製作の時間

軽トラに住まいを 7 躯体

シリーズ「軽トラに住まいを」の前回(第6回)は棟上げまでの工程を追いました。
基礎の上に土台を据え、土台に柱を立て、柱に桁(けた=軒桁)を載せ、桁に梁を渡して、梁の上に束(つか=小屋束)を立てた上に棟木(むなぎ)を上げる…、これが在来工法、和小屋の基本の手順…、この終着点がいわゆる“棟上げ”もしくは“上棟(じょうとう)”なわけですが、それが10月3日のことでした。
大きな区切りでした。

下は、翌4日の、その棟木から軒桁にかけての屋根の構造材であるタルキ(垂木)をすべて取りつけたものです。

今回のsignalは、その第7回として棟上げ以降の工程、外壁を張る前あたりまでを記していこうと思います。題して「躯体(くたい)」です。
この“躯体”というのは建物の骨組みを含んだ構造のこと、棟上げまでの工事も当然これに含まれますが、今回は躯体の仕上げというほどの意味合いです。

上げ底アイスだとか(笑い)アデランスだとか(笑い)、店頭に魅力的で安価な商品を並べて入店を誘う人寄せパンダだとか(笑い)、とかく内実よりは外見的な装いが意味をなすたとえは多いもの。
装いと内実…、建物にしたら外装(外壁)や内装と(外装・内装などの)覆いによって隠されている躯体がそれに当たるでしょう。

躯体はひとの身体でいえば骨格ですから、骨格がなければ様々な臓器は安定した位置が保てず、したがって筋肉も皮膚もたまったもんじゃない。
建築における躯体とは人体における骨格に相当すると思います。それほどに重要です。

現代の家屋は築後20年やそこらで耐用年数を超えて産業廃棄物と化している傾向にあるらしいけれども、その短命の原因は「売らんかな」の精神で表面や外見にばかり精力を注ぎ、躯体を疎かにしているからとも言えるかもしれません。

“建坪いくら”なんていう誘い文句に乗ると危ないと思います。
手抜きをし(刻みを省略して金物を多用し)、まがい物をどんどんと使えば価格は抑えられるわけです。“建坪いくら”というのは言葉によるそれこそ人寄せパンダだと思います。
何より肝心なのは内装や外装ではなく、躯体をどう作っているのかです。

かつてシショー(大工の師匠)が「今の大工は丸ノコとドリルが使えれば事足りる。あとは何もいらない。自分が今まで覚えてきたことはみんな要らなくなってきてしまった」というふうな嘆き節を吐いていたことがありますが、これは現代の建築を如実に物語っていると思います。

建築は(消費者の安物志向とも相まって)効率化と合理化の掛け声のもとにどんどんと安直になり、世界に誇る(日常に溶け込んでいた)日本の大工の技がもはや絶滅しかかっているのです。
良心的な古い大工は悲嘆にくれて毎晩やけ酒を飲んでいるのでは…。その悲しみの深さは常人の想像を超えていると思います。

タルキを渡した次は野地板を張っていきました。下の写真はもう少しというところまできています。
屋根の上に丸ノコが上がっていますが、これはタルキの道上(棒上)で板を切りそろえるためのものです。つまり、板を1枚いちまい寸法通りに切ってから張るのではなく、屋根の上で一気に処理するのです。
この方が仕事はグンとはかどります。

野地板を張った上にルーフィング(アスファルト紙=防水紙)を張りました。こうすれば少々の雨でも大丈夫、トタン葺きまでの時間を稼ぐことができます。
写真のルーフィングは少々ブヨブヨになっていますが、これは張ったあとに雨が降ったゆえのこと。

下は、車庫の下から天井を見上げたところ。
1枚いちまい化粧した(自動カンナでカンナがけした)野地板が美しい表情を見せていますが、実は安価な住宅やアパート建築ではここは無垢(むく)板ではなく合板=ベニヤ板を使うことが多いようです。
ベニヤ板は規格品としておおむねサブロク判(3×6尺、91×182センチ)でできており、容易に広い面積をカバーできるのです。
ベニヤ板を使えば、1枚いちまい板を張りつけてゆく手間が省けます。

でも無垢板とベニヤ板とで決定的に違うのはその耐水性です。
試しに、同じ大きさ・厚さの無垢の板とベニヤをしばらく水に浸けておけばその結果は明らかでしょう。
ベニヤとは木を薄く剥いで何層にもわたって接着剤で貼り合わせたもの、しかも材料としては水分を吸い込みやすい軟材を使用したものが多く、水になど浸したらそのうちに一層一層が剥離してバラバラになってしまうでしょう。
一方無垢板も確かに水分を吸収はしますが、乾かせば元の材質に戻ります。無垢板は水分や湿気を吸っては吐く、つまりは呼吸をし続けるわけです。

