旅の空、飛ぶ声

盛岡ぶらりぶらり 後篇

岩手山登山を断念しての裏番組の大方は、盛岡の街の探索となりました。今回の後篇は4日間のうちの、(8月)9日、10日の様子です。
そしてこの2日間は特に、(前篇でも紹介した)『d design travel IWATE』(以下、“d”)が大いに役立ったことをまず記しておきます。

朝、宿を出るときに思わぬトラブル。何と、ホテルの立体駐車場から下りてきて出庫を待ったレンタカーのセルモーターが回らないのです。後ろには次々との客が並んで控えているし、焦りました。
結局、順番を後回しにしてもらって、筆者は(幸いにも歩いて2分ほどの)乗り捨て返却先に出向いてトラブルを報告、社員同道して調べてもらった結果はバッテリー上がりでした(こちらに非はないと思います)。それで、荷物をすべて別のクルマ(同じ“スイフト”)に移しての出発となりました。ずいぶんロスしました。
いやあ、ヒヤヒヤしました。自分たちだけならいざ知らず他の客にも影響が出てしまうという、立体駐車場ならではのハプニング。

この日は朝から強い雨です。
まず向かった先は、岩手県立美術館。開館以来、ずーっと気になってはいたもののようやく実現した訪問です。
まず、ギャラリーまでの柔らかな動的なアプローチが美しかった。
下は、2階からエントランス方向をふりかえったところ。

で、この美術館の特筆すべきは、館内はもとより収蔵品に限っては作品そのものの撮影も許可されている(ただしフラッシュは禁止)ことです。筆者はこれまでいろんな美術館・博物館を訪ねてきたけど、こういう対応ははじめてのこと、それはとてもうれしいこと。よって、以下に示す貴重な図版もその場の撮影によったものです。

岩手県立美術館と言えば、何といっても松本竣介(1912-48)ですよね。
下は、「自画像」1941。
わずか36歳で夭折した松本竣介が残した足跡は日本の美術史に大きく刻まれています。
戦況色濃い時代に生きて、絵描きとして暮らしを立ててゆくことはどんなにたいへんだったことか、辛苦はいかばかりかと想像します。けれども、代表作ともいえる「立てる像」1942(神奈川県立近代美術館)や「画家の像」1941(宮城県立美術館)にはその苦悩を忍ばせつつも、突き抜けた精神性や到達点も見られて筆者の胸を打ってきたものです。

今回は、自画像を含めて、出身地(2歳で東京から花巻へ転居、10歳で盛岡に転居)ならではの収蔵品の数々に、その画業の(生涯の)軌跡を追うことができたのは濃密な時間となりました。
20代はじめというのは、(傾倒したんだろう)黒い描線太くジョルジョ=ルオー(仏1871-1958)の影響がモロですね。しだいに画面がシュルレアリスムの影響も受けて構成的になった頃はマルク=シャガール(露/仏1887-1885)の影響があるようにも思われます。
筆者にとっての松本竣介のオリジンの典型は、下の「議事堂のある風景」1942とか「ニコライ堂」1941(宮城県美術館)あたりだと思っています。直線的な描線、暗い色調の中に人物を点景としておいて抒情たらしめる……。

ところが今回の展観はいつもの筆者たち鑑賞者が抱く松本竣介のイメージに異を唱えるものとなりました。松本描く戦争賛美、戦意高揚を目的とした作品が、戦後75年にしてはじめて公開・展示されていたからです。正直、衝撃でした。
これだけでも十分に盛岡に来たかいがあったというものです。

これは、敗戦の色が濃くなってきた1943、44年に盛岡市で開催された戦争画展に出品されたものとのこと。
当時は戦争に協力する作品を制作するよう軍部から呼びかけがあった時代、また、物資が制限され絵の具などの画材も配給制になり、協力しないと配給を受けられない事情もあって渋々展覧会に参加した画家たちもいたようです。

けれどもじっくりと目をこらして見るにつけ、松本の作品は、決して「渋々参加」ではないですね。
もう身体全体が軍国主義、戦争賛美に染まっており、「戦意高揚に」堂々たる貢献をしていることが見てとれます。それは誠心誠意をもって制作し、ひとつの技術の到達点をも見せるという意味で実証的です。

これほど雄弁な痕跡がありましょうか。

筆者はこれまで松本の絵に接してきて、彼は戦争に同調していない、時代の空気に呑まれてはいない、そういう冷徹な確固たる意志を絵の中に見ていたのですが、そうではなかった。そういうことも含めての葛藤と苦悩の画面だったのだと思い返したのです。
それは、がっかりではない。むしろ、松本が生身の人間だったという証しにおいて歓迎するものです。

