森の小径森の生活

李山緋桜と七郎右衛門桜と

 

春はルーザの森に一気に押し寄せて、時々刻々と膨張しつつとてつもない速さで進んでいっています。もう圧倒のされっぱなしで、ウワァーワァー! 誰か助けてー! です(笑い)。
(あれほど恋焦がれて待ったのだから)いくらかでも多くの春を感受したいものだと思うのだけれど、とてもとても追いつくものではありません。筆者はただただ一個の細胞となって狂おしいほどの春の中に埋もれるばかりです。

ウグイス(鶯)、キジバト(雉鳩)、シジュウカラ(四十雀)、ヤマガラ(山雀)、アオゲラ(青啄木鳥)、コゲラ(小啄木鳥)それから筆者の耳では識別できないたくさんの野鳥のさえずりがいよいよ激しくなり、平和な春の象徴ともいうべきツツドリ(筒鳥)も「ホーホー ホーホー」と啼きはじめました。
もうこうなると春の膨張は臨界、森全体、山全体がケタケタと笑いだしてきます。

我が家の名花のひとつ、イワウチワ(岩団扇/イワウメ科イワウチワ属)が咲きはじめたのは4月20日のこと。
イワウチワは別にツチザクラ(土桜)の名があるよう、地面に桜が咲いているような趣きです。
飯豊連峰の山懐(やまふところ)の森の中(国立公園外)で2、3株をいただき、それを我が家の庭に移植してもう20年以上経つと思うけどどんどんと増えたのです。
ここは標高にしてたかだか350メートルなのに低山帯上部から亜高山帯の植物に属するイワウチワが繁殖できたのはここはかろうじて低山帯上部のそれも雪が長らく居座る多雪地帯だから?

春爛漫の日和が続いて名残りの雪はどんどんと姿を消し、完全な消滅はこの24日のことでした。

生まれたばかりの透きとおる水が、歩いてすぐの岩盤の川を流れていきます。
上流に汚染源がないので、この水はすべて飲料水として利用できます。
ゼンマイ採りの時などののどの潤しには水筒など持たずにもっぱらこの水で用を足します。
“ルーザの森 天然水”として売り出したいぐらい(笑い)。

山菜のひとつ、タカノツメ(鷹爪/ウコギ科タカノツメ属)の蕾。
このタカノツメ(の葉が展開しはじめたあたり)を採取して好んで食べるひとは山菜の“通”と言ってよいかもしれない。ちょっとキドい(苦い、えぐい)けど、趣きのある春の味です。
木の肌や枝の伸び具合がコシアブラとそっくりなので、この状態で見分けるのはちょっとむずかしいかも。

ナナカマド(七竈/バラ科ナナカマド属)の初々しい緑。

リョウブ(令法/リョウブ科リョウブ属)の若葉。
いやに仰々しい漢字が当てられた名前は、飢餓に瀕した時の救荒植物としてお上が奨励したことによると聞いたことがあるけど、食べたいとは思わないなあ(笑い)。

イタヤカエデ(板屋楓/ムクロジ科カエデ属)の花。
イタヤカエデは樹高が20メートルに達する落葉高木で、晩秋の黄葉がことのほか美しい木です。我が家ではシンボルツリーのひとつとして(山から抜いてきたものを)植栽しています。
この黄色の花の集まりはまるで山肌にナタネ(菜種)畑が出現したかのよう。山肌が春百彩(春紅葉)の彩りに移り変わる前の、今だけのあざやかな色彩です。

筆者はこの春まで、この花をアブラチャンと誤って覚えていたものです。ありがたいことに、植物にくわしい方が指摘してくださいました。
ちなみにアブラチャン(油瀝青/クスノキ科クロモジ属)は下のもの。
指摘してくださった方が枝を手折ってわざわざ届けてくださいました。
アブラチャンは沢筋や杉林の日陰に生育している、樹高は2~3メートルの落葉低木ということです。

キタコブシ(北辛夷/モクレン科モクレン属)が青空に映えて。
花の下に光に透ける黄緑の1枚の小さな葉がついています。

下は、キタコブシにとても似ているけれども、同じマグノリア(モクレン科モクレン属)でもタムシバ(田虫葉)です。花の下に葉がついていません。
いつもの散歩コースの鑑山(かがみやま)は今、タムシバの道になっています。 

