業しているのでした。
筆者よりも5つ6つ若いくらいな店の主人と話をしました。
「このコロナ禍での営業はたいへんですね」と話を向けると、彼の話は堰を切った水のようにあふれ出して止まらなくなりました。
まず話しはじめたのは新型コロナワクチンの接種の電話予約のこと。何度も何度も挑戦してもつながらない、ようやくつながったので電話を切らないで30分も待ってから応対してもらったこと。
世の中、今流行りのリモートとかを盛んに言っているけど、買い物だってこうして直接やり取りしながら買うのがいいんであって、離れて買う、離れて話す、離れて仕事をするなんてとんでもないこと。
自分はパソコンを持たない、スマホがわからない。税金を納めるのにインターネットは簡単で便利とみんなが言うけど、それを一緒にやってみましょうっていう話は一切ないわけでのお。誰も寄り添ってくれない。なんか自分は時代に取り残されている気がする、と。
この朝市もひとり抜けふたり抜け、高齢で天国に行ったひとも何人かいて、どんどんと減って今では御覧の通り。お客さんは来ないし、いないし。自分もあと何年続けられるか、今年で終わりかもしんねえしのお。今までの発想を変えないとこれからは生きてゆけないのかものお……。
主人は日ごろの憤懣やるかたない思いをどこにぶつけてよいやら、どんどんとボルテージが上がるばかりでした。
でもこの種の悶々とした苛立ちは日本全国の(あるいは範囲を世界に広げても)多くの者が抱いているのでは。
筆者は土産物として何かひとつと思って、庄内名物“麦切り”(そうめんとうどんの中間くらいの太さの麺) を求めたのでした。
3日目の朝、(同じ宿に)もう1泊して庄内を堪能したいというY君とはここで別れました。
Y君とはおいしい地酒を飲んで旧交を温めることができたのはよかった。
住んでいるところがだいぶ離れてはいるけれどもメールでのやりとりは頻繁だし、久しぶりという感覚はまったくありませんでしたね。
まあ、次回は5年後の70歳記念の旅でもと言い合って(笑い)。大丈夫かなあ(笑い)。
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筆者の庄内への行き帰りというのは決まったコースをたどるのが常です。
つまり庄内に向かうときは内陸の月山道を経由して、帰りは海端の庄内浜を南下して新潟県山北の海をたどって米沢に戻るというコースです。時計の反対周りに、円を描くようにして。
で、途中に立ち寄ったのが温海温泉より山中に入った(もう新潟との県境に近い)関川の集落。
ここは原始布のひとつとして有名な“しな織り”の里です。
しな織りとはシナノキ(榀木/アオイ科シナノキ属)の樹皮を剥いでその甘皮(内皮)を繊維にして織るもので、アイヌの“アットウシ”に相通じています。
関川には地域振興も兼ねた“関川しな織センター”という施設が建っており、そこでは工程の展示も含めて製品の販売もあり、織子によって実際に機が織られてもいます。
館内では不意な客ながら妙齢の女性が筆者の相手をしてくださり、ていねいに説明をしてくれました。
そこでしな織りのビデオを見たのだけれど、ある程度の予備知識は持ってはいましたが、その工程の段階の多さと糸に紡ぐまでの時間の長さは気が遠くなるほどで、ほとほと感心することしきりでした。
そうそう、案内の彼女がシナノキの乾いた葉と実の匂いをかがせてくれたのだけれど、これが甘いのですね。びっくりです。
シナノキを天然で見る機会というのはあまりないのだけれど(蔵王のドッコ沼畔に群生している)、今度は葉と実を拾ってきて保存しようと思いました。
こちらが「このあたりは熊も出るんでしょう。マタギはいますか」と聞けば、ニヤッと笑って、「あなた、もしかして、鉄砲撃ち?」と来ました(笑い)。オイオイ!(笑い)。
「オレは蚤の心臓なので、とてもとても!」と返しましたが(笑い)。
記念にちょっとした名刺入れを買いました。
物には膨大な時間と技術が詰まっているのですから、いかに小物とはいえ値段は3,300円にして当然です。
山中の道はいいです。