元の保管者・収蔵者は誰だったのか(公の機関だったのでは?)はいざ知らず、これは明らかな秘匿物でしたね。
マツモトシュンスケという植えつけられたステレオタイプを壊すまいとしたところの。負の遺産であるという認識をした上での。
でも、これで松本は自由になったのかもしれない。

もうひとり、菊池武雄という作者名が気になりました。
もしやと思って帰ってから美術館への問い合わせではっきりしたことですが、この人物はかの宮澤賢治の唯一の童話集『注文の多い料理店』の挿絵を担当した伝説のその人である菊池武雄(1894-1974)。彼の挿絵なくば、名作の誉れ高い童話集の評価も少々違ってきていたとも思います。
その菊池も軍部の要請に応えて、戦意高揚ポスターを描いていた。しかも、入魂の、見事なまでの筆致で。

これが、戦争というものですね。戦争は理性をも軽々と超えてしまう。分らぬままに、いずれはひとを公然と殺す役目までも担ってしまうという。


上からは文脈的にはつながらないことではあるけれでも、宮澤賢治(1896-1933)がこういった戦況色濃い時代、敗戦色濃い時代にまで生きていたら、ともすれば彼などは徹底した国粋主義に傾倒したかもしれないという危うさは筆者は持っています。よって賢治は、短命にして1933年に亡くなってよかったのだとも。
ひとによって命の長短は良し悪し、とも言えることです。

筆者にとって岩手と言えばもう一人、松本竣介の盛岡中学の同級生であった彫刻家・舟越保武(1912-2002)も大切な人物。ライバルであった佐藤忠良の宮城県美術館のような展観(佐藤忠良ギャラリー)を期待したのだけれど、作品数が少なかったのは残念でした。
下は、大理石による「LOLA」1972。

このコロナ禍の中、企画展は中止に追い込まれたようですが、筆者にとっては収蔵展のみでも十分すぎる内容でした。満足、満足。本当によい時間でした。

続いて向かったのが、岩手大学農学部の付属施設の農業教育資料館、旧盛岡高等農林学校本館です。
当然にしてここは宮澤賢治が学んだところ、当時そのままの建物が今も大切に資料館として保存されているのはうれしいことです。筆者も相棒のヨーコさんもはじめての訪問となります。
(写真は、管理者に、営利目的ではないならOKという許可を得てのもの)。

下は、1912(明治45)年創建、重要文化財に指定(1994)の旧盛岡高等農林学校本館。実に美しい建て物です。
賢治が実際に学んだこの場所を踏みしめることができてうれしいです。

2階の広い講堂には、建学第1回から現在に至るまでの卒業生の、卒業記念写真の年度ごとの掲示があり(抜けている数年の年度について、提供の呼びかけがあった)、宮澤賢治は「第13回得業生 大正7年3月」のクレジットのもとにありました。
下は、その部分、最上段の腕組みの学生の右下が賢治です。
この若かりし顔が今や世界を大いに膨張させ、人々を虜にしているわけです。すごいなあ。感激だなあ。

質素にして端正な階段と踊り場。
昔の建て物というのはなぜにこうも、美を備えているのだろう。

下は、宮澤賢治の学籍簿のよう。それから得業(卒業)論文「腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ對スル價値」も見えました。
恩師である関豊太郎教授が療養中の賢治を見舞ったものの、会うこと許されぬ状態でやむなく退散した様子の随想もあって胸を打ちました。

火山弾の標本「ベゴ石」も。
実際に賢治はこの標本を見ていたのかもしれないし、見たうえで「気のいい火山弾」を書いたのかも。

しっとりとしてそぼ降る雨の中、高農本館をあとにしました。

盛岡とくれば光原社は定番のコース。はやり、絶対外せないですよね。
一般的な観光地などは極力避けている“d”でも、第1番の掲載はこの光原社についてでした。
ここは単なる店(民藝の店)なのではなく、建て物および空間そのものがもはや文化なのです。
筆者も本物だけに囲まれているという安心感からなのか、何度来ても落ち着きます。
ちなみに、「光原社」の命名は宮澤賢治ですね。

ここは言わずと知れた、賢治の童話集『注文の多い料理店』の発行元です。
初代店主の及川四郎は賢治の高等農林の1年後輩、同級の近森善一とともに若くして農薬関連の薬剤などの販売と出版業を起業して成果を上げ、その勢いでもって賢治の童話集の出版に至ったようです(及川と近森のふたりは花巻農学校に本あるいは薬剤のセールスに出向いた折に賢治と面識を持ったのでは。賢治はその後、出版も行うというふたりに書きためたものを見せたと筆者は推測しています)。