鑑山のいつもの岩場でひとやすみ。のどを潤して。
見える赤い屋根は我が家。
まわりの多くを占める少し桃色の差したような銀色はコナラ(小楢/ブナ科コナラ属)の林です。
このぐらいコナラが群生していると植生は豊か、クマもカモシカもフクロウもちゃんと生活ができています。
春の宵に「ウォッホ ウォッホ ホッホ ホー」というフクロウの声を聴くことがあるけれども、ああ今年も豊かな森は守られているのだと安堵します。
フクロウの生息は生態系の豊かさのバロメーターなのです。


そんな春の最中(さなか)に、こころ惹かれるのは七郎右衛門桜。何度見てもこの花に飽きが来ない。
3月のはじめのまだ分厚い雪に覆われていた頃に堅い蕾の枝を手折ってリビングの大甕に差して、満開を迎えたのは3月も末のことでした。
そしてとうとう、現地の七郎右衛門桜が咲きはじめたのです。

下は、現地の咲きはじめの桜を花瓶に差していたものが満開を迎え。

で、この花の美しさに魅せられて以来、いったいこのサクラは正確には何という名で、どんな特徴があるものなのかをずっと気にかけていたのです。
パッと見とご当主および地元の人からの聞き覚えは“オオヤマザクラ”で、自分としてもそのように思うのですが、それでいいものかどうか。
単に一般的なオオヤマザクラにしては花びらは大ぶり、色も濃いと思われるのですが。その昔に、他の種との掛けあわせがあったものかどうか。

そこで、そうだ、米沢には植物にお詳しい神保道子さんという方がいらっしゃる、神保さんに是非に実際のサクラを見てもらいたいものだと思って電話したら、何とも即快諾のふたつ返事、「私、桜が好きです」でした。
ありがたいことです。そうして電話の翌日の21日にお越しいただいたのです。

下は、活けた七郎右衛門桜を見る神保さん。

この、花びらの外輪から内側に微妙に韓紅(からくれない)のグラデーションのかかる七郎右衛門桜。
花びらの内側と外側では外側の方が色味が濃いです。

現地にて(日当たりがよくて) 花が終わりになりかけた3本のうちの1本を観察する神保さん。 

満開の1本。

葉桜になりかけた一部。この赤い葉がオオヤマザクラの特徴のひとつです。
神保さんの見立ては基本、オオヤマザクラ。交配による違う要素も入っているかもしれない、よって断定はできない。さらに詳しく知りたいようなら(山形)県立博物館が鑑定のサービスを行っており、そこに相談をかけたらどうだろうと勧めていただきました。

近くの澄んだ小川に七郎右衛門桜の花びらが花筏を作って。

そして地元の七郎右衛門桜が大方散りはじめた25日に、実は(20日以来)2度目になるのだけれど、その元となった市中は南部南原の李山(すももやま)地区のサクラに会いに行ってきました。

20日に行ったときにはどれが元になったサクラなのか、特定には時間を要しました。
というのは、七郎右衛門桜の嘉藤家のご当主が言うには、「このサクラの元は、李山の銭子屋敷(ぜにごやしき)の、山岸の、山の神が祀られているところにあるはず」がどうもはっきりしなかったのです。
そこで知り合いの李山の地元のひとに事前に聞いて補っていた情報では、「李山分校(閉校)に向かう途中の道から赤い鳥居が見え、サクラはそのそばでは」ということでした。

下は、道路端からみた2本のサクラ。(※クリックすると、写真は元のタテヨコの倍尺になります)

筆者はご当主の言った“山岸”という言葉に迷ったのです。
山岸は、山の端あるいは崖のようになっているところ。それが分からない、見当たらない。
そこに山の神があってそのたもとにサクラは咲いている…、それを夢にまで見たのです。
脇には澄んだ雪解け水をたたえる小川があって、そこに巨木のサクラがそびえたっている…。その下に小さくなったワタクシがいる…、こうなるともう完全な妄想です(笑い)。