関川集落から鼠ヶ関(ねずがせき)の海に至る道の途中に、泉がありました。冷たくてとてもおいしい水でした。
古くよりここは、旅人ののどを潤してきたのだと思います。
ヤマトリカブト(山鳥兜/キンポウゲ科トリカブト属)。
トリカブトは日本三大猛毒植物のひとつですね(あとふたつはドクゼリとドクウツギ)。
しかし、この青紫は美しいものです。
山中の田んぼにスズメ除けのカイトが舞っていました。
このリアルな姿は効果十分(笑い)。
温海の名産品といえば、言わずと知れた“赤カブ=温海カブ”。この温海カブ漬けのおいしいことといったらありません。
その赤カブはこうした伐採地に火をつけて、そこで作られるのです。いわゆる焼き畑です。
この原始的な農法が今に生きているのです。
そうして山を下ると海が…。
なんという胸のすく風景であることだろう。淡いあこがれがただようのはどうしてだろう。
府屋の狭い路地。
名勝、笹川流れ。
筆者が知っている海で最も美しいと思っているのがこの笹川流れです。海面はまるでガラスのようです。
ここで家族でキャンプをしたっけ。子どもたちと磯場の小さな貝をたくさん採ってあぶって食べたっけ(今は禁止されているのかどうか)。
仲間とともにスケッチ旅行にも何度か。
笹川流れは思い出がいっぱいの海なのです。
上の景色のすぐわきに海水を煮詰めて作る塩の工房ができていて見学しました。
向こうに見えるは粟島です。
まだ渡ったことがないのですが、急に行きたくなりました。近いうちにきっと。
そうして青い海の景色を目に収めて小さな旅は終わりました。
帰りはいつものごとく岩船港鮮魚センターに立ち寄って知人へ家への土産物を買い、あとは内陸へ山形県小国町へ米沢へと向かったのです。
と、県境の新潟県関川村に入ったあたりで胸騒ぎがしてきました。しまった! 土産物の月山ワインとワカサギの揚げ物3パックを部屋の冷蔵庫に入れっぱなしできてしまった!
ここでも、ティラリ~~ンです(笑い)。
で、宿に電話して、悔し紛れに言ったのです。「部屋の冷蔵庫に入っているものは(泊を重ねる)Y君へのプレゼント。よろしく言っておいてください」と(笑い)。
お互いのイビキ対策ということで、別々の部屋をとっていたことからの笑い話。ワインはともかく、あのワカサギ、食べたかったんだよな(笑い)。
こっちもドジです(笑い)。
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実は旅の最初は、高校時代の担任のお弔いに伺ったのです(場所は知憩軒の近くの櫛引のお寺)。
担任は現役を退いた後は実家の寺を継いで住職をなさっていたのですが、3年前の9月に71歳の若さで急逝したのでした。
彼はあまり口外はしていなかったようだけど(相手をしてくださった奥様もあまり存じていなかった)、学生時代はベトナム反戦運動が高揚していた時期、全共闘の経験を持っていました。
国語の教師であった彼が作るテスト問題は(今となってはよき思い出の一コマ)、なんと、高橋和巳の『わが解体』からの出題だったこともあったなあ(笑い)。
高橋和巳は当時、京都大学の助教授にして小説家、一世を風靡した全共闘・新左翼の象徴だったのです。
彼はそんな一面を隠すことなく生徒に晒していたわけで、日々、全力で生徒と向き合っていたという印象でした。
立ち寄れてよかったです。これで心残りがひとつ消えました。
日常を離れて外に出るということはいいものです。
魅力的な方たちにたくさんお会いし、美しい風景を目に収め、おいしいものを口にし…、もう明日へのエネルギーは満タンです。
さあて、また大工のひとにならなきゃ。
後日、Y君からメールで送ってきたことには「“産直あぐり”の梨と葡萄は絶品でした。うまかった。
おいしいものを前に、相棒との会話も弾んだんだろう。
えがったの! もっけだの!(笑い)
そいじゃ、また。バイバイ。
※写真の下に「*」がついているものは、「Y君」こと山内松吾さんの提供によるものです。
※本文に割り込んでいる写真はサムネイル判で表示されています。これは本来のタテヨコの比から左右または上下が切られている状態です。写真はクリックすると拡大し、本来の比の画像が得られます。