この書の題は当初、「山男の四月」を賢治と近森が押し、反対して及川が「注文の多い料理店」にしてしまったとのこと。
1,000部を発行したものの(書名に反して)売れ行きはさっぱりで、賢治は大部を買い取り、処分に困った及川は近所の子どもを集めて駆けっこをさせ、順位に関係なく配ったとのエピソードも残っています。
今、この本の新しい発見があればもはや博物館行きの価値、売買なら1億円の値がついても売れるのではないでしょうか(笑い)。
筆者は友人から寄贈された精巧な復刻本を所持しています。
それにしても『注文の多い料理店』はまったく素晴らしい。相棒と筆者にとってはもちろん、たくさんのひとの人生をどんなにか豊かにしてくれていることでしょう。人類の宝珠とも言えると思います。

下は、光原社敷地内の賢治の碑の前で。

敷地内の可否館でぜひコーヒーを一杯(とともに名物のクルミクッキーを)と望んだのだけれど、もはや満席で丁重に断られました。コロナ禍の影響もあってか、客席数をぐっと減らしていた可能性はありますね。
それにしても可否館、外観も内装も美しいことこの上ないですよね。

で、向かいの同社のモーリオでお土産にクルミクッキーを買いました。
箱のデザインは紫波町で染めの工房を営む小田中耕一さんによるもの。

もう旅行前から記念の品として買うことを決めていたのは、上の小田中耕一さんの手による風呂敷です。
今後筆者は買い物のときには、これを持参するつもりです。風呂敷の文化は素晴らしいと思います。

で、さらにお土産として、相棒とも相談して、“やちむん”(沖縄の陶器)を3点買いました(やちむんって、何を意味するのかしばらくわからなかったのだけれど、何のことはない、“焼き物”の沖縄の地方読みですね)。
何とも言えぬいい色といい模様です。また、食卓には幸せのシンボルがひとつまたひとつと増えます。
(帰って相棒は、器を何とか生かそうと、小さな器にさっそくにも納豆を入れました。ワーオ!(笑い))。

9日は一日中雨ではあったけど、よい一日でした。
夜は駅前にくりだして、ビルに入っているイタリア料理の店でパスタを食べました。まずまずの味だったと思います。ただ、広い広い店内、客は筆者たちだけ。今後の経営が成り立ってゆくのか、淘汰されはしまいか、心配なほどでした。
本来お盆前の盛岡駅前なら、帰省も含めさんさ踊りの興奮も引きずって大勢の人々でにぎわうはずだったのでしょうが、やはり今年はひっそりです。にぎわいのあるところににぎわいがないというのはさびしいことです。

新型コロナの感染拡大の早い収束を願うばかりだけれど、本当にもう、長期戦の様相になってきましたね。こうなってくると、どうやって健やかに日常を送ることができるか、じっくりと知恵を働かせる以外にないみたいです。


最終日の10日はそれまでとはうって変わって美しく晴れ上がった空。気持ちも晴れ晴れです。
この日は(レンタカーは前日の午後に返却したこともあって)早朝より駅から出る都心循環バス(でんでん虫)に乗りました。
この循環バスは15分おきに出ていて、どこまで乗っても100円で便利、1日通し券で300円という手軽さです(なお市内循環バスは米沢にもあります。ただし1回の利用は210円、1日券で500円、これでも十分ですが)。

まずは、上の橋バス停で降りて、大イチョウに。相棒の小さく見えること、イチョウが大きいですね。
葉っぱを見たかぎり、これは雄株ではと思ったけどどうだろう。

“緑の広場”(公園)を通って(若い母親が赤ちゃんをバギーに乗せて気持ちよさそうに散歩してたっけ)、上の橋を渡り(これ、木製の橋なのですね。下に流れる中津川にはシャケが遡上するのだとか)、紺屋町へとぶらり、ぶらり。
そして紺屋町番屋へ。

紺屋町番屋は、1891年に盛岡消防“よ組番屋”として現在地に建てられ、1913年に消防組第四部事務所として改築されて現在に至っているとのこと。
このような建造物をよくも今の今まで大切に保存してきたものです。空襲の被害にも遭わずに幸運でした。
これは、古き佳き文化への盛岡という街の愛着と理解の表れだと思うなあ。実に、美しいです。
ただこの番屋、老朽化も進んでいるようで今後、補修・改修して公園等への移築が必要なのかも。