実際は、古民家ふたつを挟んで立つ私有地の2本のサクラでした。
あたりを歩いているとちょうど持ち主の(中澤家の)ご当主にお会いでき、話を伺うことができました。

「この色味のサクラは李山ではここの2本しかない。言い伝えで、“ヒザクラ(緋桜)”と聞いている」。
「(あなたは)山の神のたもとと言ったけど、このへんに山の神はない。あるとしてそれは各家々で勝手に祀っている屋敷神ではないのか。もしかしてそれはお稲荷では。お稲荷様ならそばだ」。
「ここらは高速道路(東北中央道)の工事の需要で山土がいっぺんに持っていかれて、地形がすっかり変わってしまった。このサクラまでが山の際だった」。
「万世町梓山(ばんせいちょうずさやま)に同じような色味のサクラがあるのは知っていた。自分は13号線先のスキー場で働いていたことがあって、通りかかりにそのサクラを見ていた。謂(い)われは分からなかったが」。
「この(写真左の)サクラは200年は経っていると聞いている。何度か倒れ、その“ゴヨウ”が出て今日に至っている。母屋前の(写真右の)サクラは、“ゴヨウ”からのもの。ゴヨウはなかなか根付かなくてむずかしい」。
と、いうことでした。

下4枚は、上の写真で左側のもの。
すばらしいです。

下3枚は、上の全景写真で右側のもの。
豪華絢爛とはこのサクラを指すような。3枚目の右側には“ゴヨウ”が伸びています。

筆者はこれを、“李山緋桜(すももやまひざくら)”と名づけたまふぞ(笑い)。どうだろう。

日本全国、サクラの名所はあまたあり。
日本人がサクラを殊のほか好きなのは、咲きはじめから満開までは長くて1週間、その1週間後には散って花吹雪となって花期を終える、この美しさと隣り合わせのはかなさのせいではないのか。人生は長いようで儚(はかな)いし、いとも軽く散った戦時の命も多々あったし。

とはいえ、世に一般的なソメイヨシノ(染井吉野)に興味関心は薄いです。
ソメイヨシノは100パーセントがクローンとのこと。エドヒガン(江戸彼岸)とオオシマザクラ(大島桜)を人為的な交配で江戸時代後期に誕生させた種で、接ぎ木や挿し木を重ねて、特に戦後の高度成長期に全国に広まったということです。

筆者が心惹かれるのは野生種です。野生種には風土や気候などの地域性が色濃く反映されているから。
サクラの基本野生種は10種。
それは…、エドヒガン(江戸彼岸)、オオシマザクラ(大島桜)、オオヤマザクラ(大山桜)、カスミザクラ(霞桜)、カンヒザクラ(寒緋桜)、タカネザクラ(高嶺桜)、チョウジザクラ(丁字桜)、マメザクラ(豆桜)、ミヤマザクラ(深山桜)、そして紛らわしい名であるけれどもヤマザクラ(山桜)。

この10種のうち、オオシマザクラは関東以南の島々に、カンヒザクラは沖縄に、マメザクラは中部・伊豆半島に、ヤマザクラは中部以南にと地域的に東北とは縁がありません。

残るは6種だけど、エドヒガンは銘木古木にして多く(近くでは国の天然記念物指定の長井市伊佐沢の“久保桜”が有名)、あちこちに植栽される人気種。これを山野の自生種として見つけるのは至難の業なのでは。よってこれは興味の外。

そして我がフィールドで確認されるサクラの野生種は、残る5種中4種。

まずは、オオヤマザクラ。
ずっと追いかけている七郎右衛門桜も含むであろう種です。
とにかく韓紅(からくれない)の色味が強く濃いのが最大の特徴です。
天然の山肌に咲く山桜で色の濃いものはほとんどがこのオオヤマザクラでは。

オクチョウジザクラ(奥丁字桜)。
このあたりは、基本野生種のチョウジザクラの亜種としての(葉柄に毛が少ないなどの特徴がある)オクチョウジザクラが主のようです。
花を横から見ると、花びらと花柄が“丁”の字に見えることからの命名です。

カスミザクラ。
下は李山への途中で見かけたものですが、これはルーザの森にもあります。
立ち姿が株立ちの箒のよう。花は葉と一緒に展開し、遠くからみると霞がかかっているように見えることからの命名のようです。 

