山歩き

錦繡の湯宿

(2020年)8月末より取り組んでいた小さな畑の縁(へり)の作業も佳境を迎え、あとわずかで(石とレンガの)パーツの積み上がりというところまできました。修正や補修などもふくめてあと1週間もあれば縁は完成、あとは土を手配するだけとなります。
果たしてどんな畑になっていくのか、何が収穫されるのかは畑主任の相棒次第というところでしょうか。とにかく、もう少し。

天元台高原のグリーンシーズンもあとわずか、ロープウェイとリフトのシーズンパスポートの利用もあと1回ぐらいはと思っていました。それで、天候を見て(10月)21日に山に入りました。
今回の山歩きは中大巓(なかだいてん)から藤十郎へ、その分岐から大平(おおだいら)温泉に至るというもの。山を下りつつ紅葉の移り変わりを堪能したいとの思いからです。

クルマは米沢駅前に置き(友人の好意でいつでも駐車可能な場所が確保されている)、ロープウェイの湯元駅までは久しぶりのバス、帰りは宿の送迎車で駅まで送り届けてもらうという手はずです。
宿のこういうサービスがあると、登山者にとってはおおいに助かります。

下は、中大巓のかもしか展望台にて。
背景はあこがれをさそう飯豊連峰。絶好の登山日和。

中大巓までの途中、東吾妻の一切経山から縦走してきたという青年に会いました。
気になって聞いたのは、縦走路の昭元山(1,892メートル)から東大巓(1,928メートル)に至る途中の藪のこと。6年前の縦走では通過するのにずいぶん苦労した覚えがあってのことですが、今はすっかり刈り払われているとのことでした。ありがたいことです。だ、そうですよ、みなさん!
これは山歩きの身にとっては貴重な情報です。
(長い行程、)お疲れ様! それでは、いってらっしゃい!

各地から初冠雪のたよりが届く季節、吾妻ももういつ雪が来てもおかしくない時期です。道々には霜柱が立ち、氷も張っていました。

丸いお山の藤十郎(1,860メートル)。これって、藤十郎サンの頭の形からの命名?(笑い)。

リフトトップから藤十郎分岐までは約1時間20分です。
下は藤十郎分岐。右が縦走路の弥兵衛平からつづく東大巓(1,928メートル)。道標の裏あたりが弥兵衛平湿原。

藤十郎分岐から大平温泉までは標準タイムで約3時間、分岐を過ぎると道のりはゆるやかな下り坂で米沢平野が一望です。で、気づいたことですが、この藤十郎分岐のあたりというのは弥兵衛平の西端にしてここもまた高層湿原(枯死した植物が腐らずに残って泥炭と化しそれが堆積し中央部が高くなっていく状態で、水の供給は地下水ではなく雨水などの通水による貧栄養状態の場所のこと。カテゴリー「山歩き」の「弥兵衛平湿原にて」2019.8にくわしい)だということです。
草の上を歩けば足元はスポンジのようにふかふかで、なんか踏んでいるのが申し訳ないような感じがしました。こういう道が300メートルほども続いたでしょうか。
道のかたわらには小さな池塘(ちとう)がいくつかあって。いかにも晩秋の色です。

ところどころにかけられている道標。
“不忘閣”とはかつてあった“不忘閣ヒュッテ”のこと。ここから大平温泉への車道になります。
藤十郎~不忘閣のだいたいの中間地点、渡渉箇所である“ママ河原”で休憩することに。

標高を下げていくと、森林限界からオオシラビソ(大白檜曽/マツ科モミ属)の樹林帯へと入り、やがてダケカンバ(岳樺)やブナ(山毛欅)があらわれてきました。それら高木に交じって、オオカメノキ(大亀木)やナナカマド(七竈)などがあるのですが、いずれもすでに紅葉は終わっていて、あたりは葉を落としてつかの間の明るい森の姿を見せていました。

と、オオシラビソの朽ちかけた巨大な株にスギヒラタケ(杉平茸/キシメジ科スギヒラタケ属)が。
一般にスギヒラタケ(こちらではスギワカエ。英名はanjel wing なのだという)は腐朽したスギに発生するものですが、実際は他のマツ科の樹木にも出ないとも限らないもので、これは疑いもなくスギヒラタケ。
まあ筆者のあたりではさしてめずらしいキノコではないのでどうしようか思案したのですが、発生元がまれなので持ち帰ることにしました。

