森の生活製作の時間

薪小屋を解体す

5月も半ばともなり樹木は若葉から青葉へと進んでみどりを濃くし、ルーザは今、万緑にふさわしい風景になってきています。それは胸がすくような美しさです。

こんな時に思い出す俳句があります。いったいどこで聞きかじり、どこで拾ったものやら。

万緑や空を歩いてみたくなる                                        森木道典

俳句は、「おーいお茶」だったろうか(笑い)。
この「おーいお茶」のペットボトルにある句というのは、言葉遣いが新鮮で感性に響いてきます。新聞俳壇よりはずっといいです。
まったくまったく、この時期に空を歩いて万緑の森を眺めることができたらどんなにか素敵なことだろう。

下は、今が盛りのアオダモ(別名コバノトリネコ。青梻/モクセイ科トリネコ属)の花。小さな瓶ブラシのような白い花をたくさんつけます。
アオダモが有名なのは、この材で野球のバットを作ることですね。それからスキー板やテニスのラケットなどにも利用されるとのこと。
アオダモは適度に反発する硬さと反発を吸収する柔らかさを併せ持つ木材ということなのでしょう。

朝の5時に起きて(いつものことだけれど)、登ってみた鑑山(かがみやま)から。中央の少し左上に我が家。
早朝のあわい光に、森全体をおおいはじめた若いみどりが浮き立っています。まるで精霊が住んでいるみたいな美しさ。
そしてあたりは、初夏の象徴ともいうべき紅緋(べにひ)色のヤマツツジ(山躑躅/ツツジ科ツツジ属)が満開を迎えつつあります。
このみどりと紅緋のコントラストは本当に美しい。

そんな季節の中、筆者は長年親しみ世話になった薪小屋を解体しはじめました。この跡地に軽トラックの車庫を作ろうと思ってのことです。

昨年12月末に愛車の軽トラを新しいものに替えました。
というのはセルモーターやら電気系統やらいろんな箇所が相次いで故障し、その都度高額な修理費用をかけて直していたのですが、リアの金属の腐食激しく、いつのまに付属の予備のタイヤがなくなっていたのにはショックを覚えました。それで買い替えを決めたのです。(路上に転がったであろうタイヤで事故が起こったりしなかったろうかと心配しました。何度か心当たりの道路を探したのですが、タイヤは見つかりませんでした)。
何せそれまでの13年もの間は雪の日も雨の日も野ざらしの状態でしたし(ニンゲンなら3日と持たないのでは)、軽トラには本当にかわいそうなことをしたものです。
ひとには雨風防ぐ家、クルマにも家です。

下は、1998年の夏から冬にかけて取り組んだ思い出の薪小屋(クマ小屋)づくりのスナップから。

薪ストーブを使うようになって、薪材を確保するのがひと苦労なら、確保して切って割ったその薪を保管するのも苦労するもの。
薪ストーブを愛する者にとって、薪小屋というのは今も変わらずにあこがれだと思います。筆者もとてもあこがれました。

我が家はここに越してきた1993年の冬からすぐに薪ストーブを焚いていますので、薪小屋ができるまでの5年という歳月は薪の保管には本当に苦労したものです。
写真2枚目の右に写るよう保管場所が軒端であったり、そのために国鉄のコンテナを購入したり…。でも薪の保管用としてのコンテナは失敗でした。庫内が高温多湿となって、せっかくの薪が乾くどころかふけてしまって、“土”になったのでした(笑い)。
そうして、あこがれを募らせ満を持しての薪小屋の製作だったのです。

当時42歳の筆者、何とも若いね(笑い)。

筆者にとって薪小屋は、第1号と言ってよい記念すべき本格的な建造物です。
特筆すべきはほとんどが明日は焼却の運命にあった廃材を使っているということでしょうか。
当時、地区に産業廃棄物の焼却炉があり、そこにまだまだ使えるいい材料もよく持ち込まれていたのです。そこにお勤めだった地区の方が(小屋作りをしたそうにしていたワタシを思い出してくれ)、「ホンマ君、いい材料が入ったぞ」とよく電話をくれたのでした。そうしてたいそうな数をストックして、薪小屋建設の準備にとりかかったのです。
これは当時、本当に助かりました。すべてを購入するとしたらたいへんな金額を要したでしょう。
(大工の手ほどきもしてくれたその方は今や脳梗塞を患い、施設に暮らす身となっています。約四半世紀という時の流れをしみじみと感じます。コロナ禍が解けたら、お見舞いに行かなきゃ)。

