山歩き

尾瀬へ、燧へ

本日は(2024年)6月11日、久しぶりに早朝のウォーキングを再開したのだけれど、同じ時刻なのにちょっとの間に朝日の光差す角度がぐんと増しているのにはっとしたのです。考えてみると、もうすぐ夏至が近いのですね。
今年は雪の厳しさがなかったせいなのか、なんか、冬至からの半年は早かったなあ。

今回のsignalはあこがれの尾瀬に行ってきた山行の記録、題して「尾瀬へ、燧へ」です。

夏の思い出
  江間章子 作詞 中田喜直 作曲

夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬 遠い空
霧のなかに うかびくる
やさしい影 野の小径
水芭蕉の花が 咲いている
夢みて咲いている水のほとり
石楠花色に たそがれる
はるかな尾瀬 遠い空

夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬 野の旅よ
花のなかに そよそよと
ゆれゆれる 浮き島よ
水芭蕉の花が 匂っている
夢みて匂っている水のほとり
まなこつぶれば なつかしい
はるかな尾瀬 遠い空

 

下は、今も大切に保管している1994年6月発行の『サライ』(小学館)、この号は「遥かな尾瀬 遠い空」というキャッチコピーが大きい尾瀬の特集でした。コピーは当然にして唱歌「夏の思い出」の歌詞の一節です。
「夏の思い出」は筆者が好きな唱歌のひとつ、江間章子(1913~2005)と中田喜直(1923~2000)がつくったこの唱歌はときを超えた未来への遺産だと思います。

国破れて山河あり。そんな気持ちで作った詞でした。戦時中、尾瀬の入り口の戸倉へ買い出しを名目に遊びに行ったときにミズバショウを見たんです。峠を越えた湿原や沼はもっと美しいと聞いて、そのイメージが心の安らぎになればと思ったんです。

と本誌の中で江間は語っています。
「夏の思い出」がNHKラジオ歌謡として放送されたのは1949年のこと、それは戦争に疲弊しその影が重くのしかかっていた日本人のこころに明るくすこやかに寄り添ったのだと思います。そうしてこの歌によって尾瀬は、全国にその名を馳せることになるのです。
「夏の思い出」に歌われる詞(ことば)とメロディアスな旋律、それらに誘われるように浮かぶうつくしい風景…。尾瀬はどこまでも甘いにおいがするものです。
そういえば昨年の今ごろ、保育園から小中学と一緒だったマドンナが遠い旭川からはるばる我が家を訪ねてくれ、焚火のかたわらでデュエットしたのもこの歌だったなあ(笑い)。

下は尾瀬の福島側からの玄関口、檜枝岐(ひのえまた)村にある歌碑。 

自宅を6月5日の9時近くに出て(昼食をはさんで)約5時間、登山口の御池(みいけ)まではもうすぐ。
この山行でめざすは(東北以北の最高峰の)、燧ケ岳(ひうちがたけ、ひうち/2,356メートル)です。
天気もよさそう。

筆者の尾瀬行きは1999年以来かれこれ4度目になります。
かつての3度のうち2度はいずれも(筆者が主導した)職場の小旅行、他は子どもたちも一緒の家族旅行でのこと、そこはどうしても尾瀬ヶ原と尾瀬沼の周遊がメインとなるわけで、ここに燧ケ岳登山を組み込むことはできませんでした。
それであこがれつのって満を持して登山の計画をしたのが2017年のこと、ところがその6月に筆者自身の身体に不具合が見つかってやむなく(泣く泣く)断念した経緯があったのです。今回は、よって悲願(笑い)。

