山歩き

春は来たりぬ 吾妻にも

春が来る山/風間光作

ぬれた土に陽は光つてゐる。
光りはほのかに匂つてゐる。
匂ひは生き生きと流れてゐる。
山に流れて空は晴れてゐる。
空は晴れて雪が解けてゐる。
雪解の朝の匂ひが流れてゐる。
                  『山峡詩篇』青磁社1943/『友へ贈る  山の詩集』串田・鳥見編  社会思想社1967より

風間光作の「春が来る山」は若い日からの愛唱詩。
山に登るようになってからというもの、この、山に訪れる春の光景は実感として沁みるなあ。

ということで、この20日、今期はじめて天元台より登って西吾妻に行ってきました。
西吾妻とは言ってもお花畑の大凹(おおくぼ)の水場まで行き(水場より先の登山道は雪に覆われていました)、そこから引き返して人形石に立ち寄っての戻りです。9時少し前より歩きはじめて11時半くらいまでのほんのちょっとした散歩程度の山道です。

この日は県境越えの移動制限が解かれてはじめての休日ということもあって、ロープウェイの駐車場には福島や宮城、新潟の近県や練馬だとか千葉だとかはるばる釧路のナンバーもあって、楽しみにして西吾妻においでのようでした。自粛自粛で岳人もずいぶんと我慢を強いられましたからね。
けれども西吾妻は終始ガスがかかってあいにくの天候、あたりはすっぽりと霧の中、視界不良で眺望は得られず、遠方からの客人はさぞ残念がったのでは。
でもこちらは幾度も訪れている西吾妻、ガスがかかろうが雨に降られようがどうでもよいのです。山の春の花々に会えるだけでいい、春は来たりぬ吾妻にも、を肌で感じる山行きですから。

歩きはじめてすぐにムラサキヤシオツツジ(紫八汐躑躅/ツツジ科ツツジ属)の淡い韓紅(からくれない)の花が咲いていました。
ヤマツツジ(山躑躅)ともレンゲツツジ(蓮華躑躅)とも違うこのムラサキヤシオの色合いは目にやさしいものです。     

エンレイソウ(延齢草/ユリ科エンレイソウ属)がしっとりと濡れて。
大きなつややかな緑の三つ葉に対して小さな濃い紫の花が印象的なエンレイソウ。
確か尾瀬にあったと思うけど、いつかはまた白花も見てみたいもの。

ショウジョウバカマ(猩々袴/メランチウム科ショウ ジョウバカマ属)。
ショウジョウバカマは里でもありふれたものだけど、高山で見るとまた違った美しさがあるものです。

西吾妻の名花のひとつ、バイカオウレン(梅花黄蓮/キンポウゲ科オウレン属)。
筆者が親しんでいるオウレンは3つあって、他にキクバオウレン(菊葉黄蓮)、ミツバオウレン(三葉黄蓮)があります。
キクバオウレンの場合は花が光る星や線香花火のようで簡単に見分けがつき、ミツバオウレンは花がバイカオウレンとよく似ているけれども名のとおり葉が3枚なので区別できます。
オウレンの名は生薬で、黄褐色の根を健胃整腸のために処方するようです。

下はミツバオウレン(三葉黄蓮/キンポウゲ科オウレン属)。
蕊(しべ)につく滴が何とも。

ユキザサ(雪笹/ユリ科マイヅルソウ属)はまだ蕾でした。

一見タラノメに似たハリブキ(針蕗/ウコギ科ハリブキ属)。
やがて茎にも葉にも異様なほどの針状の棘が出てきます。

木道も霧の中。ワタスゲ(綿菅/カヤツリグサ科ワタスゲ属)がそちこちに。

コバイケイソウ(小梅蕙草/ユリ科シュロソウ属)。
この、葉出(い)ずるを見て、マツダのロータリーエンジンを想像してしまった(笑い)。美しくも脹らんだ正三角形!