屋根には野地板に水分が来ないように防水紙が張ってありますが、水分というのは雨や雪などの上からだけやってくるものではなく、寒暖差によって結露したり水蒸気として上がってきたりもするのです。

以上、したがって筆者は屋根の下地材としての野地板は無垢板とすることにしています。
今回は製材所で挽いてもらった厚さ4分(12ミリ)のスギ板を使いました。
(今回の車庫の建築に当たって、購入したのはこの野地板と外壁用の板のみ、柱材や梁材やタルキを含めその他のすべてはもらい物の解体材・廃材です)。

躯体で重要な、火打ち梁。
火打ち梁は(地震や台風などで)水平方向に変形することを防ぐ役目を担うものです。
筆者はこれを掛け側と受け側にオスとメスの仕口を刻んで梁と桁とにボルト締めしていますが、今やこれはプレスした鋼材に取って代わられようとしています。
鋼材なら刻みは不要だし、取りつけはネジ締めですから実に簡単なのです。これも効率化のひとつと言えましょう。
でもプレス鋼ではかかる力に対しての耐力は極端に弱いでしょうね。

なぜこの部分を“火打ち”というのかというと、時代劇で出てくる夫を見送る際におかみさんが(火打ち石と火打ち金で)カチカチと叩いて火花を出すシーン(厄除けですね)があると思うのだけれど、その火打ち金の形がおおむね三角形だったことからとのこと。

下は、タルキの端を板(鼻隠し)で覆い、1寸2分(36ミリ)角のカラクサ(唐草)材を打ちつけたところ。
これはトタン葺きの水切り(端の処理)の下地材になります。これでタルキと野地板への水の侵入を防ぎます。
なぜにこの部分を“カラクサ”というのかというと、瓦葺きのこの部分に唐草模様があしらわれていたことによるのだとか。

車庫の開閉口をどうしようか、自分で作れそうな観音開きの扉にしようか少々悩みはしましたが、結局は積雪のことを考えてシャッターを取りつけることにしました。
観音開きの扉なら、毎度毎度よほどていねいに雪かきをやらなければ開閉は難しくなるのは想像が容易です。

下は、内巻きシャッターのケース(巻き取り部)の前壁部。
両脇の柱に欠きを入れて厚みのある(ここでは45ミリの。柱材を引き割ったもの)横架材を渡し、それを補強するために間柱を入れるのだけれど、ややもするとこの作業は横架材を膨らませる(たるませる)ことにもなりがちなのです。
そこで活躍したのが筆者考案の締めつけ具。クランプやハタガネ(端金)の及ばない長さに対応します。
写真のように、これによってボルトを締めつければ横架材の膨らみ(たるみ)を防ぐことができます。
これは今までも作業台や棚を作る時にも大いに活躍してきました。

下は、間柱材を作っているところ。
柱は1間(6尺=182センチ)おきに入れるのが普通ですが、その半分(3尺)とさらにその半分(1尺5寸=45.5センチ)にも支えを入れる必要があります。それが間柱です。
(現代の住宅建築では構造用合板=ベニヤを入れることでこの間柱も間引いているところもあるようで。安価を追求する効率化というのはどこまでも果てしがありません)。

間柱を組み込んでいるところ。軒桁にホゾをかませ、土台にはめているところ。
間柱は普通1寸(約30ミリ)の厚さで作りますが、筆者の場合は既製品ではなく解体材の柱材を挽き割ることが多く、特に1間(けん)の中間の間柱はより頑丈にと分厚く取ることが多いです。
間柱を入れてゆくと、建物全体が強固になっていくのを肌で感じることができます。
間柱入れは気持ちのいい作業のひとつ。

下は、筋交いの端の刻み。
こういう筋交いの組み入れ方は今はもう見られないのでは。ひとえに面倒だからです。
今では刻みの代わりに、金物(金板)をかぶせて釘打ちして筋交い材を固定してしまいますが、強度においてはこれも雲泥の差でしょう。

本筋交いを入れ、徐々に仮の筋交いを外していっているところ。この写真では、奥に仮筋交いが見えます。
この作業を経ると、建物がまさに堅牢になっていきます。
構造において三角形を作れば歪むことはない、このことの偉大な意味を実感する場面です。