登山基地の御池に着けば、まだ雪があってビックリ。
ここの標高は1,531メートル。

登山では無理は禁物、そして筆者自身はもう、決して無理が利く年齢でもないですしね。
自宅から御池までは約200キロ、1日目はとにかく登山基地に着くことを目的とし、体力を少しでも温存して翌朝に備えることとしました。
それでここで朝まで過ごすために、いつものごとく軽トラの荷台にテントを設置しました。
駐車スペースがそのままキャンプサイトになるこの軽トラテント、我ながらグッドアイデア、これはもう特許申請ものです(笑い)。
そしてこれが意外にも快適な空間なのです。ワインを飲みながら読書はできるし(笑い)、ぐっすりと眠れるし。
今回は高地でのキャンプ、寒さを見越して(朝は6℃でした)シュラフは2つ重ねて使いましたがこれも正解でした。

夕食は予定通りの牛丼です。「尾西の白飯」(アルファ米/湯をそそいで15分でできあがる)にレトルトの具を載せた簡単なものですが、これがうまかったです。
自分は普通のひとの分量は食べられず、ご飯は3分の1ほどを残して翌朝に回したのですが、これもそれでよかった。
朝食は“もずくのおじや”に、たっぷりの生野菜のサラダとコーヒーと。
山飯というのはちょっとした工夫でいかようにもでき、それは楽しいものです。

夕暮れ迫って。
御池は400台収容可能の大駐車場ですが夜にも30台ほどはあって、そのうち半数ぐらいは山に入っていて停めてそのままにしているもの、半数は車中泊で翌朝に備えるひとという感じです。夜明け前に到着するクルマも何台かありました。テントは筆者だけでしたね。

夜明けごろからの、野鳥の鳴きかわしのシャワー。
シジュウカラ(四十雀)やヤマガラ(山雀)、ウグイス(鶯)、ミソサザイ(鷦鷯)、オオルリ(大瑠璃)にツツドリ(筒鳥)、カッコウ(郭公)にホトトギス(鵑)…、その競演はすごかったです。
そうして野鳥の声を聴いていると、鳥とて個体差や個性というものがあることに気づくのです。
例えばシジュウカラの「ツピツピツピツピ」の連続音の速いこと。例えばカッコウ、ここのカッコウは「カッコウー、カッコウーン、カッコウー」と鳴き声のしっぽに小さな「ン」をつけるのでした。集中して聴いていると、実に面白いものです。

翌朝早く、静岡からおいでの同年代と思しきゴトウさんという方が親しく声をかけてくださり、しばらく山談議をしました。花の写真撮影を趣味にしているという彼は月山へのあこがれを募らせているようでした。
下は、その時にゴトウさんに撮っていただき送ってもらったもの。朝食後のコーヒータイム。

さて、出発です。
歩きはじめてほどなくゴツゴツした急な岩場が現れて、(トレッキング)ポールはすぐにしまいました。こういうところでポール使いはかえって危険、手を第3第4の足にすべしです。

岩場の連続の1時間ほどの登りで池塘(ちとう)のうつくしい広沢田代にでました。ここでひと息です。

さらに急坂を50分ほど登ると、今度は燧がうつくしい姿を見せる熊沢田代です。ここでひと息です。
宮城の大崎からの登山者と遠くの山を見てあれこれ。

熊沢田代からは西に、雪をかぶる平ケ岳(2,139メートル)も見えて。

池塘と越後の山々を背景に、登山者に撮ってもらいました。

7合目の標識の先に、覚悟していた雪渓が現れました。

この雪渓は急斜面、しかも500メートルはあろうかというロングコースです。こういう場所でアイゼンがないのは命取りというもの、滑落したらどこまで行ってしまうのか。
ここではとにかく一歩とにかく一歩という感じなので、単純にも1から10までをブツブツ、何度も何度もつぶやきながら歩きました(笑い)。
つらいときには前方や上の方ではなく、足元だけしか見ないことも大切ですよね(笑い)。足元だけを見て一歩、また一歩ととにかく足を前に少しでも出していると、いつのまに進んでいるものなのです。