なおこのスギヒラタケ、今から16年前の2004年のこと、突如として不名誉にも「毒菌」扱いにされたものです。腎臓に疾患のある高齢者がこのキノコを食べて急性脳症を起こして死亡したということでした。
おかしなことです。それまでスギヒラタケはおいしいキノコとして図鑑にも堂々と登場し、ここらのマーケットでも100グラム200円ほどで普通に出ていたし、何より、気の遠くなるほどの時間の中で庶民に親しまれてきたキノコなのです。それを単年の一例をもってして毒菌扱いするというこの報道のあり方に筆者は疑問を抱きます。
とはいえ農林水産省お墨付きの報道の効果は絶大で、このことによってそれ以降の図鑑にスギヒラタケは一転して毒菌として区別、したがってこのあたりでも採取する人はほとんどいなくなり、当然にも店頭からは姿を消したものです。変なの!
でもね、我が家では相変わらず食しています。炊き込みご飯やみそ汁の具、それからバター炒めがおいしいです。

中間地点のママ河原(間々川)に着きました。宮澤賢治の「やまなし」を彷彿とさせる美しい谷川です。
ここで清冽な水を汲んで沸かして、しばしのコーヒータイム。んーん、いい香り!
あたりは紅葉のピーク。谷川のかろやかな流れの音をBGMとして、あざやかな色彩が織りなす錦絵の世界です。身体が錦に溶けていきそうです。
静かです、平和です。

イタヤカエデ(板屋楓/ムクロジ科カエデ属)の黄葉。これはやがて目が覚めるほどの美しい黄色になっていきます。


少し休んで出発しました。歩き出してすぐに、不審な光景に出くわしました。
登山道をふさぐように、何者かがへし折った生木のコナラ(小楢/ブナ科コナラ属)とミズナラ(水楢/ブナ科コナラ属)の枝が無造作に横たわっているのです。
胸騒ぎがしました。

胸騒ぎがして、頭上を見ました。
そしたら何と、15メートルほどの木の、枝のことごとくがへし折られているのでした。
これはまちがいなくツキノワグマ(月輪熊/クマ科クマ属。以下クマ)の仕業、木に登って枝をたぐり寄せてはドングリを口に入れ、折り取っては落下させてドングリを探したのです。
でも不幸なことには、ほとんど実はついていなかったと思われます。落ちているドングリを筆者がさがすのも容易ではありませんでしたから。

ひとりの山道でこういうこともあろうかと思い、今回は準備よろしく撃退用花火を持参してきたので、さっそくにも打ち上げました。
撃退用花火の音は銃声音によく似ており、この音はクマのDNAがヒト属への恐れとして記憶している貴重な情報なのです。
筆者は豊穣の森の生態系の頂点としてクマに敬意を抱いているとはいえ、ばったりと出くわしたくはないですからね。

ブナ(山毛欅/ブナ科ブナ属)の黄葉。
残念ながらブナにもまったくといっていいほど実はついていませんでした。
クマにとってブナの実は、日本人にとっての米に相当する主食です。脂肪分豊富にして美味、ひとが食べても十分においしいもの、それがまったくと言っていいほどにないのです。
クマにとって今年は、ひとの歴史でいう飢饉、大飢饉にあたるのだと思います。

最近(この19日)、石川県加賀市のショッピングセンターにクマが侵入して、大捕物の末に駆除したというニュースが話題を集めたようだけど(朝日新聞では1面トップ)、駆除とは射殺ですよね。
でも事の真相は、受胎してこれから冬眠中に出産(!)を迎える身であれば今は何が何でも食べ物を得たいもの、ところが今年は山にあるはずの食糧がほとんどなく、里に出たもののめぼしいものもなく、そしたらいつの間に町に迷い込んでしまったということでしょう。町は見るもの耳にするもの初めてのことばかりでもうパニック、錯乱状態になって建物に逃げ込んだということだったと思います。それで射殺ですからね。

異常な気象の連続から起因したとも想像される極端な山の凶作(樹木の実のつけ方の周期性が関係しているのかもしれない)、遠因として、これってヒト属の強欲な経済活動の表れのひとつではないかとも疑われます。
クマの市街地への出没というのは、筆者には、人間中心の世界観への強烈な警鐘だと思うんだなあ。

射殺されたクマはかわいそうなものだと思います。
殺したのならせめてクマをていねいにさばき、肉を大鍋で煮て、大勢ですっかりありがたく食べて栄養にしたいもの。これが正しい供養というものです。まちがってもゴミのように扱ったりしなかったろうね。
報道はこういった最後までを責任をもって伝えてほしい。