ミズバショウ(水芭蕉/サトイモ科ミズバショウ属)にも会いました。

西吾妻最大のお花畑の大凹。
まだ雪渓がたくさん残っており、雪が解けて流れるせせらぎの音も軽やかで。


ヒナザクラ(雛桜/サクラソウ科サクラソウ属)は東北の名花。そして西吾妻にあっても名花のひとつ。
この花は、大朝日岳でも以東岳でも月山でも見ているけれども、西吾妻の大凹も一大群生地です。ヒナザクラはここが南限とのことです。
いつ見ても清楚にして美しいです。

大凹の突き当りの水場で冷涼な水を補給しました。この水、何年前、何十年前にできたものだろう。少なくとも昨日今日の、降った雨がそのまま流れ出ているのではないことは確か。
このいとしい“泉”の看板もずいぶんと痛んできたなあ。

チングルマ(稚児車/バラ科ダイコンソウ属)は、草本のように見えて、実は木です。落葉小低木。
この花のあとに毛をなびかせたような実がついていきます。これが一斉に風になびく様は壮観です。
飯豊山で白い花弁に薄紅をさしたようなチングルマに会ったことがありましたが、特別にタテヤマチングルマ(立山稚児車)と名づけられているようです。

人形石に向かう途中の、オオシラビソ(大白檜曽/マツ科モミ属)の若葉。樹氷を形成する木ですね。
樹氷で有名な蔵王のオオシラビソ(別名アオモリトドマツ)はトウヒツヅリヒメハマキという蛾の幼虫による食害で広大な面積で枯死してしまっています。ゆえに吾妻山系も心配です。吾妻こそはオオシラビソの山なのです。

イワイチョウ(岩銀杏/ミツガシワ科イワイチョウ属)が咲き出していました。名は葉がイチョウ(銀杏)の葉に似ているからと言うけれどもどうだろう。これはこれで美しい花です。

イワカガミ(岩鏡、岩鑑/イワウメ科イワカガミ属)。
イワカガミはルーザの森にも普通に見られますが、高山型の方がピンクが濃いですね。

ベニバナイチゴ(紅花苺/バラ科キイチゴ属)。
ベニバナイチゴは木苺のひとつだけど、こんなに美しい花を持つ木苺は他にあるんだろうか。
我が“ぐりとぐら”が出会っていたのはクマイチゴ(熊苺)とモミジイチゴ(紅葉苺)だったのでは。でももしこのベニバナイチゴに出くわしたなら、ふたりは目を丸くしてひっくりかえるかも知れない(笑い)。花も美しいし、実もまたとても美味です。

霧の中の人形石(1,964メートル)。
岩海(がんかい)の美しさもさることながら、ここにはガンコウラン(岩高蘭)やコケモモ(苔桃)などの貴重な高山植物が育っています。

人形石から北回りで下ってすぐにタカネザクラ(高嶺桜。別名ミネザクラ/バラ科サクラ属)が咲いていました。葉も紅くして、いいサクラです。6月の下旬にして、ぜいたくな花見風情です。
タカネザクラは磐梯山(1,819メートル)の頂上付近にもあったし、サクラ属の中でも最も高い標高を好むサクラ、そして日本で最も遅く咲くサクラです。

北回りの下りはサンカヨウ(山荷葉/メギ科サンカヨウ属)の道。
サンカヨウはまだまだ咲きはじめでしたが、霧雨に濡れた美しい花がそこかしこに。
花びらは雨に濡れて透き通っています。その様はうすく薄く吹いたガラス細工のようで。

ノビネチドリ(延根千鳥/ラン科ノビネチドリ属)。
ハクサンチドリ(白山千鳥)によく似ているけれども、ノビネチドリの方は葉が広いです。

下はシダ植物のヒカゲノカズラ科ヒカゲノカズラ属の種としての“ヒカゲノカズラ(日陰蔓)”であるのは間違いないことだと思うのですが、どうも同定できません。それにしてもみずみずしい黄緑です。

マイヅルソウ(舞鶴草/キジカクシ科マイズルソウ属)の、あたりを埋め尽くす大群落。

里ではもうずいぶん前に終えた花だけれど、タニウツギ(谷空木/スイカズラ科タニウツギ属)がこちらはまだ蕾です。
この花も美しいのだけれど、これを敷地に植える人はこの地方では見当たりません(ところちがえばですが、鑑賞目的で庭園に植栽もする地方もあるとのこと)。というのは、この木の材で火葬の際の骨を拾う箸に利用したことからくる忌み嫌いがあるから。よってこの地方(会津にも同じような言い伝えがあると聞いたことがある)では、タニウツギはその美しさに反して不吉な木とされているのです。
我が家は(親もそうだったけれども)概して因習にとらわれることのきわめて少ない家庭で(因習は健康な精神生活をどれほど阻害することか。因習は差別を生むしね。六曜だとか、字画にしても方角にしても)、美しく咲く花期には室内のしつらえにもしています。

解剖学者の養老孟司がインタビューに答えていた映像を見たことがあったのですが、彼はその時とにかく、「森の効用」を主張していて興味深かったです。
都市というのは歩く道や路面が平らであったり、温度にしても湿度にしても同じような環境を求める・設定する・人工化してしまうという特徴があるとします。これは得てして刺激のない(少ない)空間であり、同時にそれは脳にも刺激が乏しい生活になりがちだということです。ところがこれに対して森(あるいは山)は、ひとつとって歩く道はでこぼこ、前をよく見て注意していないと躓いて転んでしまう。雨、風、日の光、温度、湿度などその時々で変化が生じ、それにどう身体と心を合わせられるかが絶えず求められるのだと。都市は人間に合わせて設計され、森や山は人間になどお構いなく生態系に即して設計されている、ひとにとってどちらが健康的なのかは自明のこと、と。(以上は結構、筆者が膨らませて言っていると思うけど)。

そうなのです。だから筆者はもはや森での生活、山を歩く生活からは離れることができないと改めて思うのです。
この小さな山旅でも、相棒のヨーコさんはいかほどの感嘆の声を上げたでしょう。そう、声を上げたくなるほど新鮮な感動が山にはある、山にはあふれているということなのです。
山は、不思議に静かで穏やかな天上をさえ思わせながら、興奮覚めやらぬ場所でもあるのです。

筆者は1956年生まれですから、この6月で64歳となりました。
そして今、大いに自覚しているのは“致死率100パーセントの人生”(昨年11月に急逝した木内みどりさんの言葉)にあって、「いいところあと10年」ということ。この“10年”という意味は、たとえて言うならリフトトップから歩いて約2時間ほどの西吾妻山(2,035メートル)ぐらいなら軽く歩ける体力・気力が保てるようでありたいということです。もし、それ以上に伸びたら、それは稀なる儲けものという感覚を持っているのです。
この(いつかは必ず終わりが来るという)有限感はいい。終わりがあるから今日は充実する。大切にしたいと思っていることです。

そうそう、今は旭川に住む(小中学時代の同級生の)Nさんが最近、大雪山系の三峰山に登ったとのこと。エゾノツガザクラなどの美しい高山植物の写真を送ってくれました。こういう仲間がいるのは日々の励みであり、幸いを感じますね。


山を下りる途中、ネマガリダケの藪に立ち寄りました。もう最盛期とあって、太いものがたくさんでした。
たった小1時間でしたが、ふたり合わせた重量は6キロでした。家に戻って剥き身にしたら1,940グラム(笑い)。
ネマガリダケというのは、結局は3分の2ほどは不要にして捨てざるを得ないものなのです。
日頃お世話になっている方やお客さんに差し上げたり、喜んでもらえたのもうれしいこと。
残りはやっぱり、鯖缶よろしく筍汁でしょう。このマリアージュは(メールで使い方を教えてもらった。料理では、素材と素材のマッチングをいうのですね)、世界に燦然と輝く米沢のソウルフード!(笑い)


ルーザの森は今、クリ(栗)の雄花が満開です。高い湿気と温度が加わって森中がムンムンとしています。このクリの花の匂いに包まれているのです。
少々口憚(はばか)られることではあるけれど(笑い)、筆者はこの匂いは精液の匂いに似ているとかねがね思っていたのですが、調べるとやっぱり科学的な裏づけがありました。クリをはじめブナ科の木の花の匂いは“スペルミン”という有機物質によるものだそうで、この物質は人間の精液にも含まれているとのこと。やっぱりね。
このクリの花の匂いって、女性にとってどんなふうに感じるものやら。
クマの交尾の時期もまさに今ですよね。クリの花の匂いに誘われるのかどうか。
これも自然の大切なワンシーン。

雑学だけど、“栗花落”という名字があるそうな。これは何と読むかというと、「つゆり」「ついり」だそうです。クリの花が落ちると梅雨の季節だということでしょう。この奥ゆかしくも麗しき日本の文化や。
ただ、こちらでは栗の花が咲いて梅雨ですがね(笑い)。

ルーザの森にはヤマボウシ(山法師/ミズキ科ミズキ属)が咲きはじめました。
花びらのように見える大型の白く美しいものは、実はそうではなくて総苞片とのこと、蕾を包む葉のようなもの。
梅雨どきのヤマボウシ、いいですよね。

夏至を過ぎて、日一日と日が短くなっていくことに少しばかりの寂寥感はあるなあ。日のあるうちにめいっぱい働かなくちゃ!

それじゃあ、バイバイ。