うしろには雪をかぶる(かつて登った)会津駒ケ岳(2,132メートル)の雄姿。

7時に歩きはじめて約3時間半、ピークのひとつ、俎(まないた)グラ(2,346メートル)に到着です。
ようやっとですが、ヤッター!(笑い)
そして、うしろが尾瀬沼です。
尾瀬沼は約8,000年前に燧ケ岳の噴火で岩屑なだれが発生して川が堰き止められてできた湖と言われています。
かつてはここに観光船が走り、沼東岸と尾瀬ヶ原を結んで登山客の負担軽減の便宜を図っていたのだとか。ひどいことをしていたものだと思います。
自然が何より大切としてこういう便利や安易なことを退ける勇気、これが尾瀬の力なのだと思います。

30分ほどで、こちらがさらに高いピークの柴安グラ(2,356メートル)へ。
俎グラから柴安グラへは急に下って急に登るというルートで、筆者などはヒーコラヒーコラでした(笑い)。

山頂近くの岩肌だけが蛍光色に変色していたのが印象的、地衣類でしょうか。

柴安グラから見る至仏山(2,228メートル)と、燧と至仏にはさまれた広大な高層湿原の尾瀬ヶ原。ここが「夏の思い出」に歌われたミズバショウの舞台ですね。

燧ケ岳に登って尾瀬沼と尾瀬ヶ原をながめる…、これが筆者のあこがれのひとつであったので、登頂はとても感慨深いことでした。

道々出会った花々を少し。

ご存じ、ミズバショウ(水芭蕉/サトイモ科ミズバショウ属)。御池の登山口に取りついてすぐにも見ることができました。
ミズバショウは尾瀬と言えば反射的に出るような、尾瀬の象徴です。今回の筆者もそうですが、6月の尾瀬行きの目的は大方この花の風景にあるでしょう。
白い花びらのように見えるものは仏炎苞(ぶつえんほう)と呼ばれる苞(ほう)、葉の変化したものだとのこと。

ほどなく、オサバグサ(筬葉草/ケシ科オサバグサ属)に出会いました。
尾瀬の植物図鑑やパンフレットにオサバグサの紹介は見当たらず、燧ケ岳の御池側裾野での発見は貴重だったのかも。一カ所に数株あっただけであとは見ることができませんでした。
オサバグサと言えばやはり尾瀬国立公園に位置する帝釈山がことさらに有名、実は昨年はその近くの田代山に登り帝釈山までを縦走したのでしたが、その延々とつづくオサバグサの群落には感激したものでした。

この、独特の花姿。

韓紅(からくれない)の色うつくしいムラサキヤシオツツジ(紫八汐躑躅/ツツジ科ツツジ属)。
福島以南の山々には一般的なツツジですが(裏磐梯の五色沼のツツジはほぼムラサキヤシオです)、山形県央の蔵王にはありますが、県南では西吾妻の天元台高原がせいぜい。これは北関東区の気候(東日本太平洋側気候)の影響を強く受けている植物と思われます。
ムラサキヤシオツツジは我がルーザの森にもあるにはあるのですがごくごくわずか、しかも花の色はぐっと薄いです。

湿原を代表する風景をつくるワタスゲ(綿菅/カヤツリグサ科ワタスゲ属)の、これは花。地味なものです。あの綿状の姿は実をつけたものでやがて風が種子を運んでいきます。

タテヤマリンドウ(立山竜胆/リンドウ科リンドウ属)。
燧ケ岳の高山植物の分布は筆者の地元の西吾妻山とさして変わりがないのに、リンドウでは西吾妻にはほぼミヤマリンドウ(深山竜胆)、こちらはタテヤマリンドウ一択の様相です。
広沢と熊沢の両田代をはじめ、下山してからの大江湿原でもタテヤマリンドウだけでした。 

アズマシャクナゲ(東石楠花/ツツジ科ツツジ属シャクナゲ亜属)。熊沢田代を抜けたあたりで見かけたでしょうか。
アズマシャクナゲはいずれも咲きはじめ、これからの燧への道はシャクナゲの道になっていきそうです。