ずいぶんと横道にそれたけど……、紅葉。
ダケカンバは青い空にあこがれでもするかのように白い手を伸ばして、頭上に黄色い葉をつけていました。

ハウチワカエデ(羽団扇楓/ムクロジ科カエデ属)(左)とキタコブシ(北辛夷/モクレン科モクレン属)の紅葉。
本来ならこのハウチワカエデは見事なほどの赤になるのではと思うのだけれど、今年はこの程度。
様々な場面で顔を見せる気象の異変はこんなところにも表れているような気がします。

そうして地図を頼りに歩いていると、何と、地図上にない道が出てきました。
この山行にあたっては最新の山の地図(「山と高原地図 磐梯・吾妻2020年版」昭文社)を購入し、インターネットで最も信頼のおける国土地理院の詳細な地形図を入手して臨んだにも関わらずです。しかもそこに何の道標がない。これにはほとほと悩みました(山の遭難事故って、こういうことからも起こりますよね)。
そこで立ち止まって冷静に考えました。切られている道の方にピンクのビニールテープが巻いてある、道は切ってから相当年月が経っている、方角はこれから行こうとする車道に向いている、以上を根拠にして一か八かその地図にない道を進むことにしました。
結局この判断は歩行時間の短縮ともなって正しかったのですが、分岐に、「温泉へ」とか「近道」とかせめてひと言の、素朴でいいから看板がほしいところでした。
(いったい、登山道を管理している国や県や市は何をしているんだろう)。

その道、特徴的な葉が道を埋め尽くしていました。
見上げれば、すっくと天を衝く何本ものヤマナラシ(山鳴/ヤナギ科ヤマナラシ属)です。木膚は美しい明るい灰色で、たくさんの菱形の紋があります。
ヤマナラシという名はわずかな風にも葉が擦れ合ってカタカタと音を鳴らすがゆえにつけられたものです。葉は表面に蝋が塗ってあるように堅く、しかも葉の柄の断面は縦長に細いのでよく揺れて葉同士が擦れる構造になっているのです。
落葉は本来、もっともっとあざやかな黄色なはずですが。

ようやく大平温泉に通じる道に出て胸をなでおろしました。

温泉は、峠のトップ近くに駐車場があり、そこより先は温泉場の谷底めがけてつづら折りの道を歩くことになります。そうして(駐車場から)約25分を歩いてようやく着くような、文字通りの秘湯なのです。

実は筆者は、もう5、6回ほども立ち寄り湯として訪れています。というのは、もう10年以上も前のことになりますが近くの林でキノコ採りをし(ここにハナイグチ、アミハナイグチという優秀な食菌が出る場所がある)、その帰りに寄っていたのです。

この温泉、汗を流しに入るのにはいいのだけれど、湯につかってさっぱりとしいい気持になっていざ駐車場に戻るとなると約30分の急坂の帰り道、着くころにはたっぷりとまた汗をかいているわけで(笑い)。

道々の、クロモジ(黒文字/クスノキ科クロモジ属)の黄色。 

ウリハダカエデ(瓜膚楓/ムクロジ科カエデ属)のオレンジ。
ウリハダカエデって、本来はもっともっと赤が強いんだけどなあ。

温泉に至るつり橋(宿側から見たところ)。この下は美しい渓谷です。

それにしても見事な紅葉です。

ミネカエデ(峰楓/ムクロジ科カエデ属)の、黄色と赤の葉の競演です。夕方の薄明かりに映える微妙な色彩。

今回の我が宿は秘湯の一軒宿、大平温泉滝見屋です。
お客さんは筆者を含めて9名ほどで、筆者以外はいずれも都会からいらしたようでした。都会暮らしとこの山中の圧倒的な自然の中の暮らしに大いなるギャップを感じることでしょう。

ここは最上川の源流、山形県のみをタテに走ってやがて酒田の日本海へと流れ下る総延長229キロにもおよぶという大河の、そのみなもとなのです。最上川は山形県民が愛する母なる川です。
ちなみにだけど民謡の「最上川舟唄」、実はこれは昔から人々によって歌い継がれてきたものではなく、1936年にNHK仙台放送局が音頭を取って作った歌です。いつ聴いても、何度聴いてもこころに沁みるいい歌だと思います。
この歌は今やロシア民謡「ヴォルガの舟歌」にも匹敵するとまで言われたりしますが、これも県民の誇りです。

この温泉は西暦860年(貞観2)年に狩人によって発見され、滝見屋としての営業は今年で111年という歴史ある湯宿ということです。
旅館内のレトロな談話コーナー。ここから火焔(ひのほえ)の滝が望めます。

ゴオゴオ(轟々)たる源流のすぐわきの、この絶景の露天風呂はどうだろう。
露天風呂は男女別にひとつずつ、さらに貸切風呂がふたつあります。筆者は滞在中、内湯を含めて4つの風呂に入りました。
いつもの倣いで朝は5時ころに起き出す筆者は、まだ明けきらない朝方にも湯につかったのですが、徐々に照度が増す中に浮かび上がる紅葉の見事さといったら。もう、紅葉を目にしながらの湯舟がたまらなかったです。
ふくよかな時間が過ぎていきます。

朝方には湯舟に落ち葉が浮いていました。中にはおなじみのミズナラやハウチワカエデに交じってシナノキ(科木、榀木/アオイ科シナノキ属)の左右非対称のハート形の葉もあったと思います。

料理については品書きを載せますが、朝食もふくめてこれだけ米沢の郷土料理で埋め尽くすのは他ではあまりないことだと思います。
ちなみに朝は、“もってのほか”(薄紫の食用菊)とほうれん草のおひたし、ゼンマイの煮つけ、ウドとニシンの煮物、イグチ(網茸)の大根おろし、“秘伝豆”の納豆、それにイナゴの佃煮とフキノトウ味噌…、(それに定番のシャケの切り身に海苔に温泉卵)いずれもわずかずつではあるのだけれど、もうこれは郷土への思い入れ以外何ものでもないですね。
この宿は地元というよりも都会からそして遠方からのお客さんが多いと思うのだけれど、この食事をもってして米沢をふくむ置賜(おいたま、おきたま)地方の食文化の情報は完ぺきなほどです。

ここは本当に深山の山中。
電気や水道のインフラもないので自家発電、飲用には川の水を利用しています。携帯電話も通じなければ当然にしてテレビなんぞはありません。あるのはただ、趣きのあるいで湯と天然・自然ばかり。
今なら、その名もまさしく錦繡(きんしゅう)の湯宿なのです。

ここで思い出すのは“日本秘湯の会”を設立した岩本一二三(1928-2001)がしたためた一文(今では一般的な“秘湯”という言葉は、この岩本によるものとか)、筆者の心に長くとどまるものです。ちょっと、長いけど引用しておきます。

それはたしか昭和44、5年頃だったと思う。せめて自分だけでもいい。どんな山中でもいい、静かになれるところで自分に人間を問いかけてみたいと思って杖をひいたのが奥鬼怒の溪谷の温泉宿だった。ランプの明りを頼りにいろり端で主人と語りあかしたあの日が今でも忘れられない。目あきが目の見えない人に道を教えられたような思い出がよみがえってくる。
公害のない蓮華温泉の星空はきれいだった。人間と宇宙がこれ以上近づいてはならない限界のようにさえ思われたのである。細々と山小屋を守る老夫婦の姿には頭が下がった。人間としてのせいいっぱいのがんばりと生き甲斐が山の宿に光っていた。
(「序文」より抜粋。『日本の秘湯』日本秘湯を守る会1991)

岩本の気持ちはよくわかるなあ。
この便利にして快適さをどこまでも追及する現代、と同時に人々をしてどこかに追いやるのも現代のような気がします。そんな時に秘湯は旅の者を静かにやさしくつつむのです。

この大平温泉は冬季は休業、このシーズンは11月3日までを予定しているとのこと、春は5月の連休あたりから営業を再開するということでした。
そうすると気になるのは、冬の間の積雪のこと。
筆者の住むところでさえ平年の最大積雪深は150センチほど(ここ10年で最も降ったときは265センチ)、ここならきっと500センチとかは普通に積もりそうです。
吾妻連峰の米沢側で秘湯と目される一軒宿は5つありますが(すごいことです。東から、五色、姥湯、滑川、そして大平、新高湯の各温泉)、この大平温泉を含め3つは冬季休業です。
筆者の知る限り冬季に休業する宿でも従業員が常駐して雪下ろしをしたりして湯宿を守るところもあるよう。では当旅館はと聞けば、露天風呂に設置してある脱衣所や覆いなど雪に押しつぶされそうなものは、すべて家屋内に運び込み、屋根の雪は落ちるに任せるということでした。
大平温泉はこんなふうにして風雪に耐えて、111年を刻んでいるのですね。
冬季に休業せざるを得ないというところはみんなそれなりの苦労を重ねているのだと思います。湯を守るって、生やさしいことじゃあないです。

いろいろとよくしてもらった若女将の里美さんと、帰り際に。

錦繡の湯宿にこころ満たされ、この秋によい思い出がまたひとつ。あとは心して冬を待つとします。

(そういえば、楢の木をへし折っていたクマは今はどこをさまよっているのだろう。食べ物にありつけているのだろうか。冬への備えは大丈夫だろうか)。

それじゃあ、バイバイ!

 

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