旅の空、飛ぶ声

泥湯紀行’18晩秋(1)

この11月の7日より4日ほど、秋田は木地山の泥湯に湯治に行ってきました。2年ぶり2度目のこと。
これはもう年の初めに決めていたことで、ドアリラの展示会に区切りがつくだろうこの時期をずっと待っていたのです。湯治は、過ぎた日のふりかえりです。スイッチの切り替えです。そしてエネルギーの補給です。
ではなぜ、泥湯?

2年前2016年の夏のこと、それまでこけしというものに一切の興味がなかった筆者があるネット画像を見てブルブルッときたのです。それからというもの憑かれたようにそのこけしの作者について調べ、実際にそのこけしを蒐集しはじめました。
作者は秋田木地山の小椋久太郎(1906-98)。13歳で父親から手ほどきを受け92歳で亡くなるまでの間、同じ型を挽き、“団子梅”と呼ばれる前垂れ紋様とただじっと見つめる無表情の貌を約80年間にわたって描き続けたという人です。久太郎こけしをじっと見ていると、吸い込まれそうにも、心臓を射抜かれそうにもなってくる、そういう真迫。それは妖気と呼んでもよく。
後に知りえたことではありますが、その久太郎こけしに古格を認め、憧れを含んだ眼差しで見つめた一人が写真家の土門拳でした。土門は、岩波書店のオピニオン誌『世界』の巻頭グラビアを飾るべく1967年、豪雪の木地山に向かったということもあり。
こけしは商いの場として温泉地と結びつき、久太郎の場合は小安、秋の宮、そして何より泥湯がベースでした。そういう背景あっての泥湯湯治。

米沢から泥湯まで北に約200キロ、ところどころブツ切れの高速道を使っても5時間。
幹線道路から離れていよいよ泥湯に至るまでの道々の集落の風景の侘しさは格別です。開閉口に板を打ち付けた空き家の多さ、耕作放棄地は拡大し、家族でかつて利用した思い出のじゅんさい沼キャンプ場はやっているんだかどうだか、入浴に利用した立派な公共の宿だったいこいの村は廃墟と化しています。全国各地の中山間地域によく見られる光景がここにも広がっています。じわりじわりと忍び寄り、どうにも抗うことができない現実。あと20年もすれば、人の住んだ痕跡さえも消してゆくのではないのか。

して、見事な紅葉です。狂乱するがごとくの極彩色、ビビットな森のシグナル。
上から、クワ(桑)、イタヤカエデ(板屋槭樹)、そしてキャンプ場わきのカラマツ(落葉松)に絡みつくイワガラミ(岩絡。この若葉は山菜、生を口に入れるとキュウリの味と香りです)、いずれも美しい黄色です。

木地山でも桁倉沼まで来れば泥湯は近し。桁倉沼のすぐ近くに久太郎のかつての本拠がありますが、そのあたりのブナ(山毛欅)の黄色とハウチワカエデ(葉団扇槭樹)の赤。主なき母屋、押し黙ったままの点々たる倉庫群と燃える紅葉の見事な対照。

と、ほどなくなつかしの泥湯です。
泥湯は、現在はたった2軒の素朴な温泉場。しかもつとに有名な奥山旅館は昨年の夏に火事を出して焼失し、焼け残った場所で細々と客を得ながらの再建中。
で、もう1軒が筆者の宿、小椋旅館です。湯守は女将ひとり。前回もそうだったけど、女将は齢(よわい)を重ねてもう賄いは難しいと言い、自炊ならということで了解を得ての宿泊なのです。

前回の湯治で、女将とはたくさんの貴重な思い出があります。母屋の茶の間でサッカーの試合を見せてもらったこと(そのナショナルチームの試合だけは見たかった。女将も野球よりサッカーがいいという)。その時、茶をもらってああだこうだと話しているうちに、実は女将は久太郎の親戚筋に当たり、自身の結婚の儀では久太郎夫妻が仲人をしてくれたこと、よく久太郎の家に遊びに上がっていたこと、そのたびにこけしを持たせてくれたこと、その後の家族の消息や、ただ立派だけでない久太郎の弱さや名工として持ち上げられ続けた日々の後先のこと……。久太郎を追ってやってきた身とすれば、それは涙が出るような貴重な話でした。