俎板グラのピークあたりにたくさん咲いていたミヤマキンバイ(深山金梅/バラ科キジムシロ属)。
黄色があざやかです。

御池からの上りにも、長英新道を通っての尾瀬沼への下りにも最も目についた植物はイワナシ(岩梨/ツツジ科イワナシ属)でした。常緑小低木。
イワナシは我がルーザの森(約350メートル)にもあり、ここ燧の2,000メートル級の頂上近くにもあるというきわめて垂直分布の広い植物です。ただしここよりも緯度にして90分高い(差がある)西吾妻にはあまり見当たりません。
ルーザの森では今、イワナシがおいしい実をつけていてほお張ることができますが、燧では今は花の盛りというところでした。

燧ケ岳の上りの北斜面と下りの東斜面は植生の様相が一変、下りでは針葉樹林帯に至る前の樹木はダケカンバ(岳樺)が多くを占めていますが、その中でも目だったのはサクラでした。
一見してこれはミネザクラ(峰桜)と思ったのでしたが、下山して長蔵小屋につくと説明書きがあって、これはミネザクラの一変種のチシマザクラ(千島桜/バラ科サクラ属)というのだそうです。葉や花柄に毛があることで区別できるのだとか。
それにしてもみごとなサクラが我が世の春とばかりに咲きほこっていました。

何だろう、フキ(蕗)のようだけど茎の太さとみずみずしさがちがう。
下山後に長蔵小屋わきの尾瀬沼ビジターセンターに駆けこんで専門員に尋ねれば即答、マルバダケブキ(丸葉岳蕗/キク科メタカラコウ属)とのこと。
これから黄色な花が咲くけど、筆者も花があったら分かったかも。

下山途中の、尾瀬沼が近くなってきた針葉樹林帯の道々、見たことがある松ぼっくりをたくさん発見、かつて我が家に移植して今は枯れてないクリスマスツリー様のイラモミ(刺樅)のそれにそっくりなのです。でもそんな木はどこにも見当たらないと不思議に思いながら歩いていたのです。
分からないので松ぼっくりを示してやはりセンターの専門員に聴きました。これも即答でした。
「これはトウヒですね、ここら一帯の針葉樹林はオオシラビソとコメツガが多くを占めていて、このトウヒもそれに混じっているのです」、と。
それを聴いてからよくよく見てみると、オオシラビソ(大白檜曽)とコメツガ(米栂)のそれとは樹皮がまったく違いました。

下はトウヒ(唐檜/マツ科トウヒ属)の松ぼっくりと大木の幹の皮目。

コミヤマカタバミ(小深山片喰/カタバミ科カタバミ属)。
コミヤマカタバミは西吾妻にもあるにはあるけど、そう目に出来るものではありません。でも燧では上り下りとも、特に下りの道では林床に多く見かけました。個体によっては濃い紫の花もありました。

リュウキンカ(立金花/キンポウゲ科リュウキンカ属)。
下山後の湿原に、ミズバショウに添うように咲くたくさんのリュウキンカを見ました。

シラネアオイ(白根葵/キンポウゲ科シラネアオイ属)。
尾瀬にも自生種のシラネアオイがあると聴いていたのでそれを楽しみにしていたのですが、道々、自生種に出会うことはありませんでした。
これは長蔵小屋の庭に咲いていたもの、植栽して増やしたものと思われます。

尾瀬沼畔のミズバショウ。

尾瀬沼に流れ込む川。

尾瀬沼畔。

夕方の、尾瀬沼の向こうの燧。
湖畔の標高は1,660メートルで燧ケ岳は2,356メートル、その落差の中の空間風景。

早朝の、水鏡の燧ケ岳。

早朝、尾瀬沼のほとりを歩いて、三平下まで行ってきました。ここには尾瀬沼山荘が建っています。
群馬側の取りつき口の大清水から入れば、この三平下に着きます。
筆者のはじめての尾瀬もこの大清水から入ったものです。