当時はそれまで覚えた技術で製作に当たったものの、今にすれば稚拙なところはたくさん。
第一、和小屋の基本(“桁/ケタ”に“梁/ハリ”を渡し、そこに“束/ツカ”を差して、“母屋/モヤ”を載せる)を理解していませんでした。通し柱に相欠きで母屋を組み、それをボルトナットで締めつけるなんて今にしたらお笑い種(ぐさ)です。

ほぼ完成したクマ小屋。
“クマ小屋”の名は、小屋の正面に北海道みやげで有名な“熊出没注意”の金属プレートを取りつけたことによるものです。同様に、“キツネ小屋”、“リス小屋”もあります。

枕木ブロックによる小屋の踏み場の設置をお願いした相棒のヨーコさんからは、「あの時は肩が痛くなった」と今も口説かれぼやかれます(笑い)(この場合の“口説く”は愚痴を言うこと。当地方ではこっちの使い方をよくする)。
当時10歳の娘は楽しそう。

 

翌99年の“キツネ小屋”とともに薪小屋作りについての記事が雑誌に紹介されました。
森住まいの家族のささやかな歴史のひとコマです。
掲載誌は『季刊 チルチンびと』13号2000年7月風土社。 

こう言っては何だけど、解体するとは言ってもこの小屋はまだまだ使用には耐えうるもの、あと10年ほどは活躍はできたでしょう。
けれども、もう常時在宅の工房のひととなった筆者は、薪が不足すれば時間を見つけておいおいその都度作ればよいこと。薪小屋は今やひとつで十分、一度にたくさんの薪を作って保管しておく必要はなくなりました。

解体直前の薪小屋。

波トタンをはがし、さらに、その下の野地板をバールではがしはじめました。
解体の道具はほとんどバール(身丈約55センチ)1本なのだけれど、テコを最大限に利用して力を伝えるこの道具のすごさを思い知っています。
これは、筆者の(茅屋根葺きを生業とした)父親の形見の品だけれど、よいものを譲り受けたと思っています。

下は、ハンマーで叩かれ叩かれ、潰れて平たくなってきたバールの頭。

解体が進んでいる割に小屋の周りがすっきりしているのは、はがした板などはその都度片づけているからです。
解体材はいたるところに釘が刺さっていて危険がいっぱい、これはケガをしないための予防措置でもあります。
はがしたり倒したりした材のすべてについてていねいに当たって釘を抜き、今後の建築にも使える板や角材はそれぞれの保管場所に、使えない材は適当な長さに切って焚きつけ用薪としてひもで括って薪小屋に運びました。
どうしても釘の抜けないものあるいは中に釘が潜んで機械を当てれば刃がやられてしまうような材(ごくわずかだけれど)は隣接の広場の炉で材ごと燃やし、釘は翌日に強力な磁石で回収します。

ブナの新緑と解体中の小屋。

解体して今にして分かったことですが、垂木(タルキ。トタンと野地板を載せる材)は柱のトップの位置を当時はわざとずらしていました(笑い)。今ならこんなことはしません。

トタンと野地板をはがして、垂木の現わしになったところ。

この垂木を取りつける時には90ミリの釘で両側から斜め打ちするのが大工仕事の基本だけれど、これが建築現場では今やコーススレッド(ビスに似たネジが切ってあるものもので、粗く深いネジ山が特徴)に置き換わっているかもしれない。
確かにそれは携帯のドライバでねじ込むだけだから楽ではあるのだけれど、古くからの大工に言わせれば、釘とコーススレッドでは強度がまったく違う、コーススレッドは強い力が加わると途中でちぎれてしまう、案外に弱いという指摘です。

筆者は垂木を基本通り90ミリの釘で両側から斜め打ちしていましたので、それゆえに垂木を母屋から外していく作業は、とても難しかったです。やはり結束が強固なのです。
そこで覚えたのは最初の位置の釘だけは釘抜きを使ってていねいに抜くこと、その上でバールを入れることによって垂木は母屋から浮いてくることでした。これは解体で覚えた(垂木の場合の)ひとつのコツです。