そして、タカネザクラ(別名はミネザクラ/峰桜)。
これは6月20日の撮影の記録のある吾妻連峰は東大巓(1,928メートル)でのもの。
山野のサクラに比べて時期がぐっと遅く、日本では最も標高の高いところに咲くサクラです。
山に登っているとよく見かける花で、磐梯山(1,816メートル)の頂上付近にもあったなあ。

下は5番目と思いきや番外。
これは今回立ち寄った、李山の分校跡にあったものです。
ミヤマザクラと思ったのけれど、現地に行って観察された先の神保さんは「これはミヤマザクラではない。ミヤマザクラはアズキナシのような小さな花」とのこと。「むしろオオシマザクラに近いのでは」、と。
分校は140年ほどの歴史があるそうだけれど、果たしてこの特異なサクラは、どんな出自と来歴があるものやら。いずれはっきりさせたいものです。
実際のミヤマザクラはこれから見れるだろうか。

そうして、李山で“李山緋桜”の一枝を頂戴し、地元の“七郎右衛門桜”の一枝との、約百年してのご対面と相成ったのです。百年という時間をはさんでの素敵な邂逅(かいこう)です。
まあ、七郎右衛門桜は李山緋桜の(“ゴヨウ”=ひこばえの“取り木”による)子どもなので、李山緋桜が七郎右衛門桜を100年して見つめたとした方が正しいか(笑い)。

七郎右衛門桜の枝。

李山緋桜の枝。

 

ご対面(左が李山緋桜)。
見つめ合って、おたがい恥ずかしくなって、顔を赤らめているような(笑い)。 

このふたつのサクラの標本は昨日の27日、山形県立博物館に届けて鑑定を依頼してきました。
さて、専門家からはどんな結果が出されることやら、それは今後の大きな楽しみになります。


せっかくの勝手知らぬ郊外への遠出のこと、ちょっとした林に入ったら、なんとそこは山菜の宝庫。もう出はじめていました。
たくさんのゼンマイ(薇)があり、タラノメ(楤芽)、ハリギリ(針桐)があり、別の場所には早出のコゴミ(屈。クサソテツ/草蘇鉄)もあったのです。
連れだって行った相棒のヨーコさんはもうアドレナリン全開の興奮状態に陥ってそこらじゅうを跳ねていました(笑い)。

その昼には当然のことタラノメ、ハリギリ、コゴミはてんぷらにおひたしにと変わり、冷たいそばのおいしかったことといったら。
いやあ、山菜の季節の到来です。


と、鑑定を依頼していた山形県立博物館からその回答がさっそくにも届きました。

その回答をかいつまむと…、

(米沢市)万世町梓山の桜も李山の桜もともに、花柄や皮目などの特徴を備えているので、“オオヤマザクラ”にまちがいない。

現在一般的に見られるオオヤマザクラよりは花びらが大きく、色味も濃いけれども、これこそはその昔のオオヤマザクラの形質を今に受け継いでいる貴重なものである。昔のオオヤマザクラとはこういうものであったと知ることができる。
名前の由来は、「花が大きい山の桜」ということから“オオ(大)ヤマザクラ”。
現在のものはカスミザクラなどとの自然交配が進んで、花びらは小さくなり、色も薄らいできている傾向がある。

李山では“ヒザクラ(緋桜)”と言い伝えられてきたそうだが、これは山野から特に色の濃いオオヤマザクラを持ってきたときに、「緋のように赤い」という意味でそう呼んだのだろう。
李山の桜はより強く当時の形質を受け継いでいるようだ。…とのことでした。

分かりやすいご回答に納得です。
博物館の研究調査専門員の方々には、殊のほかの感謝です。
この場を借りて厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。

それにしても、少なくとも200年前の本来のオオヤマザクラの形質が今に受け継がれてきているということは感動的です。そして、種の形質は固定にあらず、時代と共に変化をしていくということを知ったのは大きな収穫でした。

筆者が今まで“七郎右衛門桜”などと呼びならわしてきたサクラの出自と来歴が分かって、これですっきりです。
サクラ標本の提供元の万世町梓山と李山の両家には以上の旨をお伝えしようと思います。

それじゃあ、バイバイ!

 

※本文に割り込んでいる写真はサムネイル判で表示されています。これは本来のタテヨコの比から左右または上下が切られている状態です。写真はクリックすると拡大し、本来の比の画像が得られます。