尾瀬に山小屋はたくさんあれど、その山小屋の歴史にしても尾瀬の自然保護のために果たしてきた役割の大きさにしても、尾瀬の山小屋と言えばやはり長蔵小屋なのです。
この玄関口の趣き。

木造建築の重厚な造りにはほれぼれします。

氷の解けた沼の面には燧の影がうつって頂の雪がちらちらゆれている。實に澄み透つて朗らかな、長閑な五月の山の朝だ。あちこちで小鳥がしきりに鳴き交わしている。
昨日沼岸で洗濯している妻とも語りあつたのだが、こんな静な詩のような美しいところがどこにあろう、よく人々は私達の生活をさびしいだろう、不便で困るだろうと云うけれど、私たちは全く幸福である。
貧しい私たちの身分で、こんな淨く美しい世界に住みうることは全く過ぎたる仕合せである。

上は、長蔵小屋二代目小屋番の平野長英氏による「山小屋日記 或る年の五月の日記」(『山と溪谷』1950年6月号に掲載)からの一節です。
これを最初に目にしたのは長蔵小屋のホームページでしたが(その文章表記が正しいのかどうかが気になって)、その原本を求めて地元の市立図書館を通じて国立国会図書館からコピーを入手してみました。
長蔵小屋には失礼ながら、こうやって原本に当たると転記のあいまいさも見えてきました。

筆者は尾瀬に来る前にこの文章に出会って言い知れぬ感動を覚えていました。長蔵小屋に脈々と伝わる精神のようなものを垣間見た気がしていたのです。
この、大きな自然の中で営まれるつつましい暮らしの中にある豊かさ、そしてその幸福。
これはきっと、筆者の終生忘れ得ぬ大切な言葉になると思います。こんなふうに表すことができる人生でありたいとワタクシも思うのです。

長蔵小屋の、雰囲気のある廊下。

筆者も利用した、まだ薪ストーブで暖をとる談話室。
ここには朝の準備に忙しい従業員の方しか写っていませんが、けっこうなにぎわいの部屋でした。

食堂。
相部屋になった者同士がひとつのテーブルに座っての食事でした。
“テーブルG”のメンバーは、千葉は市原から、神奈川は小田原から、大阪から、そしてなんと長崎からと、全国から集ったひとたち。
長崎の彼は尾瀬ヶ原のミズバショウはピークを過ぎていて少し残念だったと言っていました。遠いところからわざわざ、それはお気の毒というものです。
はじめて出会った者同士の、尾瀬情報の交換と山談議をしながらの食事は楽しいものでした。

夕食。
ご飯にのっけているのは野沢菜漬けの炒め煮、これはいつも出されるひと品で、筆者はこれが何より好きです。
我が家でもこれに似せて、青菜漬けを材料とした炒め煮をつくります。

朝食のメニュー。
ここで目に留めたのは納豆でした。袋に入っていて、口を切ってごはんに載せるだけなのです。これがほどよい味がついていておいしかった。納豆をとく器がいらない、発泡トレイもない、調味料もない、でもおいしい…、これは画期的な商品だと思います。
で、画像を頼りに探ってみると、秋田のヤマダフーズの製品でした。こんな商品が手軽に買えたらと思うけど、コストコ扱いだけではねえ(笑い)。

そうして翌朝、沼山峠までを約1時間歩きました。そして御池と沼山峠をつなぐ尾瀬シャトルバスに乗って御池に戻ったのです。

下山口の沼山峠。

燧ヶ岳からの眺望、尾瀬沼や湿原の風景、そして長蔵小屋での滞在…、おりに触れ思い出すことでしょうが、そのたびにエネルギーが湧いてきそうです。
十分に満足の、忘れ得ぬ山旅となりました。

それじゃあ、また。
バイバイ!

 

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