筆者は建物をずいぶんと作ってきたけれども、解体というのは実ははじめての経験です。
屋根材を取り払い垂木も取ってしまうと、建物の構造が一気に弱まります。こうなると、ちょっと力を入れると建物全体がぐらつきます。震度3くらいの地震が来ているようなものです。正直、怖いです。
下は、震えながらバールを振るう筆者(笑い)。

23年の歳月で、腐食してしまった土台。

当時は“基礎”の知識が乏しかったがゆえに、穴を掘り、そこにコンクリートの基本ブロックを置き、その上に入手した短寸の枕木を載せて基礎としたのでした。
今にすれば、基礎としての枕木は保水という意味でよくなかったです。保水は腐食の誘因です。

母屋が取り払われ、柱と側壁が残った状態。

屋根がけの部分が終了し大きな危険は去って、ほっと一息です。
ここでコーヒーブレイク。

毎朝5時には起き出してと先に書いたけど、朝起きてすぐに約1時間の森の中を散歩するのが筆者の日課です。それは、もうすぐはじまる山歩きのための体力づくりと筋力の蓄積のため、それと今は山菜採りという実益を兼ねたものになっています。
この時期の散歩は、とてもすがすがしいです。
そして、あっ、タチシオデ(立牛尾菜)が出てきた!とか、フキ(蕗)の雌花の最後ってこんな感じなのかとか、日々あたらしい発見があるのはうれしいことです。
家に戻る頃にはこれぐらいのワラビ(蕨/コバノイシカグマ科ワラビ属)が。

ワラビはおいしいです。おひたしが最高です。汁の実にもいい。
我が家のワラビのおひたしはここしばらく生姜醤油(千切りの生姜に醤油)が定番でしたが、わさび醤油もよく(青森では一般的と聞いたことがある)、最近は相棒の発案により、キドさ(苦さ)の強い(茹でた)タカノツメ(鷹爪/ウコギ科タカノツメ属)やアオハダ(青膚/モチノキ科モチノキ属)を少し刻んで載せ、そこに醤油(時に麺つゆや白だしも)というもの実においしい。
山菜を薬味にしてワラビのおひたしを味わうというこのアイデアでパテント(特許)が取得できるのでは(笑い)。ワタクシ的には、“青色発光ダイオード”に匹敵する業績です(笑い)。

下は、今季初めて食したアオハダをワラビのおひたしにのせたもの。

それから、居酒屋のメニューにも加わっていると聞いたことがある、“ワラビの一本漬け”もよい。
灰汁抜きして少し茹でたワラビを冷水にとり、切らずに曲げて大きめのタッパに入れ、そこに生姜のすりおろしを振って麺つゆなどをかけて一晩冷やして出来上がりという手軽さです。
切らずに1本まんまで食べます。
東北出身の都会のオヤジが居酒屋でこれを出されたら、郷愁相まって涙ぐむのではないか(笑い)。

さらにそれから、ワラビをたたきにして、納豆と混ぜるのもgooです。
ぬめりとぬめりが合わさって史上最強のぬめり物の誕生、“ネバネバ選手権大会”ではぶっちぎりの優勝だと思います(笑い)。

 

散歩の副産物とは別だけど、その他の山菜の利用としては…、

下は、茹でたキノメ(木の芽)に卵をかけたもの、“卵かけ木の芽”。ここに醤油をさして出来上がり。これがなんともおいしいです。
キノメとはミツバアケビ(三葉木通/アケビ科アケビ属)の萌え(芽吹き)です。1本1本とかき集めるのには少々苦労しますが、そこは“卵かけ木の芽”を思い浮かべながらの根性(笑い)。
筆者はこれが食べたいがため、30キロもの距離を遠征します(ここらにもところどころあるのだけれど、まとまって採るには群生地が必要)。
“卵かけ木の芽”は新潟(特に中越)で異様な人気があり、この時期の新潟ではマーケットから卵が早々に消えるのだとか(笑い)。
この味を覚えたら麻薬のようなもの(笑い)、たまらないです。キノメ、おそるべしです(笑い)。

“サンゴクダチの切り和え”。
サンゴクダチの標準和名はゴマナ(胡麻菜/キク科シオン属)またはエゾゴマナ(蝦夷胡麻菜)です。北海道や東北には普通に自生していますが、山菜として注目されるのは稀だと思います。
サンゴクダチの切り和えは山形県でも米沢地方の局地的な人気メニュー。茹でて乾燥させて冬場の煮物の材料にするほかに、旬の今は茹でてかたく絞ってみじん切りにし、そこに少々の味噌と白胡麻を加えて混ぜ合わせて出来上がりです。
これをご飯にかけて食べると特有の香りがあたりに漂って美味です。

