森の生活

団子木の華やぎ

今で70歳以上の方ならかすかに記憶にあるかもしれない国分一太郎(1911-85)という名。
山形県は東根の出身で、東北の農村の厳しい現実を子どもたちに見つめさせる生活綴り方運動(北方性教育運動)を展開するも1941年に治安維持法によって投獄、戦後は作文教育に一生を捧げたひと、とまとめることができるでしょうか。早い話、無著成恭が著した『山びこ学校』(青銅社1951)が世に出るのを後押ししたひとりとした方が分かりやすいかもしれない。

Wikipediaより

その彼の著作に『いなかのうまいもの』(晶文社1980)というのがあるとのこと、最近になって知って取り寄せて読んでみました。
きっかけはここ数年はまっている納豆汁(寒い冬は、漬け込んだ雑キノコやズイキ=芋がらを入れた納豆汁に限る)について調べているうち、ある会社のホームページに国分の名とともにこの書が紹介されてあったのです。それは、主に故郷の食に焦点をあてて書いたものを編集者が寄せ集めて一冊の本にまとめたもののようで。
通してみればそれは、国分のはるかに遠い舌の感覚を呼び覚まし、田舎の暮らしが恋しくて仕方ないという切なる望郷の念を綴ったもの。読んでいて実に心地よく響いてきました。

その中からの、引用。
「二十日までつづく正月の期間で、一番うれしいのは、十三日のダンゴさしであった。その日になると、雪道の両側にダンゴ木市がたった。ダンゴ木とは、今コケシの材料になるミズキのことで、その冬の枝は赤紫色に色づき美しい。一段一段のように枝をひろげてのびていく木なので、その大枝を切ってきて売るのを買って帰ると、座敷の天井の下をはうように横へひろがった。私たちはそのミズキの小枝の尖端の芽を指先きでちぎる。その尖端のひとつひとつに、米の粉でこしらえた直径二センチぐらいなダンゴをさす」。
「金持ちの家では十畳間いっぱいにひろがるほどのダンゴ木を買う。家に歳祝いの人がいる家でも、この年はいくらか大き目の木を買う。しかし、ごくささやかな木しか買えないような家の子である私たちきょうだいでも、このダンゴの花と咲いた座敷に寝るのは、たまらなくうれしかった。ことしも正月になったとの思いがしみじみとした」。(「正月追想」1976より)
暮らしに溶け込んだ団子さしの美しい文章でした。このあとに、(東京住まいの)庭に鳥の落とし物から生えたと思われるミズキもあるし、団子を作って刺して飾ってみようかと結んでいました。

以下の団子木飾りは、今年の我が家のもの。

筆者がこの団子木飾りに興味を覚えたのは2007年頃のこと、出向先の病院(当時筆者は特別支援学校で“訪問教育”を担当していた)のプレイルームに、それはそれは豪華な団子木飾りが据えつけられてあったのです。病院に所属する保育士たちが準備したものでした。
窓の外は嵩を増すばかりの白と灰色の冷たい風景、その中にあってこの団子木飾りばかりは華やぎの彩り…、ここに春を待つ雪国の人びとの繋いできた思いを見たのでした。(団子木飾りの本当の美しさは、雪のない地方に暮らすひとには分からない感覚かもしれない)。実に美しかった。

そうして思い出すと、貧乏だった借家暮らし(筆者の家族は地区の公民館の片隅を間借りして住んでいた。村で自前の家がなかったのは筆者家族だけだった)の子どもの頃、その、新聞紙を壁紙にしていた6畳間にも小さなミズキの枝が据えられ、わずかな船せんべいと餅を小さく丸めたものがさされて飾ってあったのです。急に、なつかしさがこみ上げました。(乾いて木から落ちた餅は炒ってあられにしたような)。
出向先で見て以来というもの、筆者の家では毎年毎年小正月を迎える時期になると、ミズキの枝を切ってきては据えつけ(ミズキはそこら中に自生しているので買う必要はない)、使ってはていねいにしまい込む船せんべいを出してきて飾るようになったというわけです(ただし団子は付けない。団子の代わりは“繭玉”に見立てた丸い船せんべい)。
これは、子どもたちが巣立った今でもクリスマスのツリー同様に欠かすことはありません。

今までは敷地に勝手に生えている枝を切っていたのですが、今年はなかなか適当なものが見当たらず(今年は異様な暖冬で雪がほとんどなく、したがって高い枝が取れないということもある)、道路に面して生えている隣家の敷地のものを2連梯子を掛けて切らせてもらって据えました(除雪車の通行の障害にもなっていたので、そういう理由にもして)。

団子木を飾って、春よ来い!と叫びたいのはやまやまなのだけれど、あたりを見ただけでもはや拍子抜けの春の風情。相棒などは、「コシアブラなんてもうすぐ芽を出すんじゃないか」(笑い)とつぶやいたりします。
ここ米沢にあって雪と寒さを経ない春の様相は想像しにくく、いつも通りに4月29日にタラノメ、その3日あとにコゴミというルーザの山菜カレンダーがその通りなのかは今年は疑問。どんな影響が出るのかもまったく見通せない状態です。
とはいえ、団子木飾りはぽかぽかの春を呼ぶのに変わることはないのですが。文字札を下げて祈るよう、家内安全、五穀豊穣、弥勒の春、無病息災…であってほしいとも思うわけで。

なお、アイキャッチ画像ともした下の写真の背景は、日本を代表する彫刻家・佐藤忠良(1912-2011)のカレンダーポスター(忠良の作品というのは、どうしてこうも心を打つのだろう。筆者の大好きな作家です)。もう15年ほども前に、新聞の応募で当選して得たものです。筆者はこれを5枚ほど所有しており、折に触れてかけ替えをします。額は自作。

冒頭に国分一太郎を挙げたけど、地元の放送局のYBC山形放送が国分の実践を中心としたドキュメンタリー番組「想画と綴り方~戦争が奪った“子どもたちの心”~」を制作し、昨年の2月、民教協スペシャルとして加盟全国33局で放送されました。それは19年度の日本ジャーナリスト会議賞を受賞したのは記憶に新しいところです。また暮れも押し迫った12月30日には、その(編集の視点を変えた)ラジオ版として「弾圧~表現教育は踏みにじられた」が放送されたものでした。
死去35年にして、今に脚光を浴びるとはね。国分は普遍的な仕事をしていた、必要とされる何かが今にあるということでしょう。

実は、国分一太郎は若い日の筆者の憧れでした。“書くことは考えること、自分を(そして社会を)見つめること”というテーマを国分の生き方に重ねて共感していたのです。郷里の先達でもあり。
1982年の晩秋、筆者がまだ駆け出しだった25歳の時、日教組の教研集会が高輪で開かれて参加し、そののちに東京は中野のご自宅に国分を訪ねたことがあったのです。晩年の国分とさしでお話ししたのは、恐れるものが何もない青い日の、けれども大切な思い出です。
書斎の壁には盟友であったか中野重治の書簡が飾られてあり、南に面した小さな庭には東北を思わせる雑木の幾本かが冬枯れの風景を作っていたものでした。

下に、ほぼ同時に作ったyoutubeの動画を貼りつけておきます。
写真はここ10年ほどのものからのセレクト。壁面のディスプレイが年によって変わっています。中に、今ではもう他では見ることもなくなった町内会(梓山1町内会)のさいど焼き(どんと焼き)のひとコマも。