紺屋町をぶらり、ぶらり…。
次に寄ったのは、南部しぼり、紫根染・茜染の草紫堂です。


賢治に「紫紺染について」という佳品があるのですが、盛岡で染めと言えばこの紫根染(しこんぞめ)なのです。かつて知人に紫根染の花瓶敷きをいただいたことがあって気になっていた店です。
店のリーフレットを見れば、どこかでお見かけしたことがあるなあと思いきや、詩人の高田敏子(1914-89)さんではないですか(図版でですよ、…笑い)。お久しぶりです(笑い)。
筆者は詩を集中して読んでいた時期があり、高田敏子の詩も好きでした。平易で、スキっとしていて抒情たっぷりで。 

「静かに訪れて」が最も好きな詩であるのだけれど、ここはひとつ短いのを、「駅」(『月曜日の詩集』河出書房新社1962から)を紹介しておきます。

夏休みを積みこんで
汽車は行ってしまった

がらんとした駅のホームには
カンナの花ばかりが赤く
少女は耳をすまして
次に運ばれてくるものを待っている

山すそのあたりに汽笛がなり
新しい季節が近づいてきた

少女たちは いつもそうして
何かを待ちつづける

リーフレットには、高田さんの短い随想が添えられていました。
盛岡に住む友人が招いてくれ、草紫堂につれてきてくれ感激したのが南部紫根染。そこで紫を求めた旨の最後は、「娘も孫も着てくれる」だろう、「先のことまでを思いながら、愛着を深めています」と結ばれて。

工人を兼ねるお店の方に実作をもとにしたていねいな説明をしていただきました。
今は、ムラサキ(紫)もアカネ(茜)も地元はもとより日本では調達できずに海外からの輸入品を使っての製品づくりとのこと、苦労も多いようでした。他の産地の“絞り”や“縮み”とは違って、最後は布地の凹凸を取り去って平滑に仕上げるのが草紫堂の製品とのことです。
それにしても、素晴らしい縫い絞りです。まさに熟練の職人技です。
筆者は記念にカード入れを求めました。

紺屋町をぶらり、ぶらり…。
次は、筆者にとってこういう店構えにはもう目がない、荒物日用雑貨のござ九・森九商店です。
それにしても写真左の瓦屋根のシュールなこと、何がどうなってこうなったのだろう(笑い)。
ござ九は、古さとともに造形的にも趣のある建て物です。

ござ九は民芸の店とは違い、あくまで荒物と日用雑貨を扱う店ゆえの、かしこまったところがないのがいいです。
店内には一目で産地や職人(集団)が分かる“豆腐籠”とかの民藝的価値のあるものもあれば、海外からの安い輸入品も交じり、とにかくとっつき安いのが特徴と言えましょう。
箒の産地などについて質問すれば、ご主人と目される若い方は的確な答えを返してくださいます。的確な答えができるというのは、店内の品物に責任を持っている証拠ですよね。

ござ九で相棒も筆者も、それぞれの場所に適する小箒を買いました。
筆者は工房の備品として、相棒は窓のカメムシの掃き出し用(笑い)として。
生きたカメムシ君も、死んで埃屑のように変わり果てた姿のカメムシ君も、今後これで掃いてもらったらさぞうれしいのでは(?)。 

紺屋町をぶらり、ぶらり…。
最後は、図版では何度も見ていた岩手銀行赤レンガ館。
岩手銀行赤レンガ館の設計は東京駅を担当した辰野金吾とその教え子で盛岡出身の葛西萬司とのこと。全体、美しいですね。素晴らしい迫力、圧倒的な存在感です。
1911年に落成した建て物がつい最近2012年まで、100年にわたって現役であったというのは驚くべきことです。

これは、銀行員の側から見た応対窓です。こんなところで働く銀行員も、用あって訪れる人々も素敵な時間だったろうな。
おだやかでしっとりした時間というのは、美しく落ち着いた建て物の中に流れていることを実感するのです。

漆喰塗りの意匠的な天井装飾とシャンデリア。

そうしてぶらりぶらりしながら、肴町界隈のバス停まで来たのでした。
次回の盛岡は、肴町ぶらりぶらりがいいかも。

岩手山登山ができなかったのは非常に残念だったけど(それは必ずやリベンジです)、それに代わって余りあるかもしれない楽しく有意義な時間を過ごすことができました。
盛岡という街はもっともっと奥が深いと思います。さらなる探索はまたの機会です。

(帰りの昼食の駅弁、奮発してウニ弁当を買って食べたけどうまかったなあ。おいしいものを食べると幸せになるものですね。ひとって、どこまでも単純です(笑い))。

「盛岡ぶらりぶらり」は、これですべておしまい。
しっかり遊んだら、しっかり働く、これは誰しもの基本ですからね。
またエネルギーが満ちてきました。さあ、工房に入らなきゃ!

じゃあね!

 

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