下がサンゴクダチ(ゴマナ)。
ちょっと見、ヨメナ(嫁菜)とかハルジオン(春紫菀)にとてもよく似ていて、山菜に慣れないひとには区別はむずかしいかもしれない。

ウド(独活/ウコギ科タタノキ属)にウルイ(標準和名でオオバギボウシ。大葉擬宝珠/キジカクシ科ギボウシ属)に麩を加えて鯖缶で煮た山菜煮。これは美味。
山形県民から鯖缶を取り上げたら、何が残るのだろうぐらいに県民は好きですね、鯖缶(笑い)。この世から鯖缶が消えたら県民は気狂いするのではないか(笑い)、というほどにも。
ここにアザミ(薊)が入っても絶対においしい。アザミ類はたくさんあるけれども、いずれ優秀な山菜です。

と、下は最近の我が家の朝食ですが、思わず笑みがこぼれてしまいました。
何故?って、プレート全体の食材がいただきものと我が家の採取物と、手を少しばかりかけたもので占められていたから。
プレートの下半分の右のウインナーソーセージ(生協からの“生”のもの)とその端にちょこっとのった豚バラ、そしてパンの下のチーズは最近久しぶりに行った燻製の品。燻製したものというのは何ともいい香りを放つものです。
トマトは神奈川の知人から送っていただいた特産品、その上にのるワカメは千葉の友人が海岸に打ち寄せられたものを回収してわざわざ送ってくれたもの。ありがたいことです。左の山菜のコゴミとタカノツメは自家採取のもの(以上のサラダにはグレープシードオイルと酢と塩を合わせたドレッシングがかかっています)。
パンは三重の友人(プロ)が焼いて送ってくれたもの、ヨーグルトにのるハックルベリーのソースはかの“七郎右衛門桜”のご当主が自家栽培のものをジャムに加工して持参してくださったもの。ありがたいことです。

何という“他者依存”に満ち(笑い)、何とも手が添えられ思いののった食事であることか。
こういうのは、エネルギーが湧きます。幸せです。

さてさて、解体、解体。

“支え”を失った壁を倒すのは簡単です(ひとも同じ。“支え”や“控え”のないひとって脆いですよね)。
ちょっとした力で押すと、パランパランと行きます。

 

床板をはがしてはっきりしたのは、基礎の設置の甘さでした。
発想が甘かったがために、薪の重量に耐えられずに床を支えていた太い“大引き”もこの通りに割れて。
ここに適切な基礎が入っていれば、こんなことにはなりませんでした。

ようやくここまで来ました。

あと、ひと息。

土台が撤去され、もう基礎の枕木ブロックが残るばかり。

今後は枕木ブロックを取り払って、土を掘り下げ、そこに石を詰めて、コンクリートを流して車庫の土間基礎の作業に入ります。車庫は湿気を上げないのが何より、そのために土間コンにするつもりです。
しっかりとした基礎を作るとなれば、たいへんな気力と労力・体力がいるだろうな、ファイト!(笑い)

側には1回目のゼンマイが干され、今はゼンマイの山も呼んでいるんだよなあ(笑い)。
この時期は、身がふたつとあったらなあ。

そうそう、少々雨が降った昨日17日には、アカショウビン(赤翡翠)とヨタカ(夜鷹)、それにエゾハルゼミ(蝦夷春蝉)の初鳴きのそろい踏みでした。

下は、順に、アカショウビン、ヨタカ、エゾハルゼミ。いずれもwebサイトより。

web;CB1300SB
web;生態図鑑
web;自然と音楽を愛す者

これからアカショウビンは毎日のように美しい歌声を森中に響かせることでしょう(アカショウビンを知らないひとがこの声を聴いたら、その美しさにふるえるでしょうね)。
エゾハルゼミの大合唱となったらそれは夏の合図、そしたら夜にはヨタカが頻繁に飛来するはず。
そうして季節は急いで進行していきます。

それじゃあ、バイバイ!

 

※本文に割り込んでいる写真はサムネイル判で表示されています。これは本来のタテヨコの比から左右または上下が切られている状態です。写真はクリックすると拡大し、本来の比の画像が得られます。