柱と柱のあいだに間柱が1本入っていますが、筋交いを入れたのちにさらに1本ずつの間柱が入ってゆきます。これは、間柱にも筋交い材の厚み(1寸)の欠きが入るために、作業のしやすさを優先しての手順です。

屋内の部屋(車庫部と材料収納部)の仕切りの本筋交い。

もらってきた窓を入れるための窓枠の外枠を作ろうとノミを振るっているところ。

白だった窓枠を黒にスプレー塗装してはめ込んだところ。

塗装のためのガラス窓のマスキング。

ガラス枠を黒で塗装したもの。

ルーフィングを張り終えて約1週間後にS建築板金が入ってトタン葺きをしてくれました。
Sさんは建築現場を数か所一度に抱えており、こんな小さな仕事に時間を割いてもらうのは申し訳ない感じがします。本格的な冬を前に、超多忙のようで。
Sさんは上で、筆者は下でそれぞれに作業をしています。職人と一緒の時間を過ごすというのはうれしいことです。

屋根はトタンで覆われ、これで雨も安心です。それは、ひとびとがこの世に誕生したときどれほどおのれの上を遮る屋根を希(こいねが)ったことか、そんなことにも想像は及んでゆくほどです。
もうここは、灯かりさえ点せば夜でも雨の日でも作業ができます。
これは大きなターニングポイントとなりました。

業者に依頼してシャッターが、つきました。

このあとに、どうせならと主屋やヒュッテ同様、屋根のてっぺんには“雪割り(雪切り)”をつけてもらいました。
これで雪下ろしが不要になります。雪割りは偉大な機能です。

ここでちょっと休憩、コーヒーブレイク。

10月に入ってからの楽しみは、山野に自生しているナツハゼ(夏櫨/ツツジ科スノキ属)の実の収穫です。この果実で作る果実酒は絶品なのです。
相棒の兄も今秋、大量に収穫したらし。これをジャムにしたものをもらったのですが、これまた絶品でした。

月の半ば、近くの鑑山(かがみやま)に相棒と連れだって行ってみました。昨年のナツハゼは極端な不作だったものですが、今年はまずまずの作柄でした。
このナツハゼ、筆者たちが目にするのはいずれもきわめて栄養分の少ない土壌の尾根筋です。これは不思議なことのひとつですが、これもナツハゼとして他と区別して生き延びるための戦略なのかもしれません。

ナツハゼの実。
地方名にヤロコノハチマキ(野郎コの鉢巻き)という名もあるそうな(笑い)。

で早速、焼酎で漬け込みました。
2週間もすると濃いワインレッドの色が出てきますが、飲みたいのをぐっと我慢して(笑い)1年間寝かせることにします。そしたら熟成して柔らかな味になることでしょう。

さて、この軽トラ用の車庫は構想当初より余裕あるスペースを(解体した薪小屋に代わる)薪置き場にしようと思ってきました。
けれども作業を開始してずっと構想は揺れ続け、空きスペースは薪置き場よりは建築材の材料置き場とした方が、より有効な利用法ではないかと思うようになってきました。
そうすれば斜面の際(きわ)に作ってしまったが故に雪下ろしにたいへんで、機能性にも劣る既存の材料小屋はいずれ解体することができる。薪置き場は、車庫の南に増築して下屋として確保すればよいと思ったのです。

それで、シャッターがついたあとに、急遽、基礎つくり以来の石工になりました。
というのは、材料置き場とするには柱が1本足らないゆえにその基礎たる石を据えねばならかったのです。それでチゼル(たがね)でホゾ穴を彫って柱のホゾを収めることにしました。
正確な位置を出すのに少々苦労したけど、それはまずまずの出来だったと思います。

下をモルタルで固定した石(凝灰岩、高畠石)に彫った30ミリ角のホゾ穴。

そうして材料置き場の造作が本格的にはじまりました。
材料置き場は、薪置き場のただ空間を確保しただけのものとはちがい、いくつもの段(今回は4段)を作る必要があります。
基本は両側の柱(あるいは間柱)に欠きを入れ(ノミで刻み)、それぞれに横架材を渡していきました。ずいぶんと時間を要しました。