通された部屋は前回と同じ自炊棟の6畳間、客は私一人。部屋にあるのは、テーブルと座布団とプラハンガー、それに湯茶ポットと反射式の古い石油ストーブ、他には何もありません。もちろんのこと、テレビなんてものは。近くにガス器具がある台所、それからすぐのところに極上の湯舟が。 飯はどうするって?
そんなのはどうでも。宿にあるやかんやフライパンを使って、レトルトのご飯を温めて、それにふりかけをかけたり、缶詰の封を開けたり、ソーセージをボイルしたり。誰がいるでなし、腹を少し満たして、ワインを少し飲んで。途中で買ったリンゴをむいて……。ラジオを聴いて、地元の新聞を眺め、道の駅で手にした当地の観光案内をちらり……。
そうそう、唯一しのばせてきていた読み物は(娘に借りている)漫画、こうの史代の『夕凪の街 桜の国』。これにはただただ感動しました。『この世界の片隅に』の映画もそして原作の漫画もよかったけど、これも後世に残る名作です。
彼女は1968年の生まれ。戦争の現実からは遠く、筆者よりもさらに遠い人が、取材を重ね、探求し想像力を最大限に発揮して作り上げた世界、よくもこうも戦時下戦時後の日常に接近しえたことか。クリエーターとしてのストイックな魂を思いました。

少しばかり散歩をしてはひと風呂、食べてはひと風呂、新聞に飽きてひと風呂……。
と、うら若い女性がひとり自炊棟にきて、「オバサン、オバサン!」と呼んでいます。「お風呂はどこですかあああ?」。“オバサン”はこの自炊棟にはいないのです。でオジサンの筆者がこれよしと顔を出し、「あっちですよ」と小さな親切(ホントかな)。「横手から休暇でカフェ目指してきたんだけれど、長期の休みみたいで」。そうなんです。こんな場所にもカフェはあって、でも11月に入ってというもの、ずっと休業しているようで。「(風呂から上がったら)お茶でもどうですか」と言えば、「ダイジョウブです」。この“ダイジョウブ”、どこかでたくさん聞いた記憶があるなあ(笑い)。
寝る前にひと風呂、夜半に起き出してひと風呂……、誰もいない、静かな静かな時間。

翌8日の朝いちばん、まだ通行止め規制に入っていない泥湯と秋の宮温泉を結ぶ“こまち湯ったりロード”(県道310号)をクルマで5分ほど行けば、死の累々のような荒涼とした白い風景が広がります。川原毛地獄です。青森の恐山、富山の立山と並ぶ三大霊場のひとつだそうな。いたるところ硫化水素ガスが噴出し、それが雨と結合して草木の生えない土地にしてしまっているということです。安達太良の鉄山もそうだったけど、圧倒的な荒涼感はどこか爽やかでもある。
そうそう、この硫化水素ガスは泥湯の温泉場にも噴出していて、雪の中にこもったガスで4人が亡くなったのは2004年の冬だったろうか。よく覚えているのは、前年の夏に家族で泥湯に来ていたので。あちこちの注意看板を決して侮ってはいけない!
そして、愛車のキャリーに積んであった長靴に履き替えて、ずんずんと谷に向かいました。

ここに流れる水は緑青色を帯びていますが、実はこの流れは湯なのです。そして40分ほども歩いたろうか、そのうちに大湯滝です。落差20メートルの滝は圧巻で、その下の淵は天然の湯舟なのです(知床のカムイワッカ湯の滝を思い出します)。晩秋の現在、湯につかるにはちょっと。手でさわると体温ぐらいのあたたかさでした。
そう、ここも含め、小安、泥湯、秋の宮は火山の真上に位置する、まさしくジオパークの現場。

ブナの落ち葉に埋まった遊歩道にはコシアブラ(漉油)の白い落葉のアクセント。壮観のブナ林はもはや飴色で、イタヤカエデは最後の発光です。そして近くの山はもう冬の風情です。

(つづく)