ノミの作業の連続でたまってゆく刻み屑。
これはていねいに回収して薪ストーブの燃料にしました。

徐々に、材料収納用の棚ができてきました。

材料収納部の完成です。
これで、材料の仕分けができ、必要なときに必要な部材を取り出して使うことができるようになりました。

下は、外壁の下準備たる胴縁(どうぶち)を張り上げたところです。
この小屋(車庫)の外壁はタテ張りにしたいというのは当初からの構想で、ゆえに横に這う胴縁が必要となったわけです。
これには幅などはあまりこだわらずに、とにかく余っている端材で厚さを20ミリに統一することだけを心掛けて材料を作りました。

そうしていつの間に10月も末、時は紅葉のピークを迎えていました。

こうも毎日毎日、起きてすぐに日記を書いて前日をふりかえりつつ本日の課題を持ち、朝早くから夕方遅くまで作業をくりかえしし続けていると、その日その日が充実感に満ちてくるのは確かなこと。
これは勤め人を辞めて(工房を開設して)以来6年というものずっと変わらぬ日常です。
静かな森の中で、日の動きや移りとともに働いている時間がとてもいとおしいです。

“秋の日は釣瓶落とし”の通り、夕暮れはとてもはやくなったけど、ひととき、その空の移り変わる色の美しさに重ねて一日をふりかえる時間というのもいいもの。
そんなときに心の底からわいてくるのが、ドヴォルザークの曲(交響曲第9番 ホ短調 作品95)「新世界より」第2楽章ラルゴです。いいね、このメロディー。
そして、堀内敬三によって添えられた歌詞「遠き山に日は落ちて」が実にすばらしい。
特に、「きょうのわざをなし終えて/心軽く安らえば」というくだりが筆者の日々の暮らしの終わりにフィットするというか。

遠き山に日は落ちて
星は空をちりばめぬ
きょうのわざをなし終えて
心軽く安らえば
風は涼しこの夕べ
いざや 楽しき まどいせん
まどいせん

(※「まどい」は円居、「まどいせん」はみんなでくつろごう、ぐらいの意味)

作業の終わりは用具・道具の片づけと工房の掃除です。
ひと日お世話になった用具・道具は帰り着く場所にひとつひとつ戻します。
木材の切れ端を袋につめ、おが屑とカンナ屑を集めます(以上は薪ストーブの燃料になります)。
そうして工房を掃き清めた後に、翌日の材料や用具・道具を作業台の上に並べます。こうすると自然と次につながってゆく。
そしたらビールです(笑い)。

下は、外の冷気にさらして冷やしている(今なら3℃とか4℃ぐらい)ビールとワイン、これをめざして働いているというか(笑い)。
これは自分へのご褒美といったところ。
ワインは寝る前のひとときに。

余談だけど、このドヴォルザークになる曲は堀内の1年上に当たるかの宮澤賢治の感性にも響いていたようで、賢治は独自に歌詞をつけて「種山ヶ原」という歌曲に仕上げています。
「アルペン農の汗に燃し…」のセンテンスががとても印象的です。

横道にそれることだけど、この「遠き山に日は落ちて」の歌をはじめて知ったのは(メロディーはそれまでも下校放送でなじみだったと思うけど)、たぶん小学校6年の学年行事であった蔵王坊平(ざおうぼうだいら)野営場でのキャンプ、遡ること1968年の夏のことだったと思います。
この歌とマッチし、ひとりひとりがたいまつを持ってつどったキャンプファイヤーは今もあざやかです。

それにしてもよくもまあ総勢180人ほどの生徒(児童)を宮内町(現・山形県南陽市宮内)からはるばる蔵王坊平まで引き連れ(バスでの移動だったと思うけど)、野外生活の基本からかまどでの飯炊きやら、テントの張り方まで教えてくださった、時の教師団には今も感謝しています。
率先してリードした方がいらっしゃったのだろう。それは主任であったスズキユキオセンセイだったろうか、担任のイズノメマサミチセンセイであったものか。

下は、その時の(筆者が所持している)実際の写真。
たいまつとキャンプファイヤー、そして一斉に張られた黄色いテント。

 

なお、「冬の星座」という曲も堀内の歌詞でしたね。これも好きだなあ。
「遠き山に日は落ちて」にしても「冬の星座」にしても、これらの言葉を紡いだ堀内の人生に旅したくもなります。

もう少しで雪が来そうです。寸暇を惜しんで車庫つくりに専心しなくちゃ、急がなくちゃ。

シリーズ「軽トラに住まいを」は次回第8回が最終回を迎えます。
それじゃあ、今日はこのへんで。バイバイ!

 

※本文に割り込んでいる写真はサムネイル判で表示されています。これは本来のタテヨコの比から左右または上下が切られている状態です。写真はクリックすると拡大し、本来の比